だい | たいら | たえ〜たが | たき〜たづ | たつ〜たら |
絶間・高尾寺・高倉院・高砂・高師の山・高石の山・たがへ・たがふ・たかまの山
妙→第68号「江口」参照
妙なる法→第138号「九品(ここのしな)」参照
絶えにし人→第109号「雁・雁がね」参照
絶えぬる道→第174号「寂然 01 (贈答歌01)」参照
たかとみの浦→第05号「あきの一宮」参照
薪とならん→第171号「しめる」参照
滝の宮→第164号「しづ枝・下枝」参照
たきの山→第37号「出羽」参照
竹のしずく→第55号「鶯・うぐひす」参照
竹のつぼ→第106号「加茂・賀茂」参照
竹の泊り→第193号「雀・すずめ貝・雀弓」参照
田子のもすそ→第33号「いたく」参照
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【絶間】
物事が続いている途中に途絶えた空間のことです。間隙、切れ間、
隙間のこと。
絶間が無いということは、切れ目がなく、一つの事がずっと続いて
いることを意味します。
05番歌の「絶えぬ間」、06番歌の「ひま絶えにけり」も「絶間」と
同義ですが、参考歌にとどめて、解説は割愛します。
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01 いはれ野の萩が絶間のひまひまにこの手がしはの花咲きにけり
(岩波文庫山家集58P秋歌・新潮970番・夫木抄)
02 秋の月いさよふ山の端のみかは雲の絶間に待たれやはせぬ
(岩波文庫山家集70P秋歌・新潮384番)
松の絶間よりわづかに月のかげろひて見えけるを見て
03 かげうすみ松の絶間をもり来つつ心ぼそくや三日月の空
(岩波文庫山家集70P秋歌・新潮1151番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
同じ國に、大師のおはしましける御あたりの山に
庵むすびて住みけるに、月いとあかくて、海の方
くもりなく見え侍りければ
04 くもりなき山にて海の月みれば島ぞ氷の絶間なりける
(岩波文庫山家集111P羇旅歌・新潮1356番・
西行上人集・山家心中集)
参考01 さらぬだにもとの思ひの絶えぬ間に歎を人のそふるなりけり
(岩波文庫山家集160P恋歌・新潮1304番)
参考02 春しれと谷の下みづもりぞくる岩間の氷ひま絶えにけり
(岩波文庫山家集16P春歌・新潮10番・
西行上人集・山家心中集)
○いはれ野
大和の国の歌枕。奈良県磯城郡、高市郡、桜井市にわたる地域の
古名。現在の桜井市西部から橿原市東部にかけての範囲を指します。
多くの歌は(磐余=いわれ)と(言われ)にかけており、萩、荻
女郎花、薄などの植物が詠み込まれています。
○絶間のひまひま
萩が連なって咲いているのではなくて、間を空けて咲いていて、
その萩と萩の間あいだに、児の手柏の花が咲いているということ。
○この手がしは
和歌文学大系21によると万葉集所収歌にある「児の手柏」は、
(おおどち「オトコエシ=男郎花」の古名)の異名とのことです。
ネットや辞書で調べてみましたが、児の手柏がオトコエシである
という資料には行き当たりませんでした。
(おおどち)とは無論、トチノキのことではないでしょう。
岩波古語辞典では「この手がしは」は、トチノキともあります。
ここでは「この手がしは」の花が咲いているのは萩と同時期と
いうことであり、春に開花する児の手柏とは異なります。
児の手柏の歌はもう一首ありますが、西行歌にある児の手柏は
現在言われている児の手柏と同一ではなくて、別種の植物である
と解釈できます。しかしそれがどの植物なのか実体は不明という
しかありません。
(オトコエシ)
オミナエシ科の多年草。山地に広く自生しオミナエシに似るが、花
は白く、茎、葉に毛が多い。花期は夏から秋。おとこめし。
(岩波書店 広辞苑第二版から抜粋)
(コノテガシワ)
ヒノキ科の常緑潅木、または小喬木。中国・朝鮮に自生し、古く
から庭木とする。高さ2〜6メートル。
葉はヒノキに似て鱗片状で表裏の別なく枝が直立、扁平で掌を立て
たようである。花は春開き単性で雌雄同株。種鱗の先端が外方に
巻いた球果を結ぶ。
種子を滋養強壮剤とする。
(岩波書店 広辞苑第二版から抜粋)
ヒノキ科の常緑小喬木。小枝全体が平たいてのひら状になる。葉は
うろこ状で、表裏の区別がないところから二心あるもののたとえと
された。一説、コナラ・カシワの若葉。またトチノキともいう。
(岩波古語辞典から抜粋)
○いさよふ山の端
(いさよう)のこと。
古語。中世以降は(いざよう)。進もうとして進まない。定まら
ない、ためらう、たゆとう、などの意味があります。
(日本語大辞典から抜粋)
○月のかげろひて
月の光がゆらめいている状況を言います。光がほのめくこと。
「かげろひ」は、あるかなきかの、はかないものの比喩表現として
使われることが多い言葉です。
○大師のおはしましける
善通寺周辺の山のことですが特定はできません。筆の山だと解釈
しても良いと思います。
○くもりなき山
煌々とした月光に照らされて、曇ってはいずに明るく見えるという
ことと、かつて弘法大師が住んでいて山そのものが御威光にあふ
れているということの二つを掛け合わせています。
(01番歌の解釈)
「磐余野には古来有名な萩が咲き誇るが、その間隙を埋め尽す
のは、へつらいへつらい揉み手をするように咲く、無名の
おとこえしの白い花である。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「秋の月がなかなか出てこないのは山の端からだけではない。
雲の絶間からだって随分待たされるよ。」
(反語を二回(かは・やは)重ね、月を待つ切実さを強調。)
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「三日月のこととて、松の葉の絶え間を洩れてくる光もたいそう
かすかなので、三日月のかかる空は心細く思われることだよ。
細い三日月のように。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(04番歌の解釈)
「大師ゆかりの神聖な山に登って海に出た月を見ると、海面は
神々しい月光によって氷のように冷たく澄んでいて、所々に
氷が途切れて見えるのは瀬戸内の島々であった。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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【高尾寺】
京都市右京区にある神護寺のことです。
高雄山の山腹にあり、薬師如来を本尊とする真言宗の別格本山です。
高雄は高尾とも書き、北東の槇尾(まきのお)、栂尾(とがのお)
とともに三尾と言われます。
神護寺は桓武天皇の父、第49代光仁天皇が和気清麻呂に命じて創建
したとの説もありますが、実際には九州の宇佐八幡宮の神託を受けた
和気清麻呂が桓武天皇に奏請して、800年前後にかけて伽藍を創建して
神願寺と号したのが始まりといわれています。
ただし、このお寺は仏教寺院として適さなくて、現在はありません。
場所も京都の高雄ではなくて、大阪の河内に建立されたという説も
あります。高雄には別に創建年代不詳の高雄寺がありました。
和気氏の氏寺です。
この高雄寺と神願寺が合併して神護寺ができたというのが定説です。
延暦21年(802)に最澄はここで法華会を行っています。810年に伽藍
が整備されてお寺の結構が整ったのですが、同年に空海が住持して
最澄などの弟子に金剛界や胎蔵界潅頂の伝授をしており、その名前を
記した「潅頂歴名」が国宝として現存しています。
もともと最澄の弟子だった僧侶も潅頂を受けて空海の弟子に変わった
ことが発端で、空海と最澄は決別しています。
空海はこのお寺で14年間活動しました。
800年代末から900年代初頭にかけて、伽藍も増築されて隆盛を誇った
神護寺も1149年の火災により焼失。それより以降は衰退します。
後白河院と源頼朝の助力を得て、文覚、及び上覚が復興に努めて、
1220年代にはほぼ緒堂宇が再建されたようです。
その後、応仁の乱で衰退。徳川秀忠の時代に、寺観は整えられましたが
明治4年の上地令(あげちれい=寺域を国が接収する命令)によって、
またもや衰退します。が、漸次復興を遂げ、現在に至っています。
「紅葉といえば高雄」という言葉があるほど、神護寺は京都で最も
有名な紅葉の名所として知られていました。室町時代には足利義政が
毎年、紅葉見物に訪れていたそうですので、その頃にはもう紅葉の
名所として知られていたことになります。
ただし現在はそれほど素晴らしい紅葉と言うほどではないと思います。
神護寺には文化財も多く、寂超の子供の藤原隆信筆と伝わる「源頼朝像」
「平重盛像」などもあります。ただし藤原隆信筆かどうかの異論も
あります。
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01 高尾寺あはれなりけるつとめかなやすらい花とつづみうつなり
(岩波文庫山家集248P聞書集171番・夫木抄)
○やすらい花
高尾寺の法華会で一時期行っていた行事。桜の花びらが疫病を広め
るという考え方もあって、鎮花祭として行われた行事です。
(01番歌の解釈)
「高尾寺では趣深いお勤めが行われるなあ、「やすらい花」と
はやして鼓を打つ音が聞こえるよ。」
(和歌文学体系21から抜粋)
(高尾寺歌について)
この歌は聞書集の「嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」
と詞書のついた十三首のうちの一首です。
西行晩年の作品と言われています。具体的には、二度目の陸奥旅行から
帰って、河内の弘川寺に移る前の嵯峨の草庵に住んだ頃、西行71歳、
1188年頃の作品と見られています。(「西行の研究」窪田章一郎氏)
三月十日に行われた神護寺の法華会のことを詠った歌です。
現在も繰り広げられている「今宮神社」の(やすらい祭り)は1154年
から1210年までは中断しています。しかし各寺社で、魔除けのための
鎮花祭として、やすらい踊りが行われていたようです。
当日、女の子達が装いをこらして、神護寺に詣でて「やすらい花よー」
と囃し、鉦や鼓を打って、舞い踊ったということが古書にも見えます。
「高雄寺のまことにあわれでおもしろいつとめよ。「やすらい花よ」と
はやし言葉をかけてつづみを打っているのである。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
これは女児だけでなくて、僧侶も一緒になってつづみを打ったりして
いたものでしょう。ここにある「あはれ」は他の歌にある「あはれ」
とは多少意味合いが違っているようにも感じます。僧侶の本分から離れ
て俗そのものの風流踊りみたいなものに熱中していたのだとしたら、
侮蔑とか嘲笑という気持が西行にはあっただろうと思います。
この時代の田楽の流行も驚くべきことです。集団で踊り狂う様は集団
ヒステリーと言って良いでしょう。後世のおかげ参りと同質のものです。
そういうのは僧侶などはもっとも嫌うものではないかとも思います。
しかしながら西行歌からは嫌悪するような、嘲笑するような感じは
伝わってきません。
「たはぶれ歌」の多くは西行が老年になって幼児の頃を回想しての
連作です。幼児の頃を回顧してのものではない歌も数首あります。
西行の子供の頃には神護寺では「やすらいの法会」をしていません。
やすらい祭りが神護寺の法華会と結びついたのは1182年頃からという
研究がありますので、それを信じれば、西行は二度目の陸奥旅行から
帰京した1187年以降に神護寺に行って、この法華会のことを見聞した
ものでしょう。
したがって、この歌は神護寺の歴史などから考えても、西行が自身の
幼児期を回想してのもの・・・というには無理があります。
(今宮神社とやすらい祭)
京都ではしばしば疫病が流行しました。西暦1000年前後はことに
疫病が大流行しています。この疫病を鎮める御霊会が各地で行われ
ました。八坂神社の祇園祭の起源は祗園御霊会に求めることができます。
朝廷は1001年に新たに神殿三宇を建て、今宮社と名付けて紫野御霊会を
執り行いました。それまでは疫神社と言っていたようです。これが
今宮神社の起こりであり、疫神社から引き継いだ紫野御霊会が
「やすらい祭」の起源です。
この「やすらい祭」は勅使が立ち、官祭として執り行われました。
朝廷、武家からの崇敬も篤くて、1282年には正一位の位階も授けられて
います。歴史の流れの中でそれなりの盛衰はありましたが、今日でも
存続しています。
踊りと囃子で繰り広げられる、やすらい祭は1154年に禁止され、
再興は1210年のことです。禁止の理由は華美になりすぎたからと
いうことです。
このやすらい祭の囃子の歌譜を寂蓮法師が書いていて、現在は国立
博物館に所蔵されています。寂蓮法師の達筆ぶりがわかります。
ただし寂蓮は1139年から1202年までの在世ですから、やすらい祭が
禁止されていた年間に書いたものでしようか?
やすらい祭は禁止されましたが、各寺で3月10日に行われる「鎮花祭」
として定着していて、法華会の魔除けの為に行われるようになりました。
高雄寺(神護寺)の法華会のやすらい踊りも、このことを表しています。
(主に「今宮社由緒略記」及び「京都市の地名」参考)
(神護寺と文覚)
待賢門院と鳥羽天皇の娘である上西門院の北面の武士であった遠藤
盛遠が出家して、文覚と名乗りました。彼は1168年に神護寺の境内に
草庵を建てて住みつきました。
1149年以降、荒廃していた神護寺の再建を果たすために彼の鬼神の
ごとき活動が始まります。1173年、後白河法皇の法住寺殿に出向き
神護寺再興の為の荘園の寄進を強訴しています。結果は伊豆配流と
なりました。
このあたりの経緯は平家物語巻の五に詳しく書かれています。平家
物語の「勧進帳」の文章と、神護寺に残る「高雄山中興記」の中に
記されている「勧進帳」は、ほぼ同文ということです。
1182年、初めて文覚の要請が受けいれられ、後白河法皇や源頼朝から
の荘園寄進もあり、1184年頃には寺観もかなり回復したようです。
1185年に書かれた国宝の「文覚45箇条起請文」の内容は、寺院生活の
規範となるものであり、私には古文は完全に理解はできませんが、
とても立派な内容のものであると思います。
この文覚も、源頼朝が1199年1月に没すると、同年3月に佐渡へ流罪と
なりました。理由は不明です。許されて1201年に帰洛しましたが、
1204年には後鳥羽院によって対馬に配流され、その地で没しています。
文覚の事績としては他に東寺の復興が上げられます。弘法大師を慕う
文覚は、その頃荒廃していた東寺の再建に着手しますが、志半ばに
して流罪となりました。
岩波文庫山家集4ページの後半に西行と文覚のことが記述されています。
この中に、神護寺の法華会に西行が出向いて、一夜の宿を請うての
ことが書かれています。
「文覚が西行を打ちのめすと言っていたが、あの西行は文覚をこそ
打ちのめす面である。」云々という記述は頓阿の「井蛙抄」にある
有名な挿話です。西行と文覚は何度かは面識もあったものでしょう。
(神護寺と明恵)
文覚が配流されてから神護寺の運営は文覚の弟子の上覚によってなさ
れました。上覚は高弁上人明恵の叔父に当ります。明恵は上覚を師と
して1188年に出家して神護寺の僧となります。その直前に奈良の東大寺
で受戒していることが知られています。明恵16歳の時です。
明恵の出家直後頃に、西行と明恵は面識ができたのかもしれません。
神護寺に帰属していた渡賀尾寺は文覚によって再興されました。
しかし、文覚が流罪になってから荒廃に向かっていた同寺を後鳥羽院
の院宣によって明恵が住持して、華厳宗の道場としたのは1206年の
ことです。同時に渡賀尾寺から高山寺と改称しました。
明恵は高山寺を住持しながら、神護寺の指導的な僧として活躍しま
した。1220年から1230年にかけて、神護寺文書に明恵の活動ぶりが
記されています。
西行の到達した究極の和歌観を示す文章として「栂尾明恵上人伝」が
あります。「和歌は如来の真の形態であり、歌を詠むことは仏像を
造り、秘密の真言を唱えるにひとしい」などの内容ですが、西行の
語った言葉として有名なものです。「西行上人常来物語云・・・」で
始まる文章ですが、これは「西行の研究」の窪田章一郎氏も、
「西行の思想史的研究」の目崎徳衛氏も事実だろうとして肯定的に
捉えています。目崎氏は「西行が上覚を高雄に訪ねて、明恵・喜海
らの侍する前で如上の「物語」をしたことは、まことにありそうな
情景である」と記述しています。
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【高倉院】
第80代天皇。父を後白河院、母を平滋子(建春門院)として1161年出生。
1181年、1月に21歳で崩御。1166年に6歳で即位し1180年にわずか1歳の
安徳天皇に譲位しました。
正室は平清盛の娘の徳子(建礼門院)。安徳天皇は高倉院と徳子との
間の皇子です。他には6人の女性との間に6人の皇子女がいます。
高倉天皇在世中は社会的にも政治的にも多難な時代であり、後白河院
と清盛の反目、源平争乱などにより、高倉院も気持ちの休まることは
それほどなかったものと思います。そのことが病没の一因とも言わ
れています。東山の清閑寺に廟があります。
山家集にも記述のある、院の二位(藤原信西の妻・後白河院乳母)→
藤原茂範(院の二位の子)の娘に小督がいます。琴の名手で大変な
美女だったという小督は高倉院に見初められて範子内親王を産んで
います。範子内親王は第34代賀茂斎院となりました。
嵐山に隠棲していた小督のことは平家物語に詳しく描かれています。
芭蕉の嵯峨日記に「松の尾の竹の中に小督屋敷という有り。すべて
上下の嵯峨に3か所有り。いずれかたしかならむ。」とありますので、
芭蕉時代でさえ小督隠棲地は詳らかでなかったことが分かります。
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高倉院の御時、伝奏せさする事侍りけるに
書き添へて待りける
01 跡とめてふるきをしたふ世ならなむ今もありへば昔なるべし
(岩波文庫山家集278P補遺・新勅撰集1153番)
02 たのもしな君きみにます時にあひて心のいろを筆にそめつる
(岩波文庫山家集278P補遺・西行上人集・
御裳濯河歌合・新勅撰集1154番)
○高倉院の御時
高倉院が院政を執っていた期間は1180年2月21日から同年12月28日
までの10か月ほどです。この期間に西行は何かしらのことを文章に
して高倉院に上奏したということになります。
たまたま西行も1180年の正月過ぎには京都にいたものと思われます。
(京都にいた西行が高野山に宛てた「円位書状」は年次の記載はない
ものの1180年3月15日の署名と考えられます。)
わずか10か月ほどでは期間的に短いですから、この詞書は高倉院が
天皇在位中の期間も含めている可能性もあります。
○伝奏せさする事
具体的なことは一切分かりません。政治的なこととか個人的なこと
などは論外ですから、二首の歌の内容も考え合わせるならば、
和歌についての事だと思われます。
勅撰集が1151年の詞花和歌集第一次本完成以来絶えていましたので、
勅撰集撰進について上奏したものとみられています。
この後、後白河院による千載和歌集撰進の下命があったのは1183年、
撰者は藤原俊成、奏覧は1188年の事でした。
○心のいろ
詠者の心のありようのこと。心情を言います。
○筆にそめつる
自分の感情を筆に載せて奉るという意味。
(01番歌の解釈)
「昔の跡を求めて古きを慕う、そうしたおちついた世であってほしい。
現在だって、このまますぎて行けば昔になることは当然なことだ。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(02番歌の解釈)
「まことに頼もしいことだ。私の信頼申し上げ尊敬申し上げる君が
大君(天皇)としておいでになるありがたい時に際して、かねて心に
思っていることを筆に書きあらわしたことである。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
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【高砂】
固有名詞としては播磨の国の歌枕で、現在の兵庫県高砂市を指します。
和歌では実際に播磨の国の高砂という地を詠った歌もありますが、
多くは高砂という土地とは関係なく普通名詞として使われ、「尾の上」
という言葉を引き出すための枕詞として用いられています。
「高砂」はある程度高い丘や山を表していて、その上の方、頂あたり
が「尾の上」です。
「高砂」及び「高砂の尾上」歌はたくさんありますが、その多くは
鹿や松などの景物が詠みこまれています。
高砂の松もむかしになりぬべしなほゆく末は秋の夜の月
(寂蓮法師 新古今集740番)
秋萩の花さきにけり高砂のをのへの鹿は今やなくらん
(藤原敏行 古今集218番)
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01 高砂のをのへをゆけど人もあはず山ほととぎす里なれにけり
(岩波文庫山家集274P補遺・西行上人集)
02 浪にしく月のひかりを高砂の尾の上のみねのそらよりぞ見る
(岩波文庫山家集275P補遺・夫木抄)
○をのへ
尾上。山の上。峰の頂上あたりのこと。
○里なれにけり
ほととぎすが山から里に下りたことによって、旧暦の夏も大分
過ぎたということを暗示しています。
(01番歌の解釈)
「高砂の尾上を行くけれども人にも逢わない。ここに棲んでいた
山時鳥は山を出て人里に棲みなれてしまい、人々もその声を
聞こうとして山を尋ねないのだな。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「波の上に一面に敷いたように照りわたる美しい月光を高砂
(兵庫県南、加古川河口)の峯の上の空から眺めることである。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
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【高師の山・高石の山】
和歌に詠われてきた「高石・高師」については、現在の大阪府
高石市と愛知県豊橋市高師町の二ヶ所があります。
高石市のほうは万葉時代からたくさんの歌に詠み込まれています。
「高師の浜」の用例がほとんどで、「高師の山」とする用例は歌
では見つかりません。文章では高野山との関係で「高師の山」が
記述されていますから、和泉の国の高師の山で間違いないものと
思います。しかし和泉の国の「高師の山」とは、どの山を指すのか
私には分かりません。
一方、三河の高師は更科日記に「高師の浜」の記述がありますが、
歌には「高師の浜」の用例は私の知る限りは一首のみです。
ほぼ「高師の山」として用いられています。
そのことを考えると、ともに可能性があると認めた上で、乱暴では
ありますが、(浜)の場合は和泉の国の「高石」、(山)の場合は
三河の国の「高師」と考えてもいいのではなかろうかと思います。
西行歌は2首ともに「山」ですから、ほぼ三河の高師の歌だろうと
思います。「高師」は愛知県豊橋市高師町に現在も地名が残って
いて、高師山は標高60メートルほどの丘ということです。
(大阪府高石市の歌)
大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ
(置始東人 万葉集巻一)
音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ
(裕子内親王家紀伊 百人一首第72番)
沖つ波たかしの浜の浜松の名にこそ君を待ちわたりつれ
(紀貫之 古今集915番)
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01 こぎいでて高石の山を見わたせばまだ一むらもさかぬ白雲
(岩波文庫山家集234P聞書集55番・夫木抄)
02 朝風にみなとをいづるとも舟は高師の山のもみぢなりけり
(岩波文庫山家集276P補遺・夫木抄)
○さかぬ白雲
桜を「白雲」に見立てています。遠景では白雲のように見える桜の
花が一群れも咲いていないという、桜の咲く前の季節を表しています。
下の歌のように、「白雲」を桜の暗喩として用いている西行歌は
10首ほどあります。
おしなべて花の盛に成にけり山の端ごとにかかる白雲
(岩波文庫山家集30P春歌・新潮64番・西行上人集・
山家心中集・御裳濯河歌合・千載集・御裳濯集)
吉野山一むらみゆる白雲は咲きおくれたる櫻なるべし
(岩波文庫山家集35P春歌・新潮142番・
西行上人集・山家心中集)
○とも舟は
友舟。高師の港を一緒に出港した僚船のこと。
○もみぢなりけり
「とも舟」の主語が曖昧さを感じさせますし、「もみじなりけり」
もよく理解できない表現です。あるいは少し誤写があるようにも
思わせます。
(01番歌の解釈)
「船を漕ぎ出して高師の山を見わたすと、まだ一固まりも
咲かない、白雲のような桜は。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「朝風を受けて港を出てゆく友舟(連れ立ってゆく舟)は高師の
山の紅葉が風のために水の上に散らばっているように美しく
見えているよ。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(豊橋市高師と西行歌)
愛知県豊橋市にある高師町は渥美半島の根元に位置しています。
私見ですが、01番歌、02番歌ともに三河の高師に遊覧しての実景歌
だと思います。01番歌は伊勢在住時代に渥美半島に渡って詠んだ歌
だろうと思います。聞書集に収められているということ、季節は
春先だということを考え合わせると、伊勢在住時代に詠まれた歌
だと推定していいと思います。
02番歌も陸奥までの旅の途中の遊覧ではなくして、伊勢時代の歌
ではなかろうかと思います。僚船を仕立てて一緒に高師の港を
出たということは、懇意にしている人々との遊覧を思わせるから
です。仮に高野山を離れてから住んだ伊勢時代の歌ではないと
しても、伊勢の人々との交友を思わせる一首です。
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◎ 雲のゐる梢はるかに霧こめて高師の山の鹿ぞ啼くなる
(鎌倉右大臣 新勅撰集)
◎ 猶しばし見てこそゆかめたかし山ふもとにめぐる浦の松原
(藤原為氏 続古今集)
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【たがへ・たがふ】
動詞の「違ふ=たがふ」。自動詞ハ行四段活用。他動詞ハ行下二段活用。
叛くこと、逆らうこと、食い違うこと、誤ること、間違えること、
違約すること、教えからはずれること、などの意味を持ちます。
「違ふ=たがふ」に終助詞の「な」が接続することによって、強い
禁止や願望を表します。
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01 賤のめがすすくる糸にゆづりおきて思ふにたがふ恋もするかな
(岩波文庫山家集146P恋歌・新潮594番・夫木抄)
02 から國や教へうれしきつちはしもそのままをこそたがへざりけめ
(岩波文庫山家集229P聞書集19番・夫木抄)
春になりける方たがへに、志賀の里へまかりける人に
具してまかりけるに、逢坂山の霞みたりけるを見て
03 わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ
(岩波文庫山家集14P春歌・新潮09番・
西行上人集・山家心中集)
04 筆の山にかきのぼりても見つるかな苔の下なる岩のけしきを
善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の御師
かき具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。
四の門の額少々われて、大方はたがはずして侍りき。
すゑにこそ、いかゞなりけんずらんと、おぼつかなく
おぼえ侍りしか
(岩波文庫山家集114P羈旅歌・新潮1371番)
05 あふと見しその夜の夢のさめであれな長き眠りはうかるべけれど
此歌、題も、又、人にかはりたることどももありけれど
かかず、此歌ども、山里なる人の、語るにしたがひて
かきたるなり。されば、ひがごとどもや、昔今のこと
とりあつめたれば、時をりふしたがひたることどもも。
(岩波文庫山家集164P恋歌・新潮1350番・
西行上人集・山家心中集・宮河歌合・千載集)
06 いとどしくうきにつけても頼むかな契りし道のしるべたがふな
(讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・
新潮1138番・西行上人集追而加書・玉葉集)
○賤のめ
身分的な意味で卑しい女性のこと。身分が低い女性。
○すすくる糸
賎の女が裾とる糸に露そひて思ふにたがふ恋もするかな
新潮版は上のようになっていて、(裾とる糸)は衣類を紡ぐ行為に
なります。
岩波版の(すすくる糸)は、涙で糸を煤けさせて汚してしまった、
という意味になります。
○ゆづりおきて
自分の涙で紡いでいる糸を汚してしまったのだけれども、男の
ことを思って涙を流したのだから、責任は恋しい男にあるという
転嫁する気持のことをいいます。
○から國
(からくに)と読みます。古くは朝鮮半島南部を指す言葉ですが、
転じて現在の中国を指す言葉になりました。
私には、中国を中心として朝鮮半島を含めた一帯を指す言葉と
しての認識があります。
○つちはし
土でできた橋のこと。
○春になる
「春になる」とは立春のこと。したがって「方たがえ」は、
節分の「方たがえ」と分ります。
方たがえのために京都から志賀の里に行く人に同道して行くと、
逢坂山が霞んでいる光景が見えたということです。
○方たがへ
「方違え(かたたがえ)は陰陽道でいう凶方に向かうさいに
行われる習俗。前夜、別の方角に泊まるなどして、方角を
変えてから目的地に向かう。」
(講談社 日本語大辞典より抜粋)
方たがえの基準はさまざまであって、節分の方たがえとか、
年単位、三年単位のものまであります。天一神の60日周期、
太白神の10日周期などもあって、一定の法則で動いています。
それらのいるところに凶事があるということですから、凶のある
方向を忌むこと、(方忌=かたいみ)、その方向と合わさる
ことを避けるために回避行動をしました。それが「方たがえ」です。
源氏物語にも、この方たがえのことが、何度も書かれています。
節分の夜は、自邸ではなくほかの家で過ごすことによって、
自邸には方忌が及ばないと信じられていたそうです。
(朝日新聞社刊 (平安の都) 角田文衛 編著を参考)
○逢坂山
都と近江を隔てる逢坂山の事。陽は東から上りますし、春も東から
やってくると信じられていたようです。
○わきて今日
いつもと違ってとりわけ今日は・・・ということ。
○筆の山
香川県善通寺市には「五岳山」と言われている山があります。
我拝師山(481M)、中山(440M)、火上山(409M)、筆山(296M)、香色山
(153M)の五山を指します。
現在では我拝師山と筆山は別の山としてありますが、西行時代は
筆山は我拝師山や中山と一続きの山として見られていたものでしょう。
○かきつき登り
「掻き付き登り」。しがみつくように、よろぼうように登ると
いう様を言います。筆の山の(筆)と(かき)は縁語です。
○善通寺
香川県善通寺市にある善通寺のことです。弘法大師空海は
善通寺市の出生です。
善通寺は空海が出生地に建立したお寺で、父親の法名をつけて
「善通寺」としたものです。
高野山、京都の東寺と並んで真言宗の三大聖地です。
○大師の御師
弘法大師空海の師、仏教創始者のシャカ(仏陀)のことです。
○四の門の額
東西南北の四方に山門があったということです。大師自筆の
「善通之寺」という額があったようです。
この額は現存していません。
○長き眠り
俗界の塵にまみれたまま仏教的に少しの悟りも得ない状態で無明の
闇の中に住み続けていること。俗界の迷い多い世界から仏教的に
覚醒しないこと。
俗世にいることを自省的に、あるいは批判的にいう言葉。
○山里なる人
西行自身を指すようです。「山里なる人」の言うことを聞いて、
書きとめたということです。ここでは「作者以外の他者」の存在
を強く印象付ける重要な点ですが、他者も含めて確実なことは
分かっていません。
次号に少し触れてみます。
○ひがごと
「僻事」と書き、事実ではないこと、誤っていること、間違って
いることを指します。
○をりふしたがひたる
(折節違ひたる)の意味です。その時々に違っている、ということ。
通して見た時に、その時々の記述に異動があるということ。
○いとどしく
【いと】 (1)ほんとうに。まったく。(2)たいして。それほど。
【いと‐ど】 いといとの転。いっそう。ますます。
【いとど‐し】(1)ますます激しい。(2)ただでさえ・・・なのに。
いっそう・・・である。
(講談社「日本語大辞典」より抜粋)
○契りし道
死後の安息のための導きを言います。臨終のときの導師の役目を
西行に頼んでいたものでしょう。
(01番歌の解釈)
「身分の卑しい女が、糸の端をとって紡ぐ時に、思い余った涙が
こぼれて思うようにつなげないごとく、自分もままならぬ恋を
することであるなあ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「漢土で、張良は兵法の嬉しい教えを得た、その土橋の上の
教えもそのまま受けてそむかなかったのだろう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「とりわけ今日逢坂山が霞んで見えるのは、春が山越えで手間
どっているからだろうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(04番歌の解釈)
「我拝師山に登る。筆の山というだけあって、かきつくように
して登ってみると、そこには大塔の礎石が苔の下に埋まっていた。
その大きさは大師の慈悲の大きさを語るようだった。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(05番歌の解釈)
「あの人に逢うと見たその夜の夢は覚めないであってほしい。
恋ゆえの無明長夜の眠りは心憂いことであるだろうが。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
この歌にある詞書については次号に少し書くことにします。
(06番歌の解釈)
「以前からあなたを頼りにしておりましたが、このような事態と
なって讃岐に下りましてからはいよいよあなたしかいません。
お約束下さったように間違いなく私を後世に導いてくださいませ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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【たかまの山】
「高間山」とも「天山」とも表記します。
奈良県御所市と大阪府南河内郡の千早赤阪村にまたがる金剛山の
別称です。金剛山の標高は1225メートル。
真言宗醍醐寺派の修験者の聖地でもあります。
金剛山、そして金剛山の北側の葛城山の東麓奈良県側の山裾は
「葛城の道」とも言い、たくさんの古代の遺跡があります。
伝説上の「高天原」も一説には金剛山にあったとも言われています。
尚、古くは金剛山も葛城山と言っていて、西行の「葛城」の歌も
現在の金剛山を指すと解釈しても間違いではないでしょう。
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01 聞きおくる心を具して時鳥たかまの山の嶺こえぬなり
(岩波文庫山家集45P夏歌・新潮190番・
西行上人集・山家心中集)
○心を具して
心を一緒にして…。心のままに、心と共に…という意味。
○時鳥
鳥の名前で「ほととぎす」と読みます。春から初夏に南方から
渡来して、鶯の巣に托卵することで知られています。
鳴き声は(テッペンカケタカ)というふうに聞こえるようです。
岩波文庫山家集の(ほととぎす)の漢字表記は以下の種類があります。
郭公・時鳥・子規・杜鵙・杜宇・蜀魂・呼子鳥・死出の田長の八種。
(01番歌の解釈)
「一声鳴いて次の場所へ飛び去ってゆく郭公は、その声を惜しみ
つつ送る自分の心と共に、間の山の空高く峯を鳴き越えて
行ったようだ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
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かづらぎやたかまの桜さきにけりたったのおくにかかる白雲
(寂蓮法師 新古今集87番)
雲ゐなるたかまの桜ちりにけりあまつをとめの袖にほふまで
(後鳥羽院 後鳥羽院集679番)
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