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 だい たいら たえ〜たが  たき〜たづ   たつ〜たら


   平清宗・平宗盛・平清子・平清盛・平忠盛・平時忠

【右衞門督=平清宗】

1170年〜1185年。生年は1171年説あり。15歳か16歳で没。
清盛の三男である宗盛の嫡男。清盛の孫の一人です。
まだ幼児である三歳で従五位下。年々位階が上がり、11歳で公卿に
列しています。本来ならこういう暴挙はありえないことですが、
平氏専横の時代ゆえの特例です。
1185年3月、平氏が壇ノ浦で滅亡した時に父親の宗盛と共に生け捕り
にされました。都に護送されて引き回されてから鎌倉の源頼朝の
もとに連行されます。護送役は源義経。義経は頼朝の勘気を蒙って
鎌倉の直前の腰越に留め置かれましたが、宗盛は鎌倉に入ります。
清宗も鎌倉に入ったものと思いますが確証がありません。
そして同じく義経によって都に連れ戻される途中、東山道の近江
篠原宿で父子ともに処刑されてしまいました。清宗の弟の能宗も
ともに処刑されました。

【八嶋内府=平宗盛】

平宗盛のことです。1147年〜1185年。39歳で没。
清盛の三男で母は平時子。兄弟に重盛、重衡、徳子などがいます。
重盛は清盛の嫡男として清盛の専横をいさめた人でもありますし、
重衡は興福寺や東大寺を焼いた武将。徳子は高倉天皇のもとに入内
して第81代安徳天皇の母となります。
清盛が1181年に没後、宗盛は平氏の家督を継ぎました。一族を率いる
人でありながら暗愚な人であったようです。

壇ノ浦で捕えられた宗盛父子は義経に護送されて鎌倉に入ったのですが、
また京都に引き返すことになります。帰京途中に、宗盛と清宗親子は
近江の篠原で斬殺されました。1185年6月21日のことです。

内府とは内大臣の別称です。宗盛は1182年に内大臣になりました。
1番歌は1185年6月21日以降に詠われた歌であり、西行最晩年の伊勢
時代以降の歌とみてよく、作歌年代が特定できます。

【母のこと=平清子?】

「武士の、母のこと」「泣き給ひける」とは誰を指すか、誰が泣いて
いるのか不明です。清宗の母は平清子(1146〜1178)です。清盛の継室の
平時子の妹に当たり、清子は姉の子である宗盛の正室になりました。
叔母と甥の結婚という近親婚です。こういう事例はたくさんあります。
平清子は1178年没ですから、宗盛、清宗が斬首された平家滅亡年
よりも7年も早くに死亡しています。

西行とは親しかった人に平時忠がおり、時子は時忠の姉、清子は妹
です。時子は壇ノ浦で安徳幼帝を抱き、三種の神器の内の二つを携えて、
海の藻屑となりました。故に時子本人は宗盛、清宗の生け捕り、それに
続く斬首については知りようもありません。
ですから「武士の、母のこと」「泣き給ひける」とは誰を指し、誰が
泣いているのか、この詞書からでは特定できないままです。
あるいは近江の国篠原で宗盛、清宗と共に斬殺された宗盛の子で
清宗の異母弟の能宗の母かとも思います。清宗にとっては義理の母に
当たります。

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    八嶋内府、鎌倉にむかへられて、京へまた送られ給ひけり。
    武士の、母のことはさることにて、右衞門督のことを思ふ
    にぞとて、泣き給ひけると聞きて

01 夜の鶴の都のうちを出でであれなこのおもひにはまどはざらまし
     (岩波文庫山家集185P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

○鎌倉にむかへられ

1185年5月、平宗盛らが罪人として鎌倉に護送されたことをいいます。

○武士の、母のこと

とても分かりにくいセンテンスです。もう少し具体的な記述がなけ
れば解釈は困難です。

○右衞門督

右衛門督は右衛門府の長官を指し、官の職掌名のことです。

ここでは平宗盛の子供の清宗のことです。父親の宗盛と同日に
近江(滋賀県)の篠原で処刑されました。15歳(平家物語は17歳と
しています。享年と満年齢の違いなのでしょう)でした。
清宗の母は、西行とも親しかった平時忠の妹の清子です。

源平の争乱の時代に伊勢に居住していても、西行は都にいた歌人
達だけでなく、様々な人たちとの交流が続いていたことを思わせる
詞書の内容です。
いろんな情報が伊勢の西行の元に集まっていただろうと思います。

○夜の鶴

子供のことを思う親の気持ちの比喩表現といわれます。
白楽天の詩句「夜鶴憶子籠中鳴」から採られた言葉とのことです。
釈迦と関連する言葉である「鶴の林」とは関係ないようです。

 夜の鶴都のうちにはなたれて子をこひつつもなきあかすかな
                  (高内侍 詞花集)

西行の歌は、詞花集の上記歌を踏まえてのものでしょう。

(01番歌の解釈)

「夜の鶴は都の内を出ないで欲しい。そうしたら亡き子の悲しみ
には迷わずには居られよう。」
       (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

「夜の鶴(親)は都(籠)の内を出てあれよ。そうしたらわが子
への愛情に迷わないであろう。」
              (和歌文学大系21から抜粋)
             
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【平清盛(六波羅太政入道)】

六波羅太政入道とは平清盛のことです。清盛は平安時代後期の政治家
です。西行とは1118年の同年生れで、西行にも深く関係する人物です。
清盛は白河天皇落胤説がありますが、はたしてどうでしょうか。
高望王平氏の棟梁として太政大臣にまで上り詰めますが、その専横に
より一族が滅ぶことにもなりました。
その評価はいろいろあるにしても、平安時代末期という時代の、日本
の中世の幕開けを綺羅星のように駆け抜けた人物の一人です。

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     六波羅太政入道、持経者千人あつめて、津の国わたと
     申す所にて供養侍りける、やがてそのついでに萬燈会
     しけり。夜更くるままに灯の消えけるを、おのおの
     ともしつきけるを見て、

01 消えぬべき法の光のともし火をかかぐるわたのみさきなりけり
         (岩波文庫山家集108P羈旅歌・新潮862番)

○持経者

法華経を専門的に読誦する僧侶のこと。

○千人あつめて

千人の僧侶による供養を指しています。

○津の国わた

(津の国)は「摂津の国」のこと。(わた=輪田)は神戸市兵庫区に
あり、現在の神戸港の一部分を指します。
1180年、清盛が遷都した福原は、輪田のすぐ北です。

○萬燈会

法会の形式の一つ。懺悔や贖罪を願って、一万の燈明を灯して供養
することを目的とした法会です。

○ともしつきける

(灯し継ぎける)です。火が消えそうになっても次々と灯し続ける
ことです。

(01番歌の解釈)

「末法の世なので消えてしまいそうになる法灯の光を、ここ大輪田泊
では盛大な法会によって見事に灯し継ぎ、勢いを盛り返しているよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋) 

◎詞書に明示はされていませんが、この法会には西行自身も臨席して
いたものと思います。清盛に招かれて参加した可能性もあります。
確証は一切ないのですが、西行は単なる招待客ではなくて、企画や
運営・進行に携わっていたのかもしれません。

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『北面の武士及び西行と清盛について』

◎北面の武士

院の御所の北方の詰所に詰めて警護する武士。平安時代中期、白河
上皇の時から置かれた。四位・五位を上北面、六位を下北面という。
              (大修館書店「古語林」から抜粋)

北面とは元来殿舎の一区画を指す言葉で、常時そこに祗候する者が、
「北面祗候五位六位」と称され、そのうち諸大夫の家格の者が上北面、
それ以下の侍層が下北面(北面下臈)となった。
北面の組織が創始されたのは康和四・五年(1102.3)ころのことで、
上下約80人。」
      (佐藤和彦・樋口州男編「西行のすべて」から抜粋)

西行の佐藤家は祖父の季清、父の康清、そして西行と三代続けて
北面の武士となっています。
        (インターネット情報「ウィキペディア」参考)

「西行法師ぞ北面の者(もの)にて、世にいみじき歌の
聖(ひじり)なめりしが…」      
                (作者不詳「増鏡」から抜粋) 

創設の時期は、白河法皇の政治介入に批判的だった関白・藤原師通が
急逝し、摂関家が弱体化した康和年間(1099年〜1104年)と推測
される。
当初の北面は近習や寵童(男色の相手)など、院と個人的に関係の
深い者で構成されていたが、院の権勢が高まると摂関家に伺候して
いた軍事貴族も包摂するようになり、その規模は急激に膨張した。
新たに北面に加わった軍事貴族は、それぞれがある程度の武士団を
従えた将軍・将校クラスであり、元永元年(1118年)、延暦寺の
強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達した
という(『中右記』5月22日条)。
     (インターネット情報「ウィキペディア」から抜粋)

下北面御幸の後には矢負ひてつかまつりけり。後には皆其例なり。
            (和田秀松著「官職要解」から抜粋)

後鳥羽院の時に「西面の武士」の組織が新たに作られました。
しかし1221年の承久の乱後に「西面の武士」は廃止。「北面の武士」
は規模縮小して、約25年後の後嵯峨院の時代には上北面は12人、下
北面は20人となっています。
             (和田秀松著「官職要解」を参考)

若き日の西行と清盛は(中略)心情的にも親近感をいだきながら親交
をむすんでおり、それがこの期においても続いていたものとみられる。
(阿部註、「この期に」とは1172年の摂津の国輪田での千僧供養の時
を言います。)
            (有吉保著「西行」153ページから抜粋)

共に若き日鳥羽院北面に勤仕した西行と清盛の、年来の交誼の
あらわれ…
     (目崎徳衛著「西行の思想史的研究」69ページから抜粋)  

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西行が鳥羽院の下北面となったのは西行19歳(1136年)から20歳頃と
みられています。以後、23歳での出家の時まで北面の武士を続けました。
祖父の季清、父親の康清も北面の武士でしたから、代々続けて北面の
武士になった家系ということになります。

西行の誕生年頃には北面の武士の勤仕形態も大きく異なってきます。
白河院によって北面の武士が組織された初期は、天皇を警護する
滝口の武士の役割と同等のものが意識されていたはずですが、都や
院政に直接に危害を及ぼしそうになった寺院などの対外勢力に対抗
するために、武家集団も北面の武士となります。それにつれて、
その人数も飛躍的に増えて行きます。
平家では正盛→忠盛→清盛と続き、源氏では為義→義朝という武家
集団の棟梁が代表して院と都の警護に付きました。その一族郎党、
家人の兵士までもが北面の武士となっていたものと思われます。
だからこそ人数は膨れ上がります。

西行が鳥羽院の北面となった頃には北面の武士の人数は1000人を
はるかに越えていただろうと考えられます。
それらのすべての人を院の北面の詰所に常駐させるなどということは
事実上不可能ですから、軍事的な役割を担う武士たちはそれぞれの
居宅にいて、何か事があるたびに参集し、活動していたものでしょう。
つまりは時代の推移によって北面の武士の活動の在り方も変わって
きたと考えられます。北面の武士の制度そのものが時代の要請に
応じて変容せざるをえなかったのです。

清盛は18歳で従四位下という位階であり、位階から見れば下北面では
なくて上北面です。父親の忠盛が北面の武士でしたので、忠盛の嫡男
として一族とともに北面の武士に組み込まれたものでしょう。
清盛と西行は同じく鳥羽院の北面とはいえ、当然に出仕形態が大きく
異なっていたもののはずです。清盛は20歳で肥後の守ともなっていて、
西行とは同年齢でありながら身分は大きく違っています。
西行がいくら身分の違いを越えて物怖じせずに親しくなれるという
稀有な才能を有していたとしても、北面の武士時代の二人が親しく
なるということはほぼありえないことだと私は思います。当然に
互いに見知ってはいて、儀礼的に言葉を交わしたことはあったとしても、
単なる知人の範囲を越えなかったものと思います。
従って高野山宝簡集に残る円位書状や今号の歌にある清盛と西行の
関係から、北面の武士時代にまで遡って、2人が特に親しかったと
する推測は早計過ぎると思われます。

◎今号は編集の都合で『北面の武士及び西行と清盛について』を
少し記述しました。来号に清盛関係の年表を記述してから、その後に
再度、清盛と西行の関係を見て行きたいと思います。

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       1 平清盛及び西行と社会関係年表

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1118年  平清盛、佐藤義清生まれる。
     清盛の父は平忠盛。母は不明。祇園女御の妹とも言われる。
     1107年から鳥羽天皇治世。ただし実権は白河上皇にあり、
     白河上皇は1086年から院政を執る。

1119年  鳥羽天皇第一皇子の崇徳天皇生まれる。母は待賢門院。
     崇徳天皇は白河院の子という風説がある。

1123年  北面の武士、平忠盛、源為義らが延暦寺の僧徒を撃退する。
     鳥羽天皇譲位し、第75代、崇徳天皇即位する。
 
1129年  白河院77歳で没する。清盛、12歳で佐兵衛佐従五位となる。
     鳥羽院の院政開始。

1135年  平忠盛、海賊を捕えた功により嫡男の清盛18歳で従四位下となる。

1136年  西行、清盛19歳。西行、鳥羽院の北面となるか?
     大原三寂の父の為忠没する。

1137年  忠盛の熊野本宮造営などの功により、清盛、20歳で肥後守となる。

1140年  清盛、従四位上となる。義清、出家して西行と名乗る。
     鳥羽院に出家のいとまを告げる歌を詠む。 

1141年  鳥羽院出家。崇徳天皇譲位。第76代近衛天皇即位。

1145年  待賢門院、三条高倉第で没する。45歳。

1146年  清盛、肥後守・安芸守を兼任。正四位下に進む。

1148年  西行、陸奥行脚の後、高野山に居を移すか?

1149年  西行、この年、忠盛の西八条の屋敷での歌を詠むか?

1153年  平忠盛没する。

1155年  近衛天皇17歳で崩御。第77代後白河天皇即位する。

1156年  清盛、高野山の根本大塔の再建をする。
     7月、鳥羽院崩御。保元の乱勃発。清盛、戦功により播磨守
     となる。
     源為義などが誅される。崇徳上皇、讃岐に配流。
     西行に鳥羽院及び崇徳院に関する歌がある。

1158年  後白河天皇譲位。第78代二条天皇即位。

1159年  清盛、上西門院の殿上人となり、源頼朝が蔵人となる。
     平治の乱勃発。

1160年  清盛、従三位、次いで参議正三位となる。
     美福門院44歳で没。藤原隆信や藤原成通が遺骨を高野山に
     納める。
     岩波文庫山家集に「今日や君…」の歌がある。

1162年  清盛、従二位となる。
     西行の弟や甥の仲清、能清、隣接する荒川荘に押妨を繰り返す。

1163年  紀伊田仲荘と高野山領荒川荘の境界を定める。

1164年  崇徳院、讃岐で没し白峰陵で火葬する。
     千手観音信仰に篤い後白下院の発願により、清盛が蓮華王院
     (三十三間堂)建立。 

1165年  二条天皇23歳で崩御。第79代六条天皇即位。
     西行、二条天皇女房の三河内侍に歌を贈る。

1166年  清盛、正二位、次いで内大臣となる。

1167年  清盛、従一位に進み太政大臣なる。3か月で太政大臣を降りる。
     安芸の厳島神社に写経32巻を奉納する。(平家納経)

1168年  清盛、病気のため出家。六条天皇譲位して高倉天皇即位。
     西行、四国の旅に出る。

1172年  摂津の国輪田浜で萬燈会。西行も臨席するか?
     萬燈会の歌を詠む。

1173年  清盛、輪田泊を築く。

1177年  西行、五辻斎院発願の蓮華乗院を高野山で造営する。
     鹿ケ谷の謀議発覚。藤原成親、俊寛、平康頼など捕えられる。
     讃岐の院に「崇徳院」の諡号を贈る。強盗多く世情不安。

1178年  11月、平徳子、安徳天皇を産む。

1179年  7月、平重盛没。42歳。
     11月、清盛、後白河院の廷臣39人の官職を解く。
     後白河院、鳥羽殿に幽閉される。後白河院の院政停止。

1180年  西行、紀州の日前神社造営の課役から高野山が免除されるよう、
     清盛に申請する。三月、円位書状を高野山に宛てる。 
     2月、高倉天皇譲位して第81代安徳天皇、満1歳で即位。
     4月、以仁王の令旨を源行家が諸国の源氏に伝える。
     5月、源頼政、以仁王など宇治川の戦いで敗死。
     6月、福原に遷都する。11月に京都に戻る。 
     10月、富士川の戦いで平氏の大軍、干戈を交えず敗走。
     12月、平重衡、清盛の命令で東大寺や興福寺を焼く。

1181年  1月、後白河院、再度院政を執る。
     2月、清盛熱病にて没する。64歳。源平合戦、盛んになる。
     養和の大飢饉のために京中に餓死者が満ち溢れる。

1183年  7月、平氏一門、西八条第を焼き都落ちする。安徳天皇、
     建礼門院などが行動を共にする。源義仲入京する。
     8月、三種の神器がないままに後鳥羽天皇即位する。
平氏一族の官位を無効とし、500か所ほどの所領を没収して
     義仲に140か所、行家に90か所を与える。残りの大部分は
     頼朝に与える。
     11月、義仲、天皇・院の御所である法住寺を包囲して焼く。

1184年  源義仲、近江粟津で義経軍に敗れて戦死する。
     平氏、勢力を盛り返して九州から福原に戻る。
     2月、一の谷の合戦で平氏敗走。平維盛、那智で入水自殺。
     4月、崇徳院廟を建てる。

1185年  2月、屋島の合戦で平氏敗走。
     3月、壇ノ浦の合戦で平氏一門の多くが戦死して平氏滅亡。
     平時子、安徳天皇を抱き、三種の神器の神剣とともに入水。
     建礼門院、平時忠、宗盛、清宗などが生け捕りとなる。
     6月、宗盛、清宗、能宗親子は近江の篠原で斬殺される。
     7月、京都大地震。圧死者多数。
     8月、源行家と義経の追討令が出る。
     9月、建礼門院、大原の寂光院に移る。

1186年  8月、西行、鎌倉で頼朝と面談して、陸奥に向かう。

1189年  4月 義経、陸奥の衣川の館で敗死。
     9月、陸奥の藤原氏滅亡。
  
1190年  2月、西行、河内国弘川寺で73歳の生涯を閉じる。

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(源平両氏の系譜)

もともとは源氏も平氏も天皇の末裔であり、天皇の皇子が臣籍降下
して名乗った姓氏です。
伊勢物語の業平の在原氏も臣籍降下した氏族です。
平安時代の天皇はみさかいなしに子供を作っていました。でも次の
天皇になれる皇位継承者は一人しかいませんから、大部分の皇子は
僧籍に入るか臣籍降下するしかありませんでした。
それが源氏や平氏の出発点です。

源氏は嵯峨天皇の皇子、皇女から臣籍に下り源姓を名乗り始めました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は清和天皇を祖とする河内流源氏です。
清和天皇ではなくて陽成天皇を祖とするという説もあります。

平氏は桓武天皇皇子の葛原親王の長男である高棟王を祖としていて、
この系統に平時子、平時忠、平滋子がいます。
他方、葛原親王の三男である高見王を祖とする平氏からは坂東で乱を
起こした平将門や伊勢平氏の清盛などが出ています。
源氏にしても平氏にしても臣籍に下って以後、300年間ほどの長い
時間をかけて各地に土着して勢力を扶植してきました。
そして平安末期に両勢力が最後の激突をしたということになります。
平氏は事実上、1185年に壇ノ浦で滅びましたが、源氏の方も1219年に
三代将軍源実朝が殺されて、源頼朝直系は途絶えました。

(清盛の母)

清盛の母の名前は不明です。平家物語では、白河院の寵愛を受けて
いた「祇園女御」であり、白河院は身ごもっていた彼女を平忠盛に
与えたとあります。従って清盛の父親は白河院であるとしています。
しかし、この落胤説は明白な誤りだと言われています。
祇園女御の妹説もありますが信用できないらしく、誰とは名前は
知られないけれども白河院の女房であった女性が忠盛の初めの妻で
あり、この女性が清盛の実母のようです。この実母は清盛が三歳の
時に死別したという説があります。

(田仲荘と平氏の関係)

紀伊田仲荘は代々、佐藤家が管轄権を持つ預所として管理・運営して
いたのですが、1162年より以前から隣接する吉仲荘などとともに、
高野山領荒川荘に対しての日常的な乱暴狼藉が目立ってきました。
荒川荘の作物を勝手に収奪したりしていたようです。
これは荘園の境界問題が根本にあってのことです。荒川荘、田仲荘
ともに譲り合うということはなくて、この問題は後白河院政でも協議
されています。正確にはよく分からないのですが、初めに荒川荘が
田仲荘の領有部分を削って、境界を定めたようです。西行の弟の仲清、
そして甥の能清及び基清は荒川荘に無断で編入させられた自領であった
部分を守り、かつ取り戻すためにという名分によっていたものでしょう。
この問題は1163年に「院丁下文」によって、一応の判決が出ています。

ところがこれが佐藤家には承認できないものであったらしくて、以後
には仲清・能清勢力は紀伊国の国司とも結びついて、武家集団として
荒川荘や他の勢力との対決姿勢を強めて行きます。
この時の紀伊国司である源為長は平氏方でしたから、源平争乱に向かう
過程で仲清たちも平氏側勢力として見られていたものです。
ことに平氏が日本の多くを知行するようになって、紀伊国は平頼盛が
知行しており、能清は領主の摂関家よりも平氏勢力との結びつきを
より強くしていきます。
その証拠として、宝簡集の1181年の文章には平重衡や平維盛の指示を
受けていたと見られる記述があります。

1181年、清盛が没し1183年には平氏一門が都落ちして、平氏の命運が
ほぼ決まりました。同年8月、後白河院は平氏一門の官職を解き、
平氏と平氏に加担した勢力の所領を没収しています。
能清は平氏が絶望的になってから頼朝に急接近を試みたようですが、
うまくは行かなかったようです。
田仲荘はこの時に源義仲に譲渡されたものと考えられます。
「吾妻鏡」元暦元年条に田仲荘に隣接する池田荘の尾藤知宣が、義仲
から田仲荘を賜ったという文章がありますので、それは事実と思われます。

高野山にいた西行は高野山と甥の能清との争いの一部始終を間近で
見ていたことになります。仲清や能清からも西行に対して逐一報告が
届いていたものと思います。
能清が平氏との結びつきを強くしたのも、西行の指示があったのかも
知れません。その背景として、清盛と西行の共通の意志があったという
ことも考えられます。

西行は1179年、あるいは1180年の早くには居を伊勢に移しています。
居を移した原因は特定できようはずはありませんが、自身の弟や甥を
当事者としての、高野山との世俗的な勢力争いに疲れた果てにという
見方もできそうです。
伊勢にいても、田仲荘などの情報は西行のもとに届けられていたと
みなしてよく、そうであるなら西行の義仲嫌いという感情も理解
できるように思います。
  (この項の殆どは、目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」を参考)

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「参考文献」

荒川庄は鳥羽院領であったが、保元元年(1156)鳥羽法皇の死ととも
に当庄の預所内舎人佐藤仲清が示を無視して侵掠し、停止を命じる
本家藤原忠通家の政所下文や後白河上皇の院宣、あるいは荒川庄を
伝領した美福門院令旨(以上宝簡集)などを無視して侵掠を繰返した。
仲清の子内舎人左衛門尉能清の時代は、折から源平争乱に際会したが、
当庄内に「以外構城、集千万軍兵」、荒川庄に乱入して、田中庄領に
しようとした(年未詳4 月24 日付「荒河庄百姓等言上状案」宝簡集)
(『日本歴史地名大系』31巻)

吉仲庄の者達は、田中庄預所佐藤仲清らと呼応して、度々荒川庄を
侵掠した(応保2 年11 月日「東寺挙状案」又続宝簡集など)。
長寛元年(1163)7 月4 日の左京権大夫平信範書状(宝簡集)には下司
実綱法師の名が知られるが、これらの者が侵掠などをしていたもので
あろう。
なお同年平信範は当庄宛てに濫行停止の下文をも出している…後略。
(同年7 月25 日「関白家政所下文」同集)(『日本歴史地名大系』31巻)

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(高野山宝簡集の円位書状)

西行と清盛の交渉が確認できるのは、山家集では先号の「消えぬべき」
歌の一か所のみです。
それ以外には、高野山所蔵の「円位書状」があります。この「円位書状」
は西行自筆稿で国宝に指定されています。
それ以外の西行自筆稿には一品経和歌懐紙があり、これも国宝に指定
されています。

円位書状の内容を記述してみます。

「原文」

日前宮事自入道殿頭中将許如此遣仰了返々神妙候頭中将御返事書うつして
令進候入道安藝一宮より御下向之後可進之由沙汰人申候へハ本をは留候了
彼設他庄ニハふき被切へきよし以外沙汰候歟是大師明神令相構御事候
歟入道殿御料ニ百万反尊勝タラ尼一山ニ可令誦御何事又/\申候へし
蓮花乗院柱絵沙汰能々可候住京聊存事候て于今御山へ遅々仕候也能々可御
祈請候長日談義能々可被入御心候也 謹言
     三月十五日 円位

「現代語での説明」

「日前国懸宮造営役が高野山領あるいは特に蓮華乗院領に宛課された
ので、西行が旧知の平清盛に免除斡旋方を依頼したものと思われ、
清盛から頭中将に対して申し入れる所があり、頭中将がおそらく色
よい返事をよこした。そこで返事の写しを高野山のしかるべき人に
送り(文書の宛先は欠けている)清盛の恩に報いるために百万反尊勝
陀羅尼を一山で誦するよう指示したのである。そして次手に、蓮華
乗院の柱絵及び長日談義についても指示を与えている。」
        (目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」から抜粋)
(阿部註。「次手」は原文のままです。)

○日前宮

紀伊国にある「日前神宮」のこと。現在の和歌山市にあります。

○入道殿

平清盛のこと。清盛が出家して入道となったのは1168年。

○頭中将

誰か特定できないようです。円位書状に記述年や宛先が欠けていて、
何年における頭中将か分からないためです。
目崎徳衛氏は「西行の思想史的研究」の中で源通親ではないかと
しています。
他に平重衡、平維盛、樋口定能などが考えられるようです。

○尊勝タラ尼

仏頂尊勝に祈願の成就を祈る呪文。罪を消したり、寿命を延ばす
などの利益があるという。
普遍的な真理を理解し、教えを保持して忘れず、善法を保つ
という経文。密教では梵語で唱える長文の呪文を言う。短いものを
真言という。
             (古語林「大修館書店」から抜粋)

○長日談義

ここでは単純に講義するという意味ではないと思います。当時、
高野山で対立していた二大勢力である金剛峰寺派と伝法院派とが
一堂に会して、長い時間をかけて研鑚しあい合議し合うという
ことが西行の真意ではなかろうかと思います。

(西行と清盛の関係についての私見)

来年のNHKの大河ドラマ「平清盛」では、清盛と西行は親友と
いう設定だと何かで知りました。本当に親友などであったのかと
いう疑問が私にはあります。
西行と清盛の関係を示す明証としては、先号に紹介した「消えぬべき」
歌と、今号に紹介した円位書状の二点しかありません。
もちろん円位書状ができる前や輪田での萬燈会に参席する前には、
あるいは清盛本人と西行との間で何らかのやり取りがあったとは
思います。安芸一宮までの行脚や忠盛邸での歌などにも清盛の影が
ちらつきはしますが、明確に清盛本人であることが分かるのは上記
二点のみです。これでは二人の関係性を論じるには明証が少なすぎ
です。
西行は同じ仏教者として輪田での萬燈会開催には同意して参席し、
円位書状については仮に清盛と面識が一切なくても為政者である
清盛に善処方を依頼するということなどは考えられそうです。
つまり、その二つが清盛との年来の関係故に成立したということ
でもなかろうとも思わせます。
西行が源氏ではなくて平氏に好意的であっただろうことは推察でき
ますが、清盛との関係を断定するには明白で確定的な資料が、その
二点だけでは乏しすぎるように思います。

【忠盛】

平忠盛の事です。1096年〜1153年の在世。58歳で没。
伊勢平氏の平正盛の嫡男。母の名は不明。子供に清盛、経盛、頼盛、
忠度などがいます。
13歳から官職につき順調に位階を上げています。京の治安や瀬戸内海
の海賊追捕などに功績をあげていて、白河院や鳥羽院の信頼も厚かった
ということです。最終官位は正四位上でした。
各国の受領を歴任し、かつ、宋との貿易にも関わっていて巨万の富を
蓄えた人物でもあり、それはそのまま清盛に受け継がれましたから、
平氏全盛のもとを築いたともいえます。公卿を目前にして没しています。

歌人としても精力的に活動していて、金葉集初出歌人であり家集に
「平忠盛集」があります。崇徳院の久安百首にも参加しています。

  ゆく人もあまのとわたる心ちして雲の波路に月を見るかな
             (平忠盛朝臣 詞花和歌集297番)

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      忠盛の八條の泉にて、高野の人々佛かきたてまつること
      の侍りけるにまかりて、月あかかりけるに池に蛙の鳴き
      けるをききて

01 さ夜ふけて月にかはづの聲きけばみぎはもすずし池のうきくさ
               (岩波文庫山家集270P残集31番)

○八條の泉

京都の八条にあった忠盛の屋敷の泉のこと。
忠盛邸は現在の梅小路公園の一筋北側にあったようです。
京都駅の少し西北に位置します。

○高野の人々佛かきたて

高野山の僧侶たちが忠盛邸で仏像を描いたということです。
何年のことかは不明です。

(01番歌の解釈)

「さ夜ふけて、夏の月の光の下、池に鳴く蛙の声を聞くと、その声は
もとより汀も涼しい。池の面には浮草も漂っていて。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(さ夜ふけて…歌について)

「さ夜ふけて…」歌の作歌年代は忠盛没年の1153年までとわかって
いますが、正確な年次は不明です。1153年は西行36歳であり、居を
高野山に移してから数年を経ています。
詞書の内容からは高野山の僧侶たちが忠盛邸で絵を描いている所に
行き合せたということですから、高野山の僧侶たちと同一行動を
取っていたわけではないでしょう。
高野山の大塔が1149年の落雷により焼失、すぐに忠盛、次いで清盛が
再建事業に携わったのですが、完成したのは忠盛没後の1156年です。
そのことと高野山の僧侶たちが忠盛邸に赴いて絵を描いたことの
直接の関係は不明です。しかし高野山が落雷で被災以後にお礼の
意味で僧侶たちが忠盛邸に赴いたという可能性もあり、そうであれば
作歌年代は1149年から1153年までと絞り込むことができます。

(久安百首)

崇徳院出題による百首歌集。出題は1142年か1143年。完成は久安
六年(1150年)です。これを部類本といいます。さらに藤原俊成
撰による非部類本が撰進されましたが、これは当時の世相の混乱
により奏覧はされませんでした。
部類本の作者は崇徳院・公行・公能・行宗・教長・顕輔・忠盛・
親隆・覚雅・俊成・堀川・兵衛・安芸・小大進の14名でしたが、
久安百首は生存歌人の歌という制約がありましたので、撰進の
作業中に没した歌人は除かれました。
行宗、覚雅、公行が編纂中に没したため新たに季通、清輔、実清
が加えられました。
この久安百首が俊成撰の千載和歌集の重要な資料となりました。
            (桜楓社「和歌文学辞典」を参考)

【平時忠(中宮太夫)】

1127年(?)から1189年まで在世。能登の配流先にて60歳ほどで没。
高棟王に連なる堂上平氏の平時信の嫡男です。平清盛などの伊勢平氏
とはその系譜が異なります。
姉に清盛の継室の時子、妹に後白河院の女御になる滋子がいます。
もう一人の妹である清子は平宗盛の正室となっています。
姉の時子の子に宗盛、知盛、重衡、盛子、徳子がいます。
妹の滋子の子に高倉天皇がいます。滋子は建春門院と号します。
姪の徳子は高倉天皇に入内して安徳天皇を産みます。徳子は建礼門院
と号します。

平安末期という激動の時代を自身の才知と血縁の力によって如才なく
動き回った策士という印象です。天皇や院の近臣として活動して
いますが、たびたび配流されました。しかし、そのつど許されて
本位に復しています。

時忠がかの有名な、おごる平家を象徴する「この一門にあらざらむ
者は皆人非人なるべし」と発言した人物です。
時忠も平家都落ちから1185年の壇ノ浦まで平氏一門として姉の時子や
姪の徳子、そして安徳天皇などと行動を共にしました。つまり、時忠も
平家滅亡と自身の死は覚悟していたのですが、宗盛などと一緒に生け
捕りになって都に連れ戻されました。
都に戻った時忠は武士ではなくて文官だったという理由もあって死罪に
はならず能登に配流となりました。
とはいえ、すぐには配流先に行かずに、しばらく都にとどまって
源義経に娘を嫁がせたりしています。
それは、平家物語では機密文書を義経から取り戻すため計略のように
描かれていますが、はたしてどうなのでしょう。
権謀術数には疎すぎる義経を懐柔するという時忠なりの保身の計算が
働いた果てのことかもしれません。

時忠が平徳子の中宮太夫であったのは1179年から1181年までです。
それ以前には同じく徳子の中宮権太夫を1172年から務めています。
西行は遅くとも1180年の夏までには伊勢に居を移して、以後は高野山
に登った形跡がありませんので、時忠中宮太夫時代とすれば1179年の
冬の出来事であり歌であるという断定が可能だと思います。ですが、
わずか一年しかありませんので、もっと幅を広げて中宮権太夫時代も
含めて考えるべきかもしれません。

山家集中に時忠の歌は贈答歌の一首のみしかなく、歌数からみれば
西行と時忠が特に懇意にしていたとは思えません。しかし贈答歌
からは二人の長い交誼を思わせるような、互いを思いやるという
ような、親しい関係である者のみが持つ気持ちを伺うことができます。

この歌を読む時、必然として205号紹介の宗盛・清宗のことを詠った
「夜の鶴・・・」歌を想起させます。
時忠にとって宗盛は義兄であり義弟、清宗は甥、宗盛の妻であり清宗の
母である清子は実妹に当たります。
あるいは時忠が宗盛たちの斬殺のことを伊勢の西行に伝えたのかも
しれない、とも思わせます。

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      常よりも道たどらるるほどに、雪ふかかりける頃、
      高野へまゐると聞きて、中宮大夫のもとより、
      いつか都へは出づべき、かかる雪にはいかにと
      申したりければ、返りごとに

01 雪分けて深き山路にこもりなば年かへりてや君にあふべき
    (西行歌) (岩波文庫山家集134P羇旅歌・新潮1057番)
  
02 分けて行く山路の雪は深くともとく立ち帰れ年にたぐへて
    (平時忠歌)(岩波文庫山家集134P羇旅歌・新潮1058番)

○道たどらるる

道を行くこと。歩いて行くほどに、積雪のために道が辿りにくいと
いうこと。

○高野へまゐる

高野山に行くこと。西行の立場では高野山に戻ることになります。

(01番歌の解釈)
 
「この深い雪を分けて山路を辿り、高野の御山に籠ったならば、
年が改まり雪もとけてから都へ帰り、あなたにお逢いする
ことになるでしょうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「分けて行く山路の雪はどんなに深かろうと、たちかえる年と
ともに早く都に帰りなさい。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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       ◆ 平氏の主な人々 ◆

山家集に名前のある平氏の人々は先号と今号で紹介した6名です。
その他、西行とも山家集所収歌ともほぼ関係ありませんが、西行と
同時代を共有した人々ということで、平氏の主な人を清盛とも
絡めて簡単に記述します。

『平重盛』

平清盛の嫡男で1138年から1179年在世。42歳で病没。
六波羅の東南の小松に屋敷を構えていたので「小松殿」とも呼ばれ
ました。
平家物語では清盛の専横をいさめたりして、いかにも温厚篤実な
人物として描かれてはいますが、実際の重盛はそれほど理知的でも
人情家でもなかったものと思います。
清盛を実際以上に極悪非道な一面のある人物として描くためには、
対置する人物像を作り上げるとより効果的ですが、その役割が重盛
だったものでしょう。ただし重盛は同時代の宮廷人からは、おおむね
良く見られていた人物でした。
1177年6月の鹿ケ谷事件の首謀者である藤原成親は重盛の義兄に当たり、
かつ嫡子の維盛も成親の娘を正室にしていますから、成親と重盛の
結びつきは深いものがあります。
成親の娘の母は藤原俊成の娘ですから、俊成と成親も姻戚関係に
あります。
成親は後白河院の佞臣のような人物であり、鹿ケ谷事件で捕縛されて
備前国に配流。1177年7月に惨殺されたようです。
このことにより、重盛は大きな失意を味わったものと思います。

『平重衡』

平清盛の四男で母は平時子。1156年から1185年の在世。29歳で没。
平氏の中では武勇に優れた人物であったようです。
南都の反平氏勢力である興福寺や東大寺に業を煮やした清盛は、
重衡に命じて南都を攻撃させます。
その時に東大寺も興福寺も灰燼に帰しました。
1184年12月、一の谷の合戦で心ならずも生け捕りとなり、鎌倉に
護送されます。敵地の鎌倉で、しかも罪人としてありながら、その
堂々とした態度や教養人ぶりが鎌倉方の注目を浴びたようです。
頼朝も饗応の宴席を設けたりして厚遇しました。
後に南都方に引き渡されて殺害されました。1185年6月のことです。

『平維盛』

正盛→忠盛→清盛→重盛→維盛と続く平氏の直系嫡流で、父は重盛、
母は身分の低い女性だったようです。
1158年から1184年在世。29歳で那智で入水したというのが定説ですが、
生き延びていたとする伝説もあります。
1179年重盛没。1180年、維盛は総大将として出陣した富士川の戦いで
敗走。1181年清盛没。維盛は1183年にも倶利伽羅峠の戦いで大敗。
平氏の失望は大きく、維盛は評価を大きく失墜させたようです。
加えて維盛の妻が成親の娘ということもあって、維盛は平氏の嫡流で
ありながら平氏の中では居場所を無くしていきました。

嫡流とはいえ、まだ若い維盛が源平争乱の非常時に平氏一統を束ねる
力量もないはずですし、清盛死後は平氏の統帥権は時子と宗盛にと
移って行きます。
結局、維盛は一の谷の敗戦後に平氏一門からは離脱して、高野山の
滝口入道を戒師として出家、1184年に那智で入水。
建礼門院右京太夫集に維盛を悼む歌がありますから、入水死は事実
なのでしょう。あるいは補陀落渡海思想が維盛にあったのかもしれ
ません。
平家物語によれば維盛の子の六代も探し出されて斬殺されました。
六代は文覚の庇護のもとにありましたが、文覚自身が流罪の憂き目に
逢ってから後、六代は殺されました。

『平敦盛』

平忠盛の三男で清盛の弟の経盛の末子(三男)です。
1169年から1184年在世。16歳で敗死。
一の谷の合戦で熊谷直実に討ち取られて、その後、直実は世の無常を
感じた果てに法然上人に帰依して出家、蓮生坊と名乗りました。
兵庫県の須磨寺に敦盛のお墓があります。敦盛愛用の「青葉の笛」も
同寺に保存されています。
謡曲、能、幸若舞で「敦盛」が作られてから、平氏の人物では清盛に
比肩するほどに知られています。
織田信長も幸若舞の「敦盛」の「人間五十年 化天の内をくらぶれば 
夢幻のごとくなり…」という一節を好んで謡ったようです。

『平頼盛』

1133年(1131年とも)から1186年まで在世。55歳?没。
平忠盛の五男で母は池の禅尼。清盛の異母弟です。清盛没後に清盛の
三男の宗盛が平氏の棟梁となりますが、平氏一門としての疎外感
めいたものを常に持ち続けていたようです。
1183年7月の平氏都落ちにも同道していません。そればかりか、
同年に鎌倉に下向して頼朝には随分と厚遇されています。
平氏一門が滅亡する中で頼盛の家系は存続して、朝廷でも要職に
ついています。

『平忠度』

1144年から1184年まで在世。一の谷の合戦で41歳で没。
平忠盛の六男で清盛の異母弟。文武両道に優れていたようです。
忠度を有名にしたのは千載和歌集の歌に関係してのことです。
平氏が1183年の都落ちの時に、忠度は一度は都を出ていたものの
引き返して、歌の師でもあり千載和歌集の撰者でもある藤原俊成に
自詠の一巻を託しました。
平氏追討令が出ていて朝敵でもあったため、「読人知らず」として
千載和歌集に一首撰入しています。

 さざ波や志賀の都は荒れにしをむかしながらの山桜かな
              (読人知らず 千載和歌集66番)

『平徳子=建礼門院』

平清盛と平時子の娘で1155年出生。没年は1213年説がありますが、
正確には不明です。
名を平徳子と言い、後白河院の子である第80代高倉天皇に入内。
1178年に安徳天皇を産んでいます。1181年、建礼門院の院号宣下。
1183年の平氏都落ちに際して一門と行動を共にし、1185年の壇ノ浦
の海戦では入水しましたが、生け捕りにされて都に連れ戻されました。
同年五月、東山の長楽寺で出家。その後に大原の寂光院という尼寺
に移り住みました。長楽寺には建礼門院の遺品なるものがあります。
真偽は不明ながら、後白河院が寂光院の建礼門院を尋ねたことが、
平家物語の「大原御幸」に描かれています。
源頼朝は建礼門院を粗略には扱わず、建礼門院分として二か所の
荘園を与えました。

『平時子』

生年は不明。1126年生説があります。没年は1185年。
高棟王に連なる堂上平氏の平時信の娘で、弟に時忠、妹に滋子や
清子がいます。
時子は清盛の継室となり宗盛、知盛、重衡、盛子、徳子などを
産んでいます。
1181年の清盛没後、源平争乱はいよいよ激しくなりますが、嫡流の
重盛や二男の基盛はすでに没しているため、時子と宗盛のラインが
嫡流となりました。宗盛を補佐してというよりは時子が主導的な
役割を果たしたのではなかろうかとさえ思われます。
1185年、壇ノ浦にて安徳幼帝を抱いて入水。惜しい人物の一人です。

『平滋子=建春門院』

平時子や時忠の妹。1142年から1176年在世。35歳で没。
上西門院の女房でしたが、その美貌が後白河院の目にとまり、寵愛を
うけて第80代高倉天皇を産んでいます。病気で(腫物?)で若くして
没しましたが、この滋子の死を契機にして後白河院と清盛の対立は
先鋭化して行きます。滋子は後白河院と清盛との間にあって両者を
とりなす緩衝材の役目を十分に果たしていたようです。
高倉天皇は1168年から1180年まで在位しました。

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