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うえ〜うき うぐ〜うず うた〜うつ うな〜うの
うは〜うん


【右大将きんよし】 (山、179) 藤原公能を参照。

【右大臣さねよし】 (山、202) 藤原実能を参照。

 【歌あつめ】

 勅撰集や私撰集をを編纂するために歌人の歌を集めていると
 いうことです。

 参考までに西行存命中の勅撰集は以下の三集です。

 金葉和歌集。

 第五番目の勅撰集。1124年、白河院の院宣。撰者は源俊頼。
 第一、第二の奏覧本は拒絶され、1126年の第三奏覧本が認めら
 れる。
 1125年の第二奏覧本が金葉集として流布しています。
 
 詞花和歌集。

 第六番目の勅撰集。1144年、崇徳院の院宣。撰者は藤原顕輔。
 第一次本の完成は1151年。評価の定まっていた後拾遺集歌人が
 優遇されて当代歌人は冷遇されたとも言われます。
 第二次本も奏上されました。崇徳院はさらに改撰希望のよう
 でしたが、顕輔の死去によってなされませんでした。
 寂超長門入道はこれを不満として「後葉集」を1155年頃に編纂
 しています。

 千載和歌集。

 第七番目の勅撰集。1183年、後白河院の院宣。撰者は藤原俊成。
 1188年の奏覧。その後も改訂作業が続いたようです。
 詞花集と比較すると明らかに当代の歌人が重視されていて西行の
 歌も円位法師名で18首入集しています。
 保元、平治、それに続く源平争乱というこの時代の社会的な変化、
 飢饉、疫病の流行、地震などの現象も反映しての、無常な世の中
 を見据えての述懐的な歌が多いとも言えます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   左京大夫俊成、歌あつめらるると聞きて、歌つかはすとて

1  花ならぬことの葉なれどおのづから色もやあると君拾はなむ
         (岩波文庫山家集180P雑歌・新潮1239番・
      西行上人集・山家心中集・続拾遺集・長秋詠藻)  

2  世を捨てて入りにし道の言の葉ぞあはれも深き色は見えける
     俊成
         (岩波文庫山家集180P雑歌・新潮1240番・
      西行上人集・山家心中集・続拾遺集・長秋詠藻)  

  新院、歌あつめさせおはしますと聞きて、ときはに、
  ためただが歌の侍りけるをかきあつめて参らせける、
  大原より見せにつかはすとて
                    
3  木のもとに散る言の葉をかく程にやがても袖のそぼちぬるかな
               寂超長門入道
         (岩波文庫山家集178P雑歌・新潮929番)

4  年ふれど朽ちぬときはの言の葉をさぞ忍ぶらむ大原のさと
         (岩波文庫山家集178P雑歌・新潮930番)
        
○左京大夫俊成

 藤原俊成のこと。俊成が左京太夫であった期間は1161年から
 1166年までです。
 右京太夫も歴任していて右京太夫の期間は1168年から1175年
 までです。
 西行と俊成のこの贈答歌は1178年成立の俊成の「長秋詠藻」以前
 の歌であるという確実な資料があります。
 俊成は「打聞(うちぎき)、私撰集とほぼ同義」というのに右京
 太夫の頃から取り掛かっていて、そのための歌を集めていたと
 言われています。この「打聞」が千載集の前身でもあるようです。
 したがって詞書にある「左京太夫」は「右京太夫」の誤りです。
 尚、俊成は1170年皇后宮太夫、1172年皇太后宮太夫も兼任して
 います。

○歌あつめらるる

 後白河院の院宣による「千載集」の撰進のための歌稿を集めると
 いうことと解釈されますが、俊成私撰集の「打聞」用のために
 歌を集めているということになります。

○新院、歌あつめさせ

 新院とは崇徳院のこと。詞花集のための歌稿を集めるということ
 です。
 崇徳院には久安百首歌がありますが、こちらは当時に活躍して
 いた歌人14名の百首歌ですから、「歌あつめさせ」は詞花集の
 ことであるのは間違いありません。
 ところが寂超が父親の為忠の歌を清書して西行に見せましたが、
 詞花集には為忠の歌は入集しませんでした。
 そこで、1155年に寂超は「後葉集」を編んでいます。詞花集に
 対してのひどい不満があったものと思います。

○かく程に

 (言の葉)を掻き集めると言うことと、書き集めて(清書する)
 ということを掛け合わせています。

○そぼちぬる

 涙でびっしょりと濡れること。

○寂超長門入道

 生没年未詳。藤原為忠の三男とも言われ大原三寂「常盤三寂」の
 一人です。西行ととても親しかった寂然の兄です。
 俗称は為隆(為経とも)とも言われます。西行より3年遅れて
 1143年の出家。子の隆信は1142年生まれですから、生まれた
 ばかりの隆信を置いて出家したことになります。
 女房の「加賀」は後に俊成と結婚して定家を生んでいますから、
 隆信は定家の同腹の兄になります。
 178Pと215Pに西行との贈答歌があります。

(1番歌の解釈)

 花のように美しい歌などありませんが、まれにはそれなりにいい
 歌が混じることもあろうかと、お読みいただいて、撰集に取り
 上げて下さればと思います。
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(2番歌の解釈)

 仏道修行して和歌にも精進なさったあなたの歌ですから、豊かな
 情感が深々と感じられます。
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(3番歌の解釈)

 父が書いておいた歌稿を、再び自分が進覧すべく清書するうちに、
 感に堪えずそのまま袖が涙に濡れてしまったことでありますよ。」
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(4番歌の解釈)

 時を経ても常盤の里の常盤木のように、朽ちることのない和歌を
 集められ、大原の里であなたはさぞ亡き父君のことを偲んで
 おいででしょう。
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 【うたてきこと】

 不快だ、嘆かわしい、なさけないことだ、という意味のある言葉
 です。
 普通ではない状態、異様な状態も指しますから、西行の歌では
 ちょっとありえない不思議な光景を見た思いから出た言葉だろう
 と思います。

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   伊勢の二見の浦に、さるやうなる女の童どものあつまりて、
   わざとのこととおぼしく、はまぐりをとりあつめけるを、
   いふかひなきあま人こそあらめ、うたてきことなりと申し
   ければ、貝合に京よりひとの申させ給ひたれば、えりつつ
   とるなりと申しけるに

1 今ぞ知るふたみの浦のはまぐりを貝あはせとておほふなりける
      (岩波文庫山家集126P羇旅歌・新潮1386番・夫木抄)
      
○伊勢の二見の浦

 三重県度会郡二見町の海辺の集落のこと。夫婦岩で有名です。

○さるようなる

 「何か特別の・・・」ということですが、ここでは貝を拾うと
 いう目的にかかる言葉ではなくして「女の童」にかかるもの
 です。
 漁師の娘とも違い、それなりに身分のある家の娘達、という
 ふうに解釈できます。

○わざとのこと

 特別の目的があってしているように思えて・・・ということ。

○いふかひなき

 伝わらないので言っても意味がないこと。
 身分を問われるようなこともない、ということ。

○おほふなりける

 覆うこと。あわせること。

(歌の解釈)

 「そうだったのか。都ではやりの貝合は、二見浦の蛤の蓋・身を
 合わせていたのだったか。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 「今はじめて分った都では貝合わせといってこの二見の浦の蛤を
 合わせていたのだったよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
        
【歌といふこと】

崇徳院が讃岐に配流されてからの歌です。崇徳院を中心とした
当時の都の歌壇の衰退を憂えている寂然との贈答の歌です。

【歌と申すことは】

 年若い慈円の修行する比叡山延暦寺の無動寺大乗院で慈円に漏ら
 した言葉です。歌を詠むことを絶ってまで祈願しているという
 ことを表しています。

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  讚岐へおはしまして後、歌といふことの世にいときこえざり
  ければ、寂然がもとへいひ遣しける

1 ことの葉のなさけ絶えにし折ふしにありあふ身こそかなしかりけれ
         (岩波文庫山家集183P雑歌・新潮1228番)
                     
2 しきしまや絶えぬる道になくなくも君とのみこそあとを忍ばめ
     (寂然歌)(岩波文庫山家集183P雑歌・新潮1229番)

  無動寺へ登りて大乗院のはなち出に湖を見やりて

3 鳰てるやなぎたる朝に見渡せばこぎゆくあとの波だにもなし
          (岩波文庫山家集278補遺・異本拾玉集)

  帰りなむとて朝のことにて程もありしに、今は歌と申すことは
  思ひたちたれど、これに仕るべかりけれとてよみたりしかば
  ただにすぎ難くて和し侍りし         

4 ほのぼのと近江のうみをこぐ舟のあとなきかたにゆく心かな
     (慈鎮歌)(岩波文庫山家集278P補遺・異本拾玉集) 

○讚岐へおはしまして後

 保元の乱で敗れた崇徳院が讃岐に流されたのは1156年7月のこと。
 西行40歳頃の歌。

○いときこえざり

 崇徳院が讃岐に遷御されてから和歌の道が衰退したように感じ
 られるということ。
 保元の乱の後に平治の乱と続きますので、実際にこの期間は
 歌合の開催などはできにくい情勢下だったと思います。
 1154年から1159年には一度も開催されていません。
 1160年になって清輔歌合が開かれています。

○寂然

 常盤三寂(大原三寂)の一人で藤原頼業のこと。西行とは
 もっとも親しい歌人で贈答歌も多い。
 山家集の中で寂然との贈答歌は9回あります。岩波文庫から贈答
 歌のあるページを記します。

 29・69〜70・101・138〜139・183・206(2回)・207〜208・210
 の各ページ。
 歌数は寂然22首、西行23首です。ほかに連歌が266ページにあり
 ます。
 このほかに寂然の名前があるページは88・89・179・259・264
 (2回)・265の各ページです。88ページは寂然が寂蓮、264ページ
 には寂為と誤記されています。

○ことの葉のなさけ絶えにし                    

 和歌及び和歌を尊ぶという社会的な基盤、文学的風土が衰退した
 ということ。

○しきしま

 大和(奈良県)の国、磯城郡磯城島の地名から転じて大和の国
 (奈良県)全体を指す言葉になる。さらに転じて大和(日本)の
 国を指すようになります。
 「しきしまや絶えぬる道」で日本の和歌の伝統が絶えるという
 意味になります。

○無動寺

 無動寺は比叡山東塔に属していて、無動寺谷にあります。滋賀県
 坂本からのケーブルで、延暦寺駅に降りて、すぐ側の無動寺坂を
 一キロほど下った所にあります。
 不動明王を祀る明王堂が本堂で、ほかに建立院・松林院・大乗院・
 玉照院・弁天堂その他の堂宇を総称して無動寺といいます。
 明王堂は千日回峰行の根本道場ともなっています。
 慈円はこの無動寺の大乗院で何年から何年まで修行したのか私には
 不明ですが、いずれにしても西行とは無動寺で逢っているという
 ことになります。
 尚、親鸞聖人も10歳から29歳まで大乗院で過ごしたことが知られ
 ています。

○大乗院
 
 無動寺谷にあるお寺のひとつです。

○はなちで

 出窓のこと。現在でいうベランダと解釈できます。

○鳰

 鳥の名。カイツブリのこと。

○帰りなむとて朝の

 帰るようになって朝のことで・・・ということ。
 大乗院に一晩泊まって翌朝に発ったことが分ります。大乗院から
 見る琵琶湖は眼前に迫ってきて、素晴らしい景観です。

○程もありしに

 時間にも余裕があるということ。

○思ひたちたれど

 思いを断ったということ。
 白洲正子さんの「西行」におもしろい記述がありますので紹介
 します。

 『「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど」といっているのは、
 勝手に止したわけではなく、起請文まで書いて絶ったという
 ことが、同じく拾玉集にのっているが、ほかにもいくつか
 詠んだ形跡はあり、数奇のためとあらば、神の誓いに背いて
 罪を得ることも、まったく意に介さなかったところに、西行の
 強さといさぎよさと、あえていうなら面白さも見ることが
 できる。』
              (白州正子氏著「西行」より抜粋)

(1番歌の解釈)

 「新院が讃岐におうつりになり、和歌の道がすっかり衰えて
 しまった時節に生きてめぐり合うわが身こそ悲しいものです。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「新院の遷御によって絶えてしまった和歌の道に、涙ながらも
 あなたとだけ新院の御跡をーー在りし日の和歌が盛んであった
 折を偲びましょう。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(3番歌の解釈)

 起床して琵琶湖の湖面を見渡しています。湖面は凪いでいて、
 漕いでいく小船の航跡さえも無い静かさで広がっています。
                   (阿部の解釈)  

(慈円の詞書の解釈)

 一泊した西行法師が帰ろうとされて、しかし朝のことですし、
 ゆっくりできる時間もありました。今は歌を詠む事を断っている
 けれども、この心にしみ入る光景を見てということで歌を詠まれ
 ました。私も、何もせずに過ぎて行くのは残念なことだと思って、
 歌を作って声に出して読みました。
                   (阿部の解釈)

(4番歌の解釈)

 ほのぼのとした朝日の中、琵琶湖を漕いで過ぎていく舟の、航跡
 も次第にあとかたもなく消えて行く静かな湖面。
 その光景にわけもなく安らぎを感じて、私の心は無性に惹かれて
 いきます。
                   (阿部の解釈)

(前大僧正慈鎭)

 慈鎭和尚とは、慈円(1155〜1225)の死亡後に追贈された謚号です。
 西行と知り合った頃の慈円は20歳代の前半と見られていますので、
 まだ慈円とは名乗っていないと思いますが、ここでは慈円と記述
 します。
 慈円は、摂政関白藤原忠道を父として生まれました。藤原基房、
 兼実などは兄にあたります。11歳で僧籍に入り、覚快法親王に師事
 して道快と名乗ります。
 (覚快法親王が11181年11月に死亡して以後は慈円と名乗ります。)
 比叡山での慈円は、相應和尚の建立した無動寺大乗院で修行を
 積んだということが山家集からもわかります。このころの比叡山は、
 それ自体が一大権力化していて、神輿を担いでの強訴を繰り返し
 たり、園城寺や南都の興福寺との争闘に明け暮れていました。
 それは貴族社会から武家政権へという時代の大きなうねりの中で、
 必然のあったことかもしれません。

 このような時代に慈円は天台座主を四度勤めています。初めは兄の
 兼実の命によって1192年から1196年まで。兼実の失脚によって
 辞任しました。
 次は後鳥羽上皇の命で1201年2月から翌年の1202年7月まで。1212年
 と1213年にも短期間勤めています。
 西山の善峰寺や三鈷寺にも何度か篭居していて、西山上人とも呼ば
 れました。善峰寺には分骨されてもいて、お墓もあります。
 1225年71歳で近江にて入寂。1237年に慈鎭和尚と謚名されました。
 歴史書に「愚管抄」 家集に「拾玉集」などがあります。新古今集
 では西行の九十四首に次ぐ九十二首が撰入しています。
      (学藝書林「京都の歴史」を主に参考にしました。)
               
【歌召しける】

 崇徳院が命じた久安百首のことです。後述。

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 新院百首の歌召しけるに、奉るとて、右大将きんよしのもとより
  見せに遣したりける、返し申すとて

1 家の風吹きつたへけるかひありてちることの葉のめづらしきかな
     (岩波文庫山家集179P雑歌・新潮933番・西行上人集)
 
2 家の風吹きつたふとも和歌の浦にかひあることの葉にてこそしれ
        (公能歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮934番)

○新院百首

 崇徳院が題を出して、14名の歌人に詠ませた久安百首歌のこと。

○右大将きんよし

 藤原公能のこと。藤原実能の子。1115年生。西行より三歳年長。
 久安百首が成立したのは久安6年(1150年)であり、この時には
 公能はまだ右大将ではない。公能の右大将任官は1156年のこと。
 書写した人のミスではないかと思います。
 公能との贈答歌は203ページにもあります。

○家の風

 徳大寺家の歌の特質的なことを言います。
 ただし徳大寺家は実能が興したものですから、家の風というほど
 の歴史は無いと思います。実能以前にさかのぼって言っていると
 解釈したほうが良いのかもしれません。

○和歌の浦

 和歌の神と言われる「玉津島明神」が紀伊の国、和歌の浦にあり
 ます。和歌に関しての歌で、よく詠まれる歌枕です。

(1番歌の解釈)

 「さすがに徳大寺の家風をよくお伝えになっていて、素晴らしい
 歌をお詠みになられますね。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(1番歌の解釈)

 「確かに徳大寺家は和歌の家であるが、和歌の浦に貝がある
 ように、詠むだけの価値がある和歌なのかどうか、見ていた
 だけませんか。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 (窪田章一郎氏「西行の研究」から)

 「この百首に公能の立場は重いものであったが、その作品をまず
 西行に下見させたことは、徳大寺家に関係を持つ西行が、内部に
 おいては歌人としてすでに大きく認められていたことを知る証拠
 にもなる。(中略)

 西行が作者のうちに加えられなかったのは「詞花集」に「よみ人
 しらず」の扱いを受けたのと考え合わせて、身分の低い一僧侶と
 としての扱われ方をしていたため(中略)

 歌人としての実力は評価されながら、公の歌壇においては数に
 入れられないという事実が、この当時の西行を端的に示している」

(久安百首)

 崇徳院出題による百首歌集。出題は1142年か1143年。完成は久安
 六年(1150年)です。これを部類本といいます。さらに藤原俊成
 撰による非部類本が撰進されましたが、これは当時の世相の混乱
 により奏覧はされませんでした。
 部類本の作者は崇徳院・公行・公能・行宗・教長・顕輔・忠盛・
 親隆・覚雅・俊成・堀川・兵衛・安芸・小大進の14名でしたが、
 久安百首は生存歌人の歌という制約がありましたので、撰進の
 作業中に没した歌人は除かれました。
 行宗、覚雅、公行が編纂中に没したため新たに季通、清輔、実清
 が加えられました。
 この久安百首が俊成撰の千載集の重要な資料となりました。
            (桜楓社 「和歌文学辞典」を参考)

【うち具する】

 1 きちんと備わっていること。
 2 相伴うこと。
 3 持つこと。携えること。
            (岩波古語辞典を参考)

歌では「相伴う」という意味で使われています。
新潮版では初句は「うちすぐる」となっていて、意味が異なります。

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1 うち具する人なき道の夕されば聲立ておくるくつわ虫かな
          (岩波文庫山家集65P秋歌・新潮463番) 

○くつわ虫

 夏から秋に鳴くキリギリス科の昆虫。体長約3センチ。体は緑色
 か褐色。林近くの草原にすみ、雄はガチャガチャと鳴く。関東
 以西に分布。
                (日本語大辞典から抜粋)

(1番歌の解釈)

 「誰一人として通らなくなった夕方の路では、くつわ虫が馬の
 くつわの響きにも似た音をたて、あたかも騎馬の人が通る
 ごとくに鳴いているよ。」
 「うちすぐる 板本「うちぐする」により、一緒に伴う人もない
 路とする説が多いが、底本によって解した。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「従者もなく一人で歩く道も夕暮れになると、くつわ虫ががちゃ
 がちゃ声を振り立てて見送ってくれる。」
 「くつわ虫ー馬の縁語で詠むのが一般。虫の音を聞くだけで騎馬
 武者を気取る俳諧性が眼目。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【うち】

 下に動詞のつく接頭語。(ちょっと)(少し)の意を表す。
 語調を整えたり強めたりする働きをする。
 下の動詞と接合して特定の意味を持つ言葉になる。

【うちそへて】
 
 添えること。本体の側にいさせること。
 ここでは鐘の縁語の(打ち)に、ものの(あはれ)を添えている
 言葉。

【うちたへて】

 すっかり絶えること。完全にきれること。
 (うちたえて)と(うちたえで)は逆の意味になります。

【うちつけに】

 だしぬけに、突然にということ。無遠慮、露骨という意味もあり
 ます。

【うちとけて】

 こころがゆったりとすること。緊張せず、くつろぐこと。
 わだかまりがなくなること。親しむこと。
              (日本語大辞典を参考)

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1 つくづくと物を思ふにうちそへてをりあはれなる鐘のおとかな
          (岩波文庫山家集194P雑歌・新潮712番・
             西行上人集・山家心中集・玉葉集) 

2 夢さむるかねのひびきにうち添へて十度の御名をとなへつるかな
         (岩波文庫山家集217P釈教歌・新潮871番・
                 西行上人集・山家心中集) 

3 うちたえで君にあふ人いかなれや我が身も同じ世にこそはふれ
         (岩波文庫山家集163P恋歌・新潮1347番・
               西行上人集追而加書・玉葉集) 

4 うちたえてなげく涙に我が袖の朽ちなばなにに月を宿さむ
          (岩波文庫山家集149P恋歌・新潮635番) 

5 うちつけに又こむ秋のこよひまで月ゆゑ惜しくなる命かな
         (岩波文庫山家集71P秋歌・新潮333番・
                西行上人集・山家心中集) 

6 いとへどもさすがに雲のうちちりて月のあたりを離れざりけり
           (岩波文庫山家集81P秋歌・新潮373番)

7 さはといひて衣かへしてうちふせどめのあはばやは夢もみるべき
          (岩波文庫山家集154P恋歌・新潮701番)

8 気色をばあやめて人のとがむともうちまかせてはいはじとぞ思ふ
          (岩波文庫山家集156P恋歌・新潮1246番)

9 うちとけてまどろまばやは唐衣よなよなかへすかひもあるべき
          (岩波文庫山家集160P恋歌・新潮1295番)

10 人しれぬ涙にむせぶ夕ぐれはひきかづきてぞうちふされける
      (岩波文庫山家集162P恋歌・新潮1331番・夫木抄)

11 時雨かは山めぐりする心かないつまでとのみうちしをれつつ
         (岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1031番・
                西行上人集・宮河歌合28番) 

12 波のうつ音をつづみにまがふれば入日の影のうちてゆらるる
         (岩波文庫山家集216P釈教歌・新潮1447番)


13 はちす咲くみぎはの波のうちいでて説くらむ法を心にぞ聞く
               (岩波文庫山家集231P聞書集) 

14  奈智に籠りて、瀧に入堂し侍りけるに、此上に一二の瀧
   おはします。それへまゐるなりと申す住僧の侍りけるに、
   ぐしてまゐりけり。花や咲きぬらむと尋ねまほしかりける
   折ふしにて、たよりある心地して分けまゐりたり。二の瀧の
   もとへまゐりつきたり。如意輪の瀧となむ申すと聞きて
   をがみければ、まことに少しうちかたぶきたるやうに流れ
   くだりて、尊くおぼえけり。花山院の御庵室の跡の侍りける
   前に、年ふりたる櫻の木の侍りけるを見て、栖とすればと
   よませ給ひけむこと思ひ出でられて

  木のもとに住みけむ跡をみつるかな那智の高嶺の花を尋ねて
          (岩波文庫山家集120P羇旅歌・新潮852番・
            西行上人集追而加書・風雅集・夫木抄) 

15   さて扉ひらくはざまより、けはしきほのほあらく出でて、
    罪人の身にあたる音のおびただしさ、申しあらはすべく
    もなし。炎にまくられて、罪人地獄へ入りぬ。扉たてて
    つよく固めつ。獄卒うちうなだれて帰るけしき、あらき
    みめには似ずあはれなり。悲しきかなや、いつ出づべし
    ともなくて苦をうけむことは。ただ、地獄菩薩をたのみ
    たてまつるべきなり。その御あはれみのみこそ、曉ごと
    にほむらの中にわけ入りて、悲しみをばとぶらうたまふ
    なれ。地獄菩薩とは地藏の御名なり

  ほのほわけてとふあはれみの嬉しさをおもひしらるる心ともがな
                (岩波文庫山家集254P聞書集)

16   世のなかに武者おこりて、西東北南いくさならぬところ
    なし。うちつづき人の死ぬる数、きくおびただし。まこと
    とも覚えぬ程なり。こは何事のあらそひぞや。あはれなる
    ことのさまかなと覚えて

  死出の山越ゆるたえまはあらじかしなくなる人のかずつづきつつ
                (岩波文庫山家集255P聞書集)

○つくづくと

 身にしみて深く感じられること。しみじみと思うこと。
 鐘の縁語として用いた言葉です。

○さはといひて

 そうであるならばと言っても、の意味。

○衣かへして

 夜着を裏返して、ということ。同衾するということを指す言葉。

○めのあはばやは

 (目の合はばやは)のこと。目を閉じたなら夢の中では目を
 合わすことができるだろうか・・・

○ひきかづきてぞ

 (引き被きてぞ)のこと。頭からすっぽりと衣類をかぶって、
 ということ。
 (かづく)は潜ること表す言葉でもありますが、ここでは
 被る(かぶる)という意味です。
 他に(褒美をいただく)(褒美を与える)ことも(かづく)と
 言います。

○那智

 紀伊の国の歌枕。和歌山県の勝浦町にあります。
 熊野那智大社・青岸渡寺(如意輪堂)があります。
 那智の瀧はことに有名です。

○花山院

 968年〜1008年。冷泉天皇の第一皇子。第65代天皇。
 藤原兼家、道兼親子の策略によって在位わずか2年で退位した
 話は有名です。
 勅撰の拾遺和歌集は花山院の命によるものです。

○地獄菩薩(地蔵菩薩)

 日本では観世音菩薩や阿弥陀仏とともに親しまれている菩薩と
 いえます。
 釈迦が入寂してから弥勒菩薩が現れる56億7千万年後までの
 期間に渡って、全ての人々の悩みや苦しみをを救う菩薩だと
 言われます。
 仏教の六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六世界
 を言いますが、この全てに地蔵菩薩は関わっています。
    (松濤弘道氏著「仏像の見方がわかる小辞典」を参考)

(3番歌の解釈)

 「自分も同じようにあの人のことを思っているのに、自分とは
 異なり、仲が絶える事なくあの人に逢っているとは、どのように
 恵まれた運命の人なのであろうか。」

 ◇うち絶えで 「うち絶えて」ともよめ、その場合は、自分と
 あの人の仲は絶えて、となり、下句と呼応する。
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(5番歌の解釈)

 「仲秋の名月はまた来年の秋の今夜までないと思ったら、月の
 見たさに出し抜けに命が惜しくなった。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(10番歌の解釈)

 「恋しい人に逢うこともかなわず、人知れぬ涙にむせぶ夕暮れは、
 衾をひきかぶってうち臥してしまうことであるよ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
 
(14番歌の解釈)

 「那智の高嶺の花を尋ねて、花山院が桜の木の下をすみかとされ、
 心を澄まされたあとを見たことだ。」
 
 「木の下をすみかとすればおのずから花見る人になりぬべきかな」
                  (花山院 詞花集272番)
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(15番歌の解釈)

 「暁ごとに地獄の炎を分けて罪人を見舞う地蔵菩薩の憐れみの
 嬉しさを、おのずと思い知られる心であったらなー。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(16番歌の解釈)

 「死出の山を越える死者の絶え間はあるまいよ、これほど亡く
 なる人の数が続いては。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【打田町】

 和歌山県那賀郡打田町のこと。2005年11月から現、紀の川市。

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山家集に「打田町」という固有名詞は当然にありません。

九条家の荘園であり西行の佐藤家の預所「田仲荘」のあった所と
比定されています。
ほぼ平坦な肥沃地ということであり、佐藤家の財政基盤となって
いたものでしょう。ここは初めは藤原秀郷が領有していたようです。
それを同族の尾藤氏の池田庄と分け合ったものかと思います。
田仲荘は西行の甥の佐藤能清以後は、尾藤氏に取られてしまった
ようです。

JR打田駅から徒歩30分程度の所に笠をかぶった西行像と百人一首
中の(嘆けとて・・・)歌の歌碑、及び西行の略歴について触れた
説明板があります。打田町の教育委員会が建立したもののようです。
そこには以下の気になる文言が刻まれています。

「西行の育った竹坊は・・・云々」

果たして西行は打田町で育ったのでしょうか。
確証は一切ないはずです。それなのに、こういう断定はふさわしく
ないのではないかと思います。

藤原秀郷→千常→公脩→文行→公光→佐藤公清→季清→
康清→仲清→能清

秀郷からの系図を出します。1022年に藤原文行が下野から京都に
移住したものと思われます。
康清の子が義清・仲清です。
藤原文行の邸宅は役職を考えれば京都にあったものと思われますし、
佐藤家は代々、京都で生まれ育ったと考えるのが自然です。
西行の家は京都の油小路二条にあったとも言われます。
尚、佐藤の苗字は関東から京都に移住して二代後に改姓されたものの
ようです。

  目崎徳衛氏「西行の思想史的研究」及び、
  窪田章一郎氏「西行の研究」及び、
  「歴史と旅」昭和57年5月号を参考。

 【うちひ】

 新潮版では「打樋」という文字を当てています。田んぼに水を
 流すために造られた樋(ひ・とい・とよ・かけひ)のことです。
 刳り貫いた木や節を取った竹をつなぎ合わせて造られたものです。

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1 苗代の水を霞はたなびきてうちひのうへにかくるなりけり
          (岩波文庫山家集39P春歌・新潮50番) 

(1番歌の解釈)

 「苗代に霞がたなびき、樋の上にもかかったが、どうやら苗代に
 樋を伝って水を引いたのは霞だったらしい。」
 「○かくるー霞の縁語。△二つの縁語を駆使して、苗代水が打樋
 の上に掛かる様を、たなびく霞の所為と見立てた。
               (和歌文学大系21から抜粋)

 「苗代に水を引く打樋の上に霞がたなびいて、あたかもその霞が
 水を引いて来て、打樋の上に流したように思われることである。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【卯杖】 (山、18)

 「正月上卯の日に春宮坊や衛府から朝廷に奉った杖。梅・桃の木
 などを五尺三寸に切り二本または四本ずつ束ねて、五色の糸で
 巻く。邪気を払うという。」
                (広辞苑から抜粋)

 1番歌にある(卯杖)は、個人用に卯の日に作った杖という
 ほどの解釈で良いものと思います。

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  老人の若菜といへることを

1 卯杖つき七くさにこそ出でにけれ年をかさねて摘める若菜に
          (岩波文庫山家集18P春歌・新潮22番)

○七くさ 

 正月七日、邪気を払い万病を除くため羹(あつもの)として
 食した若菜のこと。
 セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ
 の七種に定まった。
               (岩波書店 古語辞典から抜粋)
 
 後世にはこれを俎板に載せて囃してたたき、粥に入れて食べた。
                     (広辞苑から抜粋)

(1番歌の解釈)

 「毎年毎年卯杖をつき、七草粥を祝っているうちに私も年老い
 たよ。七草のために若菜を摘む、その「つむ」ではないけれど、
 年を積み重ねて。
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 尚、新潮版では三句「出でにけれ」が「老いにけれ」となって
 います。

(卯と卯杖について)

 「(卯)と当社とのご神縁は古く、第十代崇神天皇の御世に遡り、
 疫病の大流行、人々の逃散など、国の情勢が容易でなくなった時、
 天皇はご神意をお伺いになり、そして当社の大神さまである
 大物主神を鄭重にお祀りされると、大難は治まり、国は平安と
 なり、富み栄えたことが「日本書紀」に記されている。
 このお祭が行われたのが、卯の年・卯の日であるところからこと
 のほか「卯」が重要視され、以来ご神縁の日として、また大神様
 のご神威が最も高まる時として、毎月卯の日祭が今に奉仕され
 続けております。
 なかでも卯の年・卯の月・卯の日は三つの卯が重なる大吉年と
 して十二年に一度「三卯大祭」が執行され、ご神前の黒木の案上
 に特別に調達された卯杖が奉献され平和な世を願い、国の隆昌と
 人々の安全、繁栄が祈願されます。
 卯杖は古式に則り、木瓜・柊・桃・梅・椿・榊の六種で調えられ
 ます。
 この卯杖は、依代であり瑞兆として、また、五穀豊穣を祈る斎物
 とされているものです。」
     (奈良県桜井市の大神神社境内の説明版から全文引用)

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◎ うづゑつきつままほしきはたまさかに君がとふひのわかななりけり
                 (伊勢大輔 後拾遺集33番)

【卯月】

 陰暦4月のこと。夏の初めの月です。
 卯の花月ともいわれて卯の花が多く詠まれています。

【卯月のいみ】

 卯月の忌みのこと。
 賀茂社の葵祭りに加わる人は精進潔斎をしますが、そのことを
 指します。
         
 他に田植え祭りの前の物忌みをも言います。

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1 ほととぎすしのぶ卯月も過ぎにしを猶聲惜しむ五月雨の空
           (岩波文庫山家集43P夏歌・新潮197番)

2 郭公卯月のいみにゐこもるを思ひ知りても来鳴くなるかな
           (岩波文庫山家集44P夏歌・新潮180番)

  御あれの頃、賀茂にまゐりたりけるに、さうじにはばかる恋と
  いふことを、人々よみけるに

3 ことづくるみあれのほどをすぐしても猶やう月の心なるべき
     (岩波文庫山家集145P恋歌・新潮614番・西行上人集)

○しのぶ卯月

 ホトトギスは夏の初めの卯月では、まだ忍んだ声で鳴くと言わ
 れています。歌人達に、その共通認識があったようです。

○賀茂

 賀茂社のことですが、この歌だけでは上賀茂神社か下鴨神社かは
 分かりません。加茂社での歌会は賀茂重保が主催したものが多い
 ということですから、そのことによって上賀茂神社とみなして
 よいようです。

○さうじ
 
 精進のこと。
 一心に仏道修行を積むこと。心身を清めて行いを慎むこと。

○ことづくる

 かこつける・口実にするの意味。

○御あれ・みあれのほど

 御生(みあれ)と表記します。加茂両社の御あれの神事を指します。
 
 「人間をはじめ森羅万象すべてに生命が存在し、人間が呼吸して
 いるように天地すべてが呼吸し、活動して相互に作用しあい、
 作用しあうところから生命が誕生する。それを御生という。」
     (賀茂御祖神社社務所発行「賀茂御祖神社」より抜粋)

 現在、5月15日に賀茂祭(葵祭)が行われますが、それに先駆け
 て、5月12日に下鴨神社では御蔭祭(御生神事)が行われています。 
 上賀茂神社では秘事として公開されていませんが、本殿の北に
 ある丸山(153.5メートル)の御阿礼(みあれ)所で御阿礼の神事
 が行なわれています。 
 要するに下鴨社では賀茂御祖皇大御神の、上賀茂社では別雷大御神
 の神霊を迎えるという降誕祭のことです。

(1番歌の解釈)

 「郭公は、忍び音で鳴いた陰暦四月も過ぎてしまったのに、五月雨
 の降る空のもとでなお声を出し惜しみして鳴いていることである。」
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(2番歌の解釈)

 「時鳥よ、四月は祭りの潔斎でお前を聞きに出られないのが
 わかったから、お前の方から加茂に来て鳴いてくれるのだね。」
                  (和歌文学大系21から抜粋)

(3番歌の解釈)

 「賀茂の神様に恋の成就を祈ることであるが、天降ります神の
 霊験(しるし)があらたかかどうか、つれない人のこれからの
 行動により判断することとしよう」
              (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 賀茂社でも頻繁に歌会が開かれていたらしく、西行も何度か参加
 しています。2番歌と3番歌は加茂社での歌会での題詠歌です。
 「西行の思想史的研究」で目崎徳衛氏は「賀茂重保が主宰して
 いたものだろう」と記述しています。
 賀茂重保は上賀茂社に勤仕していて、治承元年(1177)には神主
 となっています。ですから2番歌3番歌ともに上賀茂神社での歌会
 の時の歌とみて良いと思います。

 3番歌は女性の立場に立って詠っている歌だと思います。う月は
 憂月(卯月=憂月)として言葉を重ねている掛詞です。

 【空蝉】

 原意は「現し身」のことであり、この世に生きている人を指して
 いました。しかし平安時代になってから「うつせみ」の「せみ」
 を昆虫の「蝉」として蝉の抜け殻という解釈が成立したために、
 人生のはかなさを象徴させる言葉となりました。

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1 むなしくてやみぬべきかな空蝉の此身からにて思ふなげきは
         (岩波文庫山家集163P恋歌・新潮1337番) 

○やみぬべき

 絶えて消え去ることの意味で、終わることをいいます。

(1番歌の解釈)

 「このまま何もないままに恋も終わってしまいそうだ。みんな
 私のせいだ。この世にこんな風に生きているこの私が嘆きの
 源だ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「ついに叶えられることもなく終わってしまう恋であろうか。
 空蝉のこの身ゆえの、魂のぬけがらのようになるまでに思う
 嘆きは。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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◎ 空蝉のからはきごとにとどむれど魂のゆくへを見ぬぞ悲しき
               (よみ人しらず 古今集448番) 

◎ うつせみの世にも似たるか花桜さくと見しまにかつちりにけり
                (読人しらず 古今集73番) 

◎ 空蝉はからを見つつもなぐさめつ深草の山けぶりだにたて
                 (僧都勝延 古今集831番)