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  西行辞典「後記」特集
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21号  2006年7月23日

京都では祇園祭前後に梅雨があけ「祇園祭が終わってから大文字の
送り火までが京都の炎暑の夏」とは、よく言われることです。

ところが本年は祇園祭が終わっても梅雨が明けません。気象庁の
予報によると、梅雨明けは月末頃のよう。こんなに長い梅雨は明ら
かに異常です。豪雨による犠牲者がすでに全国で20人ほどにも及ん
でいますが、今後は何事もなく平穏無事に過ぎてほしいものです。

本日23日は土用の丑の日。ウナギを食べるという慣わしがあります。
江戸時代に広まった習俗とのことで、丑の日とウナギとはなんらの
関連もないのですが、まあ暑さ厳しい盛りに精のつくウナギをと
いうことなのでしよう。
昨日は近くのスーパーでもウナギの大売出しをしていました。
普段はウナギは食べないのに、ついつい買い込みました。
しかし暑さの盛りということではなくて、梅雨の盛りにウナギと
いうのも、なんというパラドックスかと思います。

23日はまた愛媛県の宇和島の和霊祭。宇和島伊達藩の時に始まった
祭りであり、私は中学三年の時の二学期の終業式をすっぽかして
伯父の保有する砂利舟で5時間ほどはかかる宇和島に行き、和霊祭を
見物しました。
大漁旗をたくさん付けた満艦飾の漁船が宇和島港にあふれていた
ことを思い出します。なつかしい記憶です。
もちろん、あとで担任の先生にこっぴどく叱られたことは、いう
までもありません。

22号  2006年7月31日

幼い頃の記憶は事実とは微妙に違う形に変容し、その変容したもの
を事実として思い込んでしまっているということは、おそらくは
誰にでもあることでしよう。
私が郷里に帰って、50年ほど前の少年時代の話に花が咲いた時に
などは、そのことに思いあたることは何度もありました。ともに
同じ時間を共有していながら、長い時間を経てみると記憶が彼我
ともに変容しているということです。
自分にとってあまり関心を持ちえなかった部類のことは、すでに
忘却のかなたであることのほうが多いものです。人が物事を忘れる
ということ、記憶が風化し、あいまいになるということは、人の
持つ立派な能力ともいえます。

それだけに事実を記録することの重要性に思い至りもします。
しかし社会的な事実であれ、個人的な事実であれ、個人が記録する
こと自体には大した意味も見出せないのが実情なのかもしれません。
ほとんどが個人性の中に埋没してしまうからです。個人には意味が
あっても、そこから出ることがありません。

そういう意味で中世の更級日記、十六夜日記、蜻蛉日記などの日記
類の存在は改めて私を驚かせます。稀有な書物といってもよく、
よく残っていたものだと思います。われわれの財産です。
数百年前の人たちが、必ずしも事実だけを記したとは言えないので
すが、そこに描かれていることごとは十分に世相や習俗、そして作者
としての一人の人間性、生の人間感情を浮かび上がらせています。
人は人である限りは、何百年、何千年たとうが、本質的には変わら
ないということでしよう。

いつになく長かった梅雨が明けて、いよいよ真夏の到来です。
とはいえ来月8日は立秋。「一週間ほどの命かな」ではありますが、
厳しい残暑が予想されます。ご自愛願います。

23号  2006年8月26日

節季は処暑。24節季の16番目にあたります。まさしく1年の三分の二
という季節にあります。処暑の意味は、暑さが落ち着くということ
を意味します。なるほどそのとおりで、日ごとに秋の気配が強く
なりつつあることを実感します。近くで見かけるイチジクや柿の実
などの果実の成熟の具合、朝夕の気温、吹いて行く風の中にある
ぬめり・・・。
ことごとくが秋の到来がすぐであることを告げています。

◎ 夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く
                (大納言経信 百人一首71番)

◎ 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関
               (能因法師 後拾遺集518番)

以上の歌などが(秋風ぞ吹く)歌として著名ですが西行歌には
(秋の夕風)(秋のはつ風)(秋風)などはあっても(秋風ぞ吹く)
歌はありません。
(秋の夜の月)(秋の夕暮れ)歌などはそこそこにあって、しかも
人生の深奥に通じる、しみじみとした歌が多いと思います。

このことはあるいは不思議なことであるのかもしれません。
おそらくは(秋)を(飽き)に掛けている詠み方を西行は嫌った
のかもしれないと思います。西行の感性が(秋風ぞ吹く)という
表現方法を意図的に忌避した可能性もあります。

○ 私の心のうちに秋風が吹いている・・・
○ 私の財布の中は秋風が吹いている・・・

(秋風)という言葉をこういうふうにマイナスイメージとして使わ
れると、(秋風)は良くないことの象徴みたいな感じも受けますね。

皆さんの(秋風)のイメージとは、どんなものなのでしょうか?

24号  2006年9月03日

9月になりました。空も高く晴れ上がっていて、いかにも秋空という
感じです。この夏の酷暑も幾分やわらぎました。京都は連続39日間の
真夏日だったとのことですが、今後はしのぎやすくなってきます。
吹いて行く風も肌に心地いい、良い季節の到来です。

このところ読書(小説)をしていません。極度に老眼の度を加え、
かつ根気も乏しくなったことを自覚する現況では、飢えたように本
を読むということは体力的にみて、もうできないだろうと思います。
それでも時々はいい本に巡り合いたいという思いもあります。一方で、
マガジンを出している以上は、参考図書を読むだけで手いっぱいで
あることも事実なのです。もう新しい書き手の作品にはそれほど食指
は動かないのですが、それでもなおかつ読んでみたいという思いだけ
は持ち続けたいものと思います。
同時に、若い頃に熱中した世界文学全集、なかんずく、ロシアの
作家の作品を30〜40年ぶりに読んでみたいという思いもあります。

「西行の京師」の方は次回は遠江の歌になります。発行までに掛川市
の「小夜の中山」を一人で歩いてみようかとも思いますが、はてさて
いかがなりますことやら・・・

25号  2006年9月24日

「西行の京師」第16号の(雑感)でも触れましたが、21日(木)に
「小夜の中山」を歩いてきました。
早朝自宅発。「のぞみ」「ひかり」「こだま」と乗り継いで、掛川
市着は9時過ぎ。まず、事任八幡宮や日坂宿の旧跡を見てから、
いよいよ「小夜の中山」道に取り掛かりました。
ネットやガイドブックである程度のことは分かるとはいえ、実際に
歩いてみるにしかず・・・です。
927年に完成した延喜式による東海道の道幅は6メートルと定められ
ているのですが、山の中の道のことでもあり、2.3メートル幅の所も
結構ありました。初めは定格通りの道幅があったのかもしれませんが、
長い歴史の中ではいくらでも変わってくるでしょう。
道はおおむね平坦で生活道路、農道として全面的に舗装されていま
した。歩きやすいといえば歩きやすい道でした。
道の両側はほとんど茶畑です。この茶畑は明治になってからのもの
ですから、それ以前は、うっそうとした自然林の中の道だったので
しょう。歩いて過ぎるのに不安は強かったと思いますが、しかし、
江戸時代になれば道の両側に民家もそこそこにあった事が知られて
います。むしろ現在のほうが道沿いの民家は少ないようです。
西行時代の道沿いに果たして民家があったのかどうか、気になる
ところです。
小夜の中山が東海道の難所といわれたその理由は、菊川からの坂と
日坂からの坂の傾斜の強さにあるものと思います。現在でも、両方
の坂には、いささか辟易しました。
画像を出しておきました。興味のある方はご覧になってください。

http://sanka05.web.infoseek.co.jp/nakayama01.html

26号  2006年9月30日

本日は9月30日。明日から10月。今年も余すところ3ヶ月だと否応も
なく思わされます。まさしく月日の移ろいは人を待ってはくれま
せん。子供の頃には長かった一年が、今では坂道を転がるスピード
で打ち過ぎていきます。これもまあ、その速さに嘆いても詮方ない
こと。

暑すぎもせず寒すぎもせず、過ごしやすい快適な季節です。
10月6日は旧の8月15日。つまりは十五夜の日です。今年は7月が
閏月で二度あったために中秋の名月の日も10月にずれ込みました。

西行には月の歌がとても多くあります。370首以上もあります。
よくもまあこんなにというのが偽らざる感想です。
月の歌と言えば百人一首にも採られた「なげけとて・・・」の
歌が有名です。

 なげけとて月やはものを思はするかこち顔なる我が涙かな
  (岩波文庫山家集149P恋歌・百人一首第86番・御裳濯河歌合)

御裳濯河歌合では55番左で、55番右は下の歌です。

 しらざりき雲ゐのよそにみし月の影を袂にやどすべしとは

俊成の判は「両首共に心ふかくすがたをかし、よき持とすべし」
となっています。なるほど、両首ともに恋歌として含蓄があると
思います。それにしても西行はよくもまあ「しらざりき・・・」
歌などを詠んだものだし、それを評価した俊成も俊成です。
こんなところにも俊成と西行の交友の深さを思わされます。

先回25号の(後記)の中で記述ミスがありました。

 21日(金)→21日(木)
 ご蘭→ご覧

以上、お詫びして訂正します。反省しています。

27号      2006年10月26日発行

今号で「あ」で始まる言葉がおわって「い」に入りました。「あ」
の言葉のみで27号、1年2ヶ月を要したことになります。この調子
だと完結するのは7.8年もかかるでしょうか。そんなに長くは発行
し続ける気持も持続するものなのかどうか、また体調不安も抱える
ことでしょう。
先のことはどうなるか分かりませんが、ともかくは続けてみます。
しょうもないマガジンかも知れませんが、ご高覧願えればうれしい
ことです。

28号      2006年10月30日発行

明日で10月も終わり。明後日から11月。いよいよ秋も深まってきた
感しきりです。
11月3日(文化の日)は旧暦の9月13日。十三夜です。
先月の十五夜は曇り空だったために、月はさえざえとした光を放って
はいず、月見にはなりませんでした。片見月と言われようと十三夜の
月は見たいものです。晴れるといいですね。

29号      2006年12月01日発行

今年最後の月12月になりました。
ほぼ一ヶ月ぶりの「西行辞典」の発行です。決してのんびりして
いたわけではないのですが、発行が若干遅れました。

この間、15日に愛宕山登山で一日つぶし、20日からは遊び心が
高じて妙心寺、広隆寺、東福寺、高台寺、泉湧寺、今熊野観音寺、
果ては奈良の初瀬の長谷寺と、そして東大寺や興福寺の参拝。
23日に「西行の京師」18号発行。
26日は金閣寺、竜安寺、等持院を見て回り、今年の紅葉ももう充分
という感じでもありますが、12月3日には定番コースの浄住寺、
西芳寺、松尾大社、法輪寺、嵐山、嵯峨野とたどり、またぞろ竜安寺
にまで行こうと思います。
竜安寺の26日の紅葉はまだまだの印象でしたから、竜安寺のピーク
の紅葉を今年も見たいと思います。

20日に妙心寺法堂の狩野探幽の天井画「雲龍図」を見ました。昨年、
嵐山の天竜寺にある加山又造画伯の「雲龍図」を見てから、にわか
に見たくなっていたものです。
以前に確かに見たとは思いますが、そのこと自体さえ覚えていま
せん。ほぼ350年ほど前の探幽の雲龍図が天井から八方ににらみを
利かせています。350年程という歳月の経過を思わせないほどに、
鮮烈な印象を受けます。私自身の小ささなり、不徳なりを恥じ入る
気分になります。
この雲龍図を見る機会をもてたことが、私におけるこの一年の収穫
の一つだろうとも思います。うれしいことに違いありません。

近くの方は機会がありましたら天竜寺と妙心寺の「雲龍図」を、
見比べてください。

30号        2006年12月01日発行

12月も幾日か経過するうちに気候は冬のものとなってしまった感が
あります。明日は二十四節季の「大雪」。
つのる寒さが、意識を今年の締めくくりにと向かわせます。やり
残したことが無いだろうか・・・などと総括的に考えると、誰もが
ざわざわとしたものを感じて落ち着かず、知らず知らずのうちに、
気ぜわしさに捉われ、そして、意図せず走っているのかも知れま
せんね。

私で言えば、この一年を過不足なく自分でできることをしてきた
ようにも思いますが、果たしてどうなのでしょう。

西行辞典は年内のうちにもう一号発行したいとは思いますが、無理
すぎる気もしています。

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