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西行辞典  あき〜あこ

 あい〜あか   あき〜あこ   あさ   あし   あす〜あち   あな

項目

秋篠・秋しの山・秋くははれる年・あきの一宮・あけとのしさり・通草・阿漕・
あこだ瓜・あこめの袖・あこやのむね


【亮子(あきこ)内親王】→【殷冨門院】参照。
【顕廣】 → 藤原俊成、予定。


【秋篠・秋しの山】 (山、90、247)

 1 秋しのや外山の里や時雨るらむ生駒のたけに雲のかかれる
             (岩波文庫山家集 90P 冬歌)
               (宮川歌合・新古今集585)

 2 初雪は冬のしるしにふりにけり秋しの山の杉のこずゑに
            (岩波文庫山家集 247P 聞書集)

○秋しの(秋篠)
 奈良市秋篠町。秋篠寺がある。西大寺の山号は「秋篠山」です。

○外山(とやま)
 人里に近い山のこと。里山のこと。深山の対語。

○生駒のたけ
 生駒山のこと。奈良県と大阪府の府県境にあり、奈良県の歌枕。

  (1番の歌の解釈)
「秋篠の外山の近くの里は今時雨が降っているのであろうか。
 向こうの生駒のたけには雲がかかっているよ。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋) 

【秋くははれる年】 (山、86)

  月みれば秋くははれる年はまたあかぬ心もそふにぞありける
           (岩波文庫山家集 86P 秋歌)

「後九月、月を翫といふことを」の詞書があり、閏九月のことを指しています。

(閏月)
平安時代の暦は月の周期の29.5日を29日と30日に分けて一年と
していました。29日が六箇月間、30日が六箇月間です。これでは
一年が354日になってしまって、実際の季節と暦の間にずれが
できてしまいます。たとえばまだ12月なのに立春が来たりします。

年の内に春はきにけりひととせを こぞといはんことしとやいはん
                 (在原元方 古今集)
という歌にもあるとおりです。   
そこで、ずれを調整するために三年に一度ほどの割合で閏月が
作られました。閏月のある年は、一年は13箇月になります。
実際の九月の後に同じ九月がつけば、後のほうの九月を閏九月
といいます。西行在世中の閏九月のある年は1137年、1156年、
1175年の三回があります。
3番の歌は1156年か1175年に詠まれたものと思われます。

【亮子(あきこ)内親王】→【殷冨門院】参照。

○後白河院の長女、殷冨門院のこと。殷冨門院、参照。

【あきの一宮】 (山、117)

「志すことありて、あきの一宮へ詣でけるに、たかとみの浦と
 申す所に、風に吹きとめられてほど経けり。苫ふきたる庵より
 月のもるを見て」
            (岩波文庫山家集 117P 羇旅歌)

○志すこと
 どういう目的なり願望があったのか不明です。

○あきの一宮
 広島県の厳島神社のことです。後述。

○たかとみの浦
 後述。

○苫ふきたる庵
 苫とは菅や茅などを編んで、雨露を防ぐために小屋の屋根の覆い
 などに利用するもの。苫葺きの粗末な庵ということ。  

上の詞書の次に下の歌があります。

 波のおとを心にかけてあかすかな苫もる月の影を友にて

  (歌の解釈)

「波の音を聞きながら、月の光を友として旅の一夜を明かしている
様子が、素直に表現されている。第一句が一字字余りになっている
が、それも一首の調べをしずかなものとする上に利いている。」
          (安田章生氏著「西行」87ページから抜粋)

(厳島神社)
広島県佐伯群の厳島(宮島)にある旧官幣中社。福岡県の宗像
大社と同じく、海の神様である宗像三神を祀ります。
京都府の「天の橋立」、宮城県の「松島」とともに日本三景の
一つです。社殿は海中に建ち、丹塗りの鳥居で有名です。

平清盛と厳島の関わりの端緒については良く分かりません。
平清盛は1146年に安芸の守に任ぜられていますが、厳島神社に
初めて参詣したのは文献上では1160年のことです。以後、清盛の
厳島神社崇敬が強くなります。
1152年、清盛による厳島神社社殿修復、次いで1168年にも修築が
なされています。この時に社殿は現在とほぼ同じ配置になった
そうです。有名な平家納経は前年の1167年。納経は金銀の金具を
つけた法華経二十八巻、その他四巻、及び願文一巻からなります。
1175年10月には萬燈会、そして千僧供養が行われています。

前述の西行の旅は何年に行われたのか不明です。1152年から1155年
までの間だろうという説が(尾山氏、川田氏説)ありますが、
清盛の厳島神社初参詣よりも西行の参詣のほうが早かったという
ことになり、これでは少し不自然な気もします。四国への旅と
関係があり、1167年かその翌年のことと解釈したほうが良いよう
に思います。窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で1168年の可能性
を示唆しています。(241ページ)
四国行脚に出ているのは1152年頃と1168年ごろの二回が知られています。

(たかとみの浦)
広島県賀茂郡内海付近、現在の高飛の浦か。
             (渡部保氏著「西行山家集全注解」)

安芸の国(広島県)賀茂郡、高飛の浦か。(新潮古典集成山家集)
                   
広島県豊田郡安浦町大泊。(和歌文学大系21)

地名が異なっています。これは合併などを機会に住所名改変、地名
変更されたことが原因ではないかと思います。いずれも現在の
呉市安浦町のようです。
それにしても、呉市安浦町は宮島と随分と離れた位置にあります。
そのことから考えると、この時の旅は船旅が中心だったのだろう
と思えます。

【顕廣】 → 藤原俊成

【あけとのしさり】 (山、173)

1 もののふのならすすさびはおびただしあけとのしさりかもの入くび
               (岩波文庫山家集 173P 雑歌)

○もののふ
 武士のこと。ここでは武芸家?

○すさび
 心のおもむくままに物事をすること。

○あけとのしさり
 不明。武道の技の名称の可能性あり。

○かもの入くび
 相撲の技の一つ。首を相手の脇の下に入れて反り返る
 ように攻める技。

 新潮古典集成山家集では以下のようになっています。

 もののふの 馴らすすさみは 面立たし あちその退り 鴨の入首

◇すさみ=物事の勢いに乗ずること。
◇面立たし=名誉なこと。光栄なこと。
◇あちその退り 鴨の入首=意味不明であるが、馬の訓練の方法の
        呼称か。

  (歌の解釈)

 『武士が勢いに乗ってする訓練はまことに面目あることだ。
 「あちその退り」や「鴨の入首」など。』
              (新潮古典集成山家集から抜粋)

 『武士が訓練する術はおびただしくある。あげどのしさり、
  かもの入れくび、などはその一例である。』
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

 『武芸家というものは普段から大変な技を手慰みのように
 こなしているものだ。あけとの退りとか鴨の入首とか、跳(と)
 んだり跳(は)ねたり、反り返ったり。』
                (和歌文学大系21から抜粋)

【通草】 (山、139)

1 ますらをが爪木に通草さしそへて暮るれば歸る大原の里(寂然)
              (岩波文庫山家集 139P 羇旅歌)

○寂然
 常盤三寂(大原三寂)の一人で藤原頼業のこと。西行とはもっとも
 親しい歌人で贈答歌も多い。

○ますらを
 この場合は農夫、きこりなどの山を生活の場にしている男性を
 指します。

○爪木
 薪などにするため、手で折り取った小枝のこと。
 
○通草
 蔓性の植物の「あけび」のこと。熟した実は食用で甘い。木通とも表記。

○大原の里
 京都市左京区大原のこと。寂然が出家後に住んでいました。

高野山に住んでいた西行と京都大原に住んでいた寂然との贈答歌
の中のもので、歌の作者は寂然です。

 (歌の解釈)

大原の里では日が暮れると、薪を切り出していた樵たちが枝に
串刺しにしたあけびを手土産に山から帰って行く。
              (和歌文学大系21から抜粋)
【阿漕】

「阿漕」の名詞は山家集に記述がありません。
伊勢の歌枕です。
現在の三重県津市阿漕町の海岸一帯を指し、古代、伊勢神宮に
供える海産物を採集するための漁場でした。昭和時代の採集地を
以下に記述します。

○塩=五十鈴川河口の御塩浜で採集。調製。
○あわび=鳥羽市国崎町の鎧崎で採集。調製。ほかにひじき、
     サザエなど。
○鯛=三河湾の篠島で調製。採集地不明。
            (歴史読本、昭和63年3月号から抜粋)

世阿弥の作といわれる謡曲に「阿漕」があります。阿漕浦で密漁
した漁師の懺悔の話から、西行の恋の告白にと筋が展開します。

「源平盛衰記」にも「阿漕」の記述があり、西行出家の原因を高貴
な女性との恋愛という筋立てにしています。

 (阿漕)
現在の「あこぎ」という言葉の意味は、欲が深くて思いやりのない
さま、残酷である、ひどいことをする・・・というようなニュー
アンスがあります。
ところが平安時代には少し意味が違って用いられています。

「むさぼるように何かをすること・・・」「連続して何かをしょう
とする気持」派及的に「しっこい」とか「あつかましい」という
意味合いで使われていたようです。

◎ あふことをあこぎの島に引く鯛のたびかさならば人も知りなむ
                   (作者不詳 古今六帖)

◎ いかにせむあこぎの浦のうらみても度かさなれば変る契りを
                   (藤原冬平 新千歳集) 

【あこだ瓜】 (山、52)

1 撫子のませにぞはへるあこだ瓜おなじつらなる名を慕ひつつ
               (岩波文庫山家集 52P 夏歌)

この歌は「西行法師家集」所収歌です。

 (詞書)
「撫子のませに、瓜のつるのはひかかりたりけるに、小さき瓜
 どものなりたりけるを見て、人の歌よめと申せば」

○撫子
 秋の七草の一つ。夏から秋に淡紅色の可憐な花をつける。「常夏」の別名
 がある。和歌では撫で慈しむ子供という比喩を持って使われることがあります。

○ませ
 垣根のこと。ませ垣のこと。ここでは撫子を垣根代わりにしているという
 こととも解釈できますが、単純に垣根に撫子の花があって、それに、
 あこだ瓜の蔓が絡んでいたことを言っていると思います。

○あこだ瓜
 ウリ科の植物。セイヨウカボチャの一種。実は小さく丸く赤くて、
 装飾用に使われた。

○おなじつらなる
 あこだ瓜の吾子と撫子の言葉の類似性、内包する意味の近似性から
 「同じ連なる」としたもの。垣根に撫子とあこだ瓜が一緒に生えて
 いることをもあわせています。

  (歌の解釈)

「なでしこの咲くまがきにあこだ瓜の蔓が這いかかっているよ。
 同じく「子」という名を持っているなでしこを慕って。」
             (和歌文学大系21から抜粋)

【あこめの袖】 (山、248)

1 むかしかな炒粉かけとかせしことよあこめの袖にたまだすきして
             (岩波文庫山家集 248P 聞書集)

この歌は「嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを」
という詞書のついた十三首のうちの一首です。西行が二度目の
陸奥の旅から帰ってから嵯峨の庵に住んでいた頃の歌会での詠歌
とみられています。「人々」の、名前まではわかりません。 

○炒粉(いりこ)かけ
 炒粉とは米の粉を炒って作った菓子の原料のこと。その粉を子供
 同士でふざけて、かけ合っている情景のこと。

○とか
 後述。

○せしことよ
 したことがあるよ、という体験を述べた懐旧のことば。

○あこめの袖
 あこめとは(1)古代、男子用衣装の一つ。束帯のときに単(ひとえ)と
 下襲(したがさね)の間に着た衣。(2)婦人・童女が着た(うちき)の一種。
 紅色の童着。その衣装の袖のこと。 

○たまだすき
 活動しやすくするという目的で、和服の袖をからげてとめる紐のこと。
 玉は玉葛や玉串と同様に美称。

 (とか)

当時でも(・・・とか)という用い方をするということが不思議
でした。私の感覚では現在的な言葉のようにも思いました。
手持ちの古語辞典にも広辞苑第二版にも「とか」の記載がありま
せん。日本語大辞典からのみ引用してみます。

1 とか 〈副助〉(種々の語に付く)
         並べあげる意を表す。
  『用例』 紙○○鉛筆○○、みんな用意した。

2 とーか〈連語〉(格助詞「と」に副助詞「か」のついたもの)
         他人から聞いたか、忘れたかで情報がはっきり
         しない意を表す。
  『用例』 確か小林さん○○という人、そう言った。


西行歌では「とか」の用例はこの一首のみです。「2」の意味で
用いられていることがわかりました。それでも散文的感覚なり、
用法のように感じて、いまひとつすっきりとしません。
「とか」の用例歌を一首。
    
秋の月山辺さやかにてらせるはおつるもみぢのかずを見よとか
                    (作者不詳 古今集)

  (歌の解釈)

「昔のことだなあ、炒粉かけとかをしたことだよ、あこめの袖に
 美しい襷を掛けた姿で。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
 
【あこやのむね】 (山、127)

「いらごへ渡りたりけるに、ゐがひと申すはまぐりに、あこやの
むねと侍るなり、それをとりたるからを、高く積みおきたりける
を見て」
            (岩波文庫山家集 127P 羇旅歌)

○いらご
 伊良湖。愛知県の渥美半島の先端にある地名。

○ゐがひ
 胎貝。イガイ科の二枚貝。

○あこやのむね
 阿古屋の宗。阿古屋とはウグイスガイ科の二枚貝のアコヤガイの
 ことで、真珠の母貝となります。宗とは主の意味で、本体とか中心を
 表します。したがって「あこやのむね」とは、真珠そのものを指します。
         
上の詞書の次に下の歌があります。

あこやとるゐがひのからを積み置きて宝の跡を見するなりけり

  (詞書の解釈)
 
「伊良湖に渡った時に(い貝)というはまぐりにあこやが主と
 してあるのである。その真珠をとった後の貝殻を高く積んで
 おいてあるのを見て」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

  (歌の解釈)

「真珠をとるい貝の、真珠をとったあとの貝殻を高く積んで
 おいて、宝のあとを見せるのであったよ。」
        (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

* (い貝)と(はまぐり)は別種の貝ですが、西行は(い貝)
  も(はまぐり)と認識していたようです。

真珠のことを古くは「阿古屋玉」とか「白玉」と言っていたそう
です。万葉集にも「白玉」の歌は多くあります。
古事記編纂者の太安万侶の墓から真珠4個が発見されましたが、
鑑定の結果、鳥羽産の阿古屋真珠とのことでした。
聖武天皇の愛用品にもたくさんの真珠が用いられていて、古代
から真珠は「宝」として珍重されていたことがわかります。
西行歌にも「白玉」歌は多くありますが、露とか涙にかかる言葉と
して用いられていて、真珠を表す「白玉」歌はありません。

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