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西行辞典  あず〜あち

 あい〜あか   あき〜あこ   あさ   あし   あす〜あち   あな

項目
あづさ弓・東・あづま・東路・東国・あづま遊び・吾妻鏡・あづまや・
東屋・あせ行く・あだし野・

【あぢのむらまけ】 → (あじのむらまけ)参照

【あづさ弓】 (山、259)

 【あづさ弓】
 梓の木で作った弓のこと。カバノキ科の植物である梓は古来、
 呪力のある植物として信じられていて、武具としてよりも神事
 に主に用いられたようです。「梓の弓をはじきながら、死霊や
 生霊を呼び出して行う口寄せ」のことを「梓」ともいい、それを
 執り行う巫女を「梓巫女」という、と古語辞典にもあります。
 古代の素朴な民族宗教と密接に関係していた弓です。
 和歌においては枕詞的に用いられ、音、末、引く、張る、射る
 などに掛けて詠まれています。
 万葉集にも多くの「梓弓」の歌があります。

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 かくてものがたり申しつつ連歌しけるに、扇にさくらを
 おきてさしやりたるを見て     家主 顕 廣

   あづさ弓はるのまとゐに花ぞみる (顕廣)

 とりわきつくべきよしありければ      

   やさしことになほひかれつつ   (西行)
             (岩波文庫山家集 259P 聞書集)

○連歌
 詩歌表現形式のひとつ。万葉集巻八の尼と大伴家持の作品が
 連歌の起源ともいわれています。 

  佐保河の水を塞き上げて殖ゑし田を (尼)
  苅る早飯(わさいひ)は独りなるべし (家持)

 連歌は室町時代に流行し、江戸時代の俳諧にと発展しました。
 数人で詠み合うのが普通ですが、一人での独吟、二人での両吟、
 三人での三吟などもあります。

○顕廣
 藤原俊成が1167年に改名するまでの名前。葉室顕頼の養子と
 なって、葉室顕廣(広)と名乗っていました。
 葉室家も藤原氏です。

○はるのまとゐ
 (円居・団居) 一家の者が楽しく集まること。だんらん。
 車座になること。(講談社「日本語大辞典」より抜粋)
春の日に友人たちが寄り集まって歓談する状況を指しています。
  53ページ「水の音に・・・」歌にも(まとゐ)の言葉があり
 ます。(まと)は的であり、弓の縁語です。

○とりわきつくべき
 西行を名指しして、あとの句をつけるように・・・とのこと。

○やさしことに
 底本では(やさし)と(ことに)の間に(き)が入っています。
 岩波文庫版では(マヽ)と傍記されていて(やさししことに)と
 読めます。
 「やさしことに」は字足らずなのですが、梓弓の縁語仕立てに
 するために意図的に(き)を傍記したものでしょう。
 従ってここでは(矢差しことに・・・)の意味だと思います。

 (詞書と歌の解釈)

こうして物語をしながら連歌を詠んでいる時に、扇の上に桜の
花弁をおいて、差し出したのを見て

春の団欒に、弓張りの形の扇の的の上に、射られた矢ではなく、
花を見ることだ。                 (顕廣)

特に西行にあとの句をつけるように言れたので

風雅なことには出家後もなを変わらずに引かれている (西行)

    (和歌文学大系21及び渡部保氏著「西行山家集全注解」を
       参考にしています。) 

◎ 梓弓いそべの小松たが世にか万代かねてたねをまきけん
               (よみ人しらず 古今集907)
 
◎ あづさ弓引かばまにまによらめどものちの心を知りかてぬかも
                 (石川郎女 万葉集0098)

◎ あづさゆみはる山近く家居して絶えず聞きつるうぐひすの聲
                 (山部赤人 新古今集29) 

【東・あづま・東路・東国】 (山、105・154)

 【東・東路・東国・あづまの方】
 普通は関東・東北地方の総称としていいます。箱根より東の地域
 を指しますが、逢坂の関より東を指してもいます。

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   あひ知りたりける人の、みちのくにへまかりけるに、
   別の歌よむとて

1 君いなば月待つとてもながめやらむあづまのかたの夕暮の空
              (岩波文庫山家集105P・新古今集)

2 白河の關路の櫻さきにけりあづまより来るる人のまれなる
          (岩波文庫山家集272P補遺・西行法師家集)

   あづまの方へ、相知りたる人のもとへまかりけるに、さやの
   中山見しことの、昔になりたりける、思ひ出でられて

3 年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山
       (岩波文庫山家集128P・西行法師家集・新古今集)

   あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て

4 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
       (岩波文庫山家集128P・西行法師家集・新古今集)

   あづまへまかりけるに、しのぶの奧にはべりける社の紅葉を

5 ときはなる松の緑も神さびて紅葉ぞ秋はあけの玉垣
                   (岩波文庫山家集130P)

   東国修行の時、ある山寺にしばらく侍りて

6 山高み岩ねをしむる柴の戸にしばしもさらば世をのがればや
         (岩波文庫山家集128P・異本山家集追而加書)

7 東路やあひの中山ほどせばみ心のおくの見えばこそあらめ
               (岩波文庫山家集154P・夫木抄)

8 東路やしのぶの里にやすらひてなこその關をこえぞわづらふ
            (岩波文庫山家集280P補遺・新勅撰集)

○あひ知りたりける人
 誰を指すか個人名は不明です。

○みちのくに
 陸奥の国のこと。

○白河の関
陸奥の国の歌枕。陸奥の国の入り口に当たる。現在の福島県
 白河市にあったという古代三関のひとつ。あとの二つは
 念珠が関と勿来の関。

○さやの中山
 東国往還のときにたどる東海道の難所。現在の静岡県掛川市の
 東部にある峠。標高は200メータという。

○しのぶ
 地名。福島県福島市にある信夫のこと。陸奥の国の歌枕。伊勢
 物語によって信夫摺りが有名になる。

○なこその関
 現在の福島県いわき市勿来にあった古代の関で、白河の関、
 念珠が関とともに古代奥羽三関のひとつ。古称は菊多の関。

○あひの中山
 創刊号を参照願います。

 (4番の歌の解釈)

前略「空に消えて」という第三句は、一首の中心にあって、重大な
働きをしている。それは、富士の煙の姿であるとともに、一切は空
(くう)であることを深く観じるに至った西行の晩年の心境の匂っ
ている詩句ともなっているものである。かくて、富士の煙と西行の
思いとは一つに溶け合って、美しいイメージを描き、「行方も知ら
ぬわが思ひかな」の詩句は、不安がそのまま平安につながっている
ような趣を帯びるに至る。後略。
              (安田章生氏著「西行」から抜粋)
 
* 6番の「山高み・・・」歌は西行作ではない可能性もあります。

◎ 東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲居に世をやつくさむ
                 (壬生忠岑 新古今集)

◎ みやこにはまだ青葉にて見しかどももみじ散りしく白川の関
                   (源頼政 千載集)

◎ 春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれかぎり知られず
                  (伊勢物語 第一段)

◎ みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに
                    (源融 古今集)

【あづま遊び】 (山、224)

 【あづま遊】
神楽舞の演目の一つです。現在も加茂社や八坂神社で演じられて
います。東国の風俗歌に合わせてする舞楽であり、舞人は10人、
歌い手は4人、伴奏は歌と和琴、狛笛、篳篥(ひちりき)などに
よって行われます。東舞とも言われます。
「駿河舞」や「求子歌」がそれにあたります。

「ことごとしき高麗、唐土の楽よりも、東遊の、耳馴れたるは、
なつかしく、おもしろく、波・風の聲に響きあひて・・・」
と、源氏物語若菜下にも記述があります。

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  北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、折うれしくて待たるる
  程に、使まゐりたり。はし殿につきてへいふしをがまるる
  まではさることにて、舞人のけしきふるまひ、見し世のこと
  ともおぼえず、あづま遊にことうつ陪従もなかりけり。
  さこそ末の世ならめ、神いかに見給ふらむと、恥しきここち
  してよみ侍りける

 神の代もかはりにけりと見ゆるかな其ことわざのあらずなるにて
               (岩波文庫山家集224P 神祇歌)

○北まつり
 岩清水八幡宮の南祭りに対して、賀茂社の祭りを北祭りといい
 ます。陰暦四月の中の酉の日に行われます。京都三大祭りの一つ
 の葵祭りのことで、現在は5月15日に行われます。
 賀茂の臨時の祭りは11月の下の酉の日に行われていましたが、
 明治三年で廃止となりました。 

○はし殿
 橋殿は上賀茂神社、下鴨神社ともにありますので、この詞書と歌
 からはどちらの神社か特定はできません。
 橋殿は雅楽などの神事が執り行われる殿舎です。

○へいふし
 膝をついて平伏している状態を指します。

○見し世のことともおぼえず
 以前に見たことのある頃とは違っていて・・・

○陪従
 祭りに携わる楽人を言います。藤原家隆や隆信も陪従を勤めた
 ことがあるということを何かで読みました。

○其ことわざ
 舞人の舞のありかた。その技量のこと。

  (詞書と歌の解釈)
この詞書と歌の詠まれた年代が分かりません。賀茂社の衰退を
感じさせる詞書であり歌ですので、これはやはり源平争乱という
ことを背景とした当時の社会不安と連動したものと考えていい
のかもしれません。ただし手持ちの文献ではこの歌の作歌年代に
ついて触れたものはありません。

賀茂祭の頃に賀茂社に参詣したのですが、具合良く、少し待った
だけで朝廷からの奉幣の勅使が到着しました。勅使が橋殿に着いて
平伏して拝礼されるところまでは、昔ながらのしきたりのままで
した。
ところが東遊びの神楽舞を舞っている舞人の舞い方は昔に見たもの
と同じ舞とは思えないほどにお粗末で、舞に合わせて琴を打つ人
さえいません。これはどうしたことでしょう。いくら末法の時代
とはいえ、この事実を神はどのように御覧になっていること
だろう。まったく、恥ずかしい気がします。
 
人の世のみならず、神の代もすっかり変わってしまったと見える
ことだ。琴の陪従もいなくなり、祭のことわざ、舞人の振舞も昔の
ようではなくなったことにつけても。
               (新潮古典集成山家集から抜粋)

【吾妻鏡】

あずまかがみ。「東鑑」とも表記。鎌倉幕府が編纂した歴史書
です。平安末期の1180年、源頼政の挙兵から書き起こされ、
1266年までの出来事を日記体で記述しています。全52巻。ただし
45巻目が散逸していて、実際は51巻です。

吾妻鏡には、文治2年(1186年)8月15日条に西行が源頼朝と会談
したことが記載されています。

「佐藤兵衛尉憲清法師也。今号西行。仍奉幣以後、心静謁見
 可談和歌事・・・」

とあり、翌16日に頼朝から銀製の猫をもらったことも記述されて
います。

【あずまや】 (山、122)

 【あづまや】
 地名です。和歌山県から奈良県にかけての大峰修行の時の靡
 (なびき)の一つです。靡とは行場のことをいい、大峰には
 75箇所の靡があります。
 「あずまや」は第16番の奈良県十津川村にある四阿宿を指します。

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  あづまやと申す所にて、時雨ののち月を見て

 神無月時雨はるれば東屋の峰にぞ月はむねとすみける
             (岩波文庫山家集122P羇旅歌)

○むねとすみける
 「むね」は第7号の「あこやのむね」でも説明したように、主、
 中心、というほどの意味です。峰の中心として月は神々しく澄ん
 で(住むを掛ける)いるということです。

 (歌の解釈)
初冬10月の時雨が晴れると、四阿宿の尾根に出番を待っていた主人
公のように美しく澄んだ月が出る。
                (和歌文学大系21から抜粋)

◎ 東屋の宗と立ててし山伏をやがて破らぬ身ともならばや
                    (行尊 行尊集)


【東屋】
 (山、49、90)

 【東屋】
 部屋や壁や窓などはなくて、四隅に柱を立てて、雨を防ぐため
 に屋根をつけただけの簡素な建築物。当時、誰もが利用できる
 公共のそういう建築物があったとも思えません。
 これでは住居としての役にたちません。
 歌では、粗末な造りの住処というほどの意味で個人の住居を卑称
 して「東屋」といっているものでしょう。
 「東屋」は当時の東国の田舎風の建築物をも指していて、寄棟造り
 (入母屋造り)で壁もあります。住居として十分に機能する造り
 です。よく出てくる「庵」という言葉と同義であると私は解釈
 しています。ただし、どの研究者も庵と東屋を同義的に捉えては
 いません。東屋を庵と結びつけて考えていないようです。

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1 東屋のをがやが軒のいと水に玉ぬきかくるさみだれの頃
              (岩波文庫山家集49P夏歌)

  時雨の歌よみけるに

2 東屋のあまりにもふる時雨かな誰かは知らぬ神無月とは
              (岩波文庫山家集90P冬歌)

○をがやが軒
 雄茅ではなくて小茅と解釈するべきでしょう。雨を防ぐために
 東屋に葺かれている茅という意味です。

○いと水
 雨が茅伝いに水の糸となって切れずに滴り落ちている情景を
 表します。水を細い糸に見立てています。

○玉ぬきかくる
 わかりにくい表現です。「ぬき」とは「貫き」で糸を玉に通す
 こと、「かくる」とは通した玉に糸を垂らすこと、玉は水の
 見立て・・・と和歌文学大系21にありますが、わかったような、
 わからないような不可思議さを感じます。

 (2番歌の解釈)

時雨とはいえ余りにもよく降ることだ。時雨が降る神無月とは誰
でも知っているのだが。
               (新潮古典集成山家集から抜粋)

◎ さしとむる葎やしげき東屋のあまり程ふる雨そそぎかな
                   (源氏物語 東屋)
【あせ行く】 (山、172)

 【あせ行く】
 褪せ行くこと。風景や色彩が移ろい変わり、色あせていくこと。
 冬枯れのためにモノトーンの世界に向かうということ。

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1 つばなぬく北野の茅原あせ行けば心ずみれぞ生ひかはりける
             (岩波文庫山家集40P春歌・夫木抄)

2 山がつの住みぬと見ゆるわたりかな冬にあせ行くしづはらの里
             (岩波文庫山家集172P雑歌・夫木抄)

○つばな
 チガヤのこと。(つばな)はチガヤの別名。イネ科の多年草。
 初夏に咲き、葉は50センチほどの長さになる。春の末に葉に
 先立って生じる花穂のことを特に(ツバナ)と言います。

○北野
 内裏の北に広がる洛北七野の一つです。洛北七野とは、平野、
 北野、〆野、上野、内野、蓮台野、紫野を言います。
(別説があり、〆野の代わりに萩野か御栗栖野を入れています。)
 北野は北野天満宮のある辺りを指す地名です。歌にある「北野」
 は、この北野を指すものと思います。

○心すみれぞ
 心が澄むということと、すみれの花をかけていることば。

○山がつ
 山を生業とする樵や木地師を指す言葉です。身分の低い人たちと
 見られていました。

○わたり
 住んでいる場所。または平面的に広がっている空間を指すことば。

○しずはらの里
 左京区静原町のことです
 静原は鞍馬と大原の中間に位置する山の中の町です。現在も京都
 の街中から取り残されたような山あいの町です。ここから大原に
 向かう道があります。静原から江文峠を越えると大原です。
 江文峠を越えて後白河院は寂光院に住む建礼門院を訪ねました。
 大原御行として平家物語の巻末を飾っています。

 (2の歌の解釈) 

 「木樵のような身分賤しい者が住んでいたと思われる辺りだよ。冬と
 ともに荒涼とした景色になって行く静原の里は」
              (新潮日本古典集成、山家集より抜粋)

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◎ 千早ふる神の北野にあとたれてのちさへかかるものや思はん
                   藤原定家 (拾遺愚草)

◎ この里は北野の原の近ければ隈なき月の頼もしきかな
                   藤原良経 (秋篠月清集)

【あだし野】

 【あだし野】
 京都市右京区の小倉山の北麓にあります。古代京都の西の葬送地
 です。東には鳥辺野、中ほどには蓮台野が京都の古来からの葬送
 地として著名です。         
 化野の「あだし」とは、人生の無常を言い(はかないなぁ・かな
 しいなぁ・せつないなぁ)というほどの意味です。そういう意味
 を含んだ「野」と言う事で、「あだしの」という固有の土地を
 さす名詞になったようです。
 誰とてもとまるべきかはあだし野の草の葉ごとにすがる白露
           (岩波文庫山家集213P哀傷歌・続古今集)

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 誰とてもとまるべきかはあだし野の草の葉ごとにすがる白露
           (岩波文庫山家集213P哀傷歌・続古今集)

○とまる
 泊まること。その場所。人生の最後を迎えて死後に行き着く場所
 としての意味。
 (波高き世をこぎこぎて人はみな舟岡山をとまりにぞする)
 に用例があります。
 ただしこの歌の場合は(誰であれ生きてこの世に留まり続ける
 ことは出来ない)という解釈も成立するようです。

 (歌の解釈)

 「誰だって、いつまでも生きて止まることのできるこの世で
 あろうか、そうではない。あの嵯峨の奥にある墓地、あだし野の
 草の葉ごとに、わずかにすがるように置いている白露、あのように
 はかない身の上ではないか。」
          (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)
 
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◎ くるるまも待つべき世かは仇し野の末葉の露に嵐たつ也
                 (式子内親王 新古今集)

◎ 人の世は思へばなべてあだしののよもぎがもとのひとつ白露
                  (藤原良経 秋篠月清集)

【あぢのむらまけ】 → (あじのむらまけ)参照
 
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