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京都写真集 マガジン28号 25号 24号 23号
東山区北部 大谷本廟 六波羅蜜寺 法観寺 霊山 六道珍皇寺 清水寺
双林寺 長楽寺 白川 法勝寺跡
東山区南部 泉涌寺 今熊野神社
清水寺 撮影 2001年4月19日
1 「世につかへぬべきやぅなるゆかりあまたありける人の、さも
なかりけることを思ひて、清水に年越に籠りたりけるにつか
はしける」 216ページ
此春はえだえだごとにさかゆべし枯たる木だに花は咲くめり
2 「東山に清水谷と申す山寺に、世遁れて籠りゐたりける人の、
れいならぬこと大事なりと聞きて、とぶらひにまかりたりける
に、あとのことなど思ひ捨てぬやうに申しおきけるを聞きて
よみ侍りける」 241ページ
いとへただつゆのことをも思ひおかで草の庵のかりそめの世ぞ
清水寺は798年に坂上田村麻呂が建立したと伝えられます。
下の画像は清水寺三重の塔です。角度が悪くて二重にしか見えません。
国の重文に指定されています。
清水寺の庭園は「月の庭」といいます。庭園から背後の音羽山を撮影しました。
みずみずしい新緑の頃です。
清水寺の庭園に咲く八重の桜です。
田村麻呂が征夷大将軍として、東北に住んでいた人達と戦いました。
桓武天皇の治世下です。801年と802年の頃のことです。
蝦夷(えみし)などとさげすんでいましたが、彼らは和歌も作ったりしていて、
文化程度は相当なものでした。彼らは戦いに敗れて降伏し、京都に護送
されました。田村麻呂は助命を嘆願しましたが、結局、彼らは処刑されました。
下はアテルイとモレの碑です。 昔の悲しい実話です。
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六波羅密寺
このお寺は醍醐天皇の第2皇子空也上人の建立によります。951年のことです。
初めは西光寺と称していました。平安時代末期、平氏が広大な境域内に邸館を
構えました。その数、5200余軒。源平の戦乱、その後の幾多の
戦乱で何度と無く兵火にあいました。
現在は小さなお寺です。空也上人像、平C盛坐像などがあります。
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六道の辻・六道珍皇寺
下は鳥邊野の入り口にあたる六道の辻の石碑と六道珍皇寺の標柱です。
六道珍皇寺は京都でも有数の古いお寺です。境内には、篁堂があります。
小野篁は昼は朝廷に出仕し、夜はここから地獄に行って、閻魔大王に仕えたと
いう伝説があります。
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法観寺
八坂の塔です。聖徳太子の建立という説があります。戦火で焼失して、
現在の塔は室町時代の1440年の建立です。
下はこの五重の塔の由緒を説明した立て札です。
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霊山
雪の朝、霊山と申す所にて眺望を人々よみけるに 98ページ
たけのぼる朝日の影のさすままに都の雪は消えみ消えずみ
霊山観音です。第二次世界大戦で犠牲になった人達を弔うために造られた
ものです。高さ34メータあります。霊山は西行もなじみのところです。
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大谷本廟
1 鳥部山わしの高嶺のすゑならむ煙を分けて出づる月かげ 211ページ
2 なき跡を誰としらねど鳥部山おのおのすごき塚の夕ぐれ 212ページ
3 なき人をかぞふる秋の夜もすがらしをるる袖や鳥邊野の露 282ページ
4 かぎりなく悲しかりけりとりべ山なきを送りて歸る心は 204ページ
5 鳥邊野を心のうちに分け行けばいまきの露に袖ぞそぼつる 192ページ
1 「鳥部野にてとかくのわざしける煙のうちより出づる月
あはれにみえければ」 211ページ
この詞書の次に(1)の歌があります。
2 「ゆかりありける人はかなくなりにける、とかくのわざに鳥部山
へまかりて、歸るに」 204ページ
この詞書の次に(4)の歌があります。
東山五条にあります。江戸時代になってこの墓苑を本願寺が管理を任されたようです。
この辺一帯は往古から葬送の地でした。鳥邊野の煙として有名です。
西行の歌も数首あります。
昭和7年の日支事変で美談を生んだ(生み出された?)肉弾三勇士の墓です。
その内の一人は筑豊の炭坑労働者です。いつだって立場の弱い者が犠牲に
なります。
本当に驚愕すべき墓苑です。江戸時代の人達の墓もあります。
画面中央あたりに見える塔は清水寺の三重の塔です。
お墓は清水寺まで切れ目なく続いています。
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