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しあ〜しか しき〜しで しな〜しほ しま〜しも しゃ しゃ〜しゅ しょ しら〜しを しん

項目

似雲=じうん・慈円(慈鎮)・しかの浦波・志賀の浦風・志賀の里・志賀の山越・
しか・鹿「かせぎ・すがる」・しかまの市・しがらき・詞花和歌集

【塩ふむきね】 (山、168)→「しほふむきね」に記述予定
【唐崎・志賀の唐崎】→「唐崎」参照
【しがふとて】→「しか・鹿・かせぎ・すがる」参照
【しかめあわせ】→「しか・鹿・かせぎ・すがる」参照  

【似雲=じうん】

 江戸時代中頃の僧侶です。1673年生、1753年没と言われます。
似雲法師は西行を慕って諸国を巡り歩き、「今西行」とも呼ばれ
 たようです。
 1732年に河内国の弘川寺で西行の塚を発見しました。
 下の西行歌などから考えても、おそらくは西行の塚として間違い
 ないでしょう。

 訪ね来つる宿は木の葉に埋もれて 煙を立つる弘川の里
           (鹿野しのぶ氏「語文」発表の西行歌)

 現在、弘川寺にある西行堂は似雲法師が1744年に建立したものと
 伝わります。
 弘川寺の「西行記念館」では似雲法師の手による「阿弥陀如来像」
 「唐崎時雨図」などが残されており、境内の西行塚の近くに似雲
 法師の塚もあります。

 弘川寺には以下の三首の西行歌碑があります。

 仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば
      (1940年 750年遠忌記念 源(左左木)信綱氏揮毫)

 ねがはくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎのもちづきのころ
        (1989年 800年遠忌記念 尾山篤二郎氏揮毫)

 年たけて又越ゆべしとおもひきや いのちなりけりさやの中山
         (1963年 西行堂修築記念 川田順氏揮毫)

 以下は似雲法師の歌です。

  尋ねえて袖に涙のかかるかな 弘川寺に残る古墳

  西行に姿ばかりは似たれども心は雪と墨染の袖 

【慈円(慈鎮)】

 慈鎭和尚とは、慈円(1155〜1225)の死亡後に追贈された謚号です。
 従って西行も慈円本人も「慈鎮」とは誰のことか知りようもあり
 ません。西行自筆稿では「慈円」と書かれていたはずです。

 西行と知り合った頃の慈円は20歳代の前半と見られていますので、
 まだ慈円とは名乗っていないと思いますが、ここでは慈円と記述
 します。
 慈円は、摂政・関白藤原忠通を父として生まれました。藤原基房、
 兼実などは兄にあたります。11歳で僧籍に入り、覚快法親王に師事
 して道快と名乗ります。
 (覚快法親王が1181年11月に死亡して以後は慈円と名乗ります。)
 比叡山での慈円は、相應和尚の建立した無動寺大乗院で修行を
 積んだということが山家集からもわかります。このころの比叡山は、
 それ自体が一大権力化していて、神輿を担いでの強訴を繰り返し
 たり、園城寺や南都の興福寺との争闘に明け暮れていました。
 それは貴族社会から武家政権へという時代の大きなうねりの中で、
 必然のあったことかもしれません。

 このような時代に慈円は天台座主を四度勤めています。初めは兄の
 兼実の命によって1192年からですが1196年に兼実失脚によって辞任。
 次は後鳥羽上皇の命で1201年2月から翌年の1202年7月まで。1212年
 と1213年にも短期間勤めています。
 西山の善峰寺や三鈷寺にも何度か篭居していて、西山上人とも呼ば
 れました。善峰寺には分骨されてもいて、お墓もあります。
 1225年71歳で近江にて入寂。1237年に慈鎭和尚と謚名されました。
 歴史書に「愚管抄」、家集に「拾玉集」などがあります。
 新古今集では西行の九十四首に次ぐ九十二首が撰入しています。
 藤原俊成撰の「600番歌合」では源信定の名を使っています。
      (學藝書林「京都の歴史」を主に参考にしました。)
 
 37歳差という年齢の違いを超えて、西行とも親しい関係でした。
 贈答歌も2度あります。御藻濯河歌合の清書をしたのも慈円という
 説もあります。西行晩年の歌を最も早く知りえる位置にいた
 歌人の一人です。
 西行没後、3首の追悼の歌を詠んでいます。

 君知るやその如月と言ひ置きて言葉におへる人の後の世

 風になびく富士の煙にたぐひにし人の行方は空に知られて

 ちはやぶる神に手向くる藻塩草かき集めつつ見るぞ悲しき
               (以上三首、慈円 拾玉集)

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01   前大僧正慈鎮、無動寺に住み侍りけるに、申し遣しける

  いとどいかに山を出でじとおもふらむ心の月を獨すまして
      (岩波文庫山家集181P雑歌・新潮欠番・続後撰集)

02   帰りなむとて朝のことにて程もありしに、今は歌と申す
    ことは思ひたちたれど、これに仕るべかりけれとてよみ
    たりしかば、ただにすぎ難くて和し侍りし   慈鎭

  ほのぼのと近江のうみをこぐ舟のあとなきかたにゆく心かな
   (慈鎮僧正歌)(岩波文庫山家集278P補遺・異本拾玉集)

 01番歌は西行から慈円に贈った歌です。下の歌は慈円の返歌です。
 
 うき身こそなほ山陰にしづめども心にうかぶ月を見せばや
 (慈鎮僧正歌)(岩波文庫山家集181P雑歌・新潮欠番・続後撰集)

 02番歌は下の西行歌に対しての慈円の返歌です。

 鳰てるやなぎたる朝に見渡せばこぎゆくあとの波だにもなし
        (岩波文庫山家集278P補遺・異本拾玉集)

○無動寺

 無動寺は比叡山東塔に属していて、無動寺谷にあります。滋賀県
 坂本からのケーブルで、延暦寺駅に降りて、すぐ側の無動寺坂
 を一キロほど下った所にあります。不動明王を祀る明王堂が
 本堂で、ほかに建立院・松林院・大乗院・玉照院・弁天堂その
 他の堂宇を総称して無動寺といいます。
 明王堂は千日回峰行の根本道場ともなっています。
 慈円はこの無動寺の大乗院で何年から何年まで修行したのか
 私には不明ですが、いずれにしても西行とは無動寺大乗院で
 二度は逢っているということになります。
 尚、親鸞聖人も10歳から29歳まで大乗院で過ごしたことが知ら
 れています。

○いとどいかに

【いと】 (1)ほんとうに。まったく。(2)たいして。それほど。
【いと‐ど】 いといとの転。いっそう。ますます。
【いとど‐し】(1)ますます激しい。(2)ただでさえ・・・なのに。
         いっそう・・・である。
             (講談社「日本語大辞典」より抜粋)

【いとどいかに=〔いと‐ど‐いか‐に〕】という副詞と形容詞の
 合わさった言葉の意味を正確に理解するのは難しいと思います。
 また、この言葉に込めた西行固有の感覚というものもあるはず
 ですし、なおさら理解できにくい言葉ではなかろうかと思います。

○山を出でじ

 山にそのままとどまること。山を降りる気持ちの無いこと。

○今は歌と申すことは思ひたち

 歌を詠むことを断念しているということ。
 その原因は御裳濯河歌合と宮河歌合を伊勢神宮の内宮と外宮に
 奉納する、その祈願のためだと言われています。

○近江のうみ

 琵琶湖のこと。日本最大の淡水湖で面積は672平方キロメートル。
 最深度103メートル。湖の形が楽器の琵琶に似ている所から、
 この名称になったようです。

○あとなきかたにゆく心

 朝日を浴びて、一艘の小船が過ぎて行く。航跡もやがては消えて
 いく静かな湖面。そこに人の一生という人生行路を暗示させ、
 そして、澄明な静謐、心の平安というものについてまで想起させ
 ている示唆に富むフレーズです。

(01番歌の解釈)

 「ますます何とかして山を出まいと思っていることであろう。
 心の月を一人で澄まして。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「ほのぼのとした夜明け方、近江の湖を漕ぐ舟のあとが残らない
 ところ、そこにひかれてゆくわが心よ。」
 (無常にひかれてゆく心の意か。)
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【しかの浦波】

 滋賀県の琵琶湖の西岸の汀に寄せては返す波をいいます。 

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01 思ひ出でよみつの濱松よそだつるしかの浦波たたむ袂を
         (岩波文庫山家集165P恋歌・新潮1498番)

○みつの濱松

 湖西の比叡山東麓にあたる大津市下坂本の湖岸を「御津」と
 言います。「唐崎」からは2キロほど北に位置します。
 御津の浜に生えている松のことです。

 「御津」は摂津国の歌枕でもあり、「大伴の御津」「難波の御津」
 の形で多くの歌が詠まれています。

○よそだつる

 「よそよそしく見える」ということと「遠く離れて立っている」
 ということを掛けています。

○たたむ袂

 袂を畳むこと。嘆きが次々と押し寄せてきて涙に濡れている袂を
 言います。

(01番歌の解釈)

 「思い出して欲しい。志賀の浦波が打ち寄せてもよそよそしい
 御津の浜松のようなあなたのために、私の袖は波が立つほどに
 涙で濡れていることを。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

【塩ふむきね】 (山、168)→「しほふむきね」に記述予定

【志賀の浦風】

 志賀の里に吹いている風。比叡山から吹き下ろす風という意味が
 込められているようです。

【志賀の里】

 現在の滋賀県大津市の琵琶湖西岸あたりを言います。
 余談ですが、JR湖西線に「志賀」の駅名もありますが、かなり
 北の方になりますから歌にある「志賀の里」とは、あまり関係は
 ないように思います。

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01 ほととぎすなきわたるなる波の上にこゑたたみおく志賀の浦風
            (岩波文庫山家集273P補遺・夫木抄)

02  春になりける方たがへに、志賀の里へまかりける人に
   具してまかりけるに、逢坂山の霞みたりけるを見て

  わきて今日あふさか山の霞めるは立ちおくれたる春や越ゆらむ 
           (岩波文庫山家集14P春歌・新潮09番・
                西行上人集・山家心中集)

○こゑたたみおく

 風が吹けばさざ波が立ち、その波に、ほととぎすの声がこもって
 いるように感じられるということ。

○春になる

 「春になる」とは立春のこと。したがって「方たがえ」は、
 節分の「方たがえ」と分ります。
 方たがえのために京都から志賀の里に行く人に同道して行くと、
 逢坂山が霞んでいる光景が見えたということです。

○方たがへ

 「方違え(かたたがえ)陰陽道でいう凶方に向かうさいに
 行われる習俗。前夜、別の方角に泊まるなどして、方角を
 変えてから目的地に向かう。」
             (講談社 日本語大辞典より抜粋) 

 方たがえの基準はさまざまであって、節分の方たがえとか、
 年単位、三年単位のものまであります。天一神の60日周期、
 太白神の10日周期などもあって、一定の法則で動いています。
 それらのいるところに凶事があるということですから、凶のある
 方向を忌むこと、(方忌=かたいみ)、その方向と合わさる
 ことを避けるために回避行動をしました。それが「方たがえ」
 です。
 源氏物語にも、この方たがえのことが、何度も書かれています。
 節分の夜は、自邸ではなくほかの家で過ごすことによって、
 自邸には方忌が及ばないと信じられていたそうです。
     (朝日新聞社刊 (平安の都) 角田文衛 編著を参考)

○わきて今日

 いつもと違ってとりわけ今日は・・・ということ。

(01番歌の解釈)

 「ほととぎすが鳴いてわたると言われている波の上に、
 声をたたんで置く志賀の浦風よ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「とりわけ今日逢坂山が霞んで見えるのは、春が山越えで手間
 どっているからだろうか。」
     (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【志賀の山越】

 京都の北白河から近江の坂本に抜ける往還道のことです。
 現代は山中越えと言います。滋賀県の崇福寺への参詣道でも
 あります。崇福寺は天智天皇の時代に建立された大寺でしたが、
 現在は廃寺で、寺跡しかありません。
 織田信長が上洛の時にも、この道を拡幅工事をして使ったという
 記録があります。

【志賀の山道】

 「志賀の山道」はどの道を指すか特定できませんが、志賀の
 山越えの道と同義と解釈して差し支えないようです。

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01 ちりそむる花の初雪ふりぬればふみ分けまうき志賀の山越
          (岩波文庫山家集38P春歌・新潮105番・
        西行上人集・山家心中集・玉葉集・夫木抄)

02 春風の花のふぶきにうづもれて行きもやられぬ志賀の山道
          (岩波文庫山家集36P春歌・新潮113番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄) 

○ちりそむる花の初雪

 桜の花弁が散り始めた頃、ひらひらと舞う花弁を雪に見立てて
 います。
 
○ふみ分けまうき

 踏み分けまうき=踏み分けま憂き=踏み分けることが憂く思わ
 れる。「ま憂き」は「まく憂き」の約。
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 踏み分けまうき=踏み分けむあくうき=踏み分け(動詞の未然形)
 む(助動詞連体形朧化用法)あく(古代の名詞)うき(形容詞
 連体形)のつづめた形。また「ふみわけまくうき」の略された
 形で、「く」が上の動詞を体言化する接尾辞で、それが省略され
 たと考えてもよい。
          (渡部保著「西行山家集全注解」から抜粋)
 
 踏みしめて進んで行くことが辛い・・・という気持のことです。 

(01番歌の解釈)

 「散り始めた花が初雪のように降っているので、それを踏み分け
 ながら志賀の山越をするのはもったいなくてつらい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「春風のために吹雪のように舞い散る桜の花に埋もれて、志賀の
 山越えの路は見分け難くなり、行きもやられぬことである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【しか・鹿・かせぎ・すがる】

 哺乳類の動物。エゾシカ、アカシカ、ニホンジカなど鹿類の
 総称。性質はおとなしく食性は草などの植物が普通。
 牡鹿の角は毎年生え変わります。肉は人間の食用にもなります。

 歌では「萩」や「秋」の言葉と共に詠み込まれた歌が多くあり
 ます。雌鹿を求めて鳴く牡鹿の声が、秋の情景とも重なって
 「悲しい」という愛惜に満ちた抒情が表現されています。

 「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」
               (猿丸太夫 百人一首05番)

【かせぎ】

 (すがる)と共に鹿の異名、古称です。
 「かせぎ」は鹿の角が(かせ木)に似ている所から付けられた名称
 です。(かせ「木偏に上と下。峠の文字の(山)の部分が(木)」)
 (かせ木)は英字の(Y)の字のように枝を切って、竿などを高い位置
 に押し上げる道具です。

 別の意味では、紡いだ糸を巻き取るための木製の道具です。
 家紋にも「かせ木紋」があります。

 「朝ほらけ蔀をあくと見えつるは かせきの近く立てるなりけり」
               (赤染衛門 赤染衛門集351番)

【すがる】

 (かせぎ)と共に鹿の異名、古称です。
 古今集では「じが蜂」と説明がありますが、虫の「じが蜂」では
 意味が通じません。ここでは鹿の異名とのことです。

 「すがる鳴く秋の萩原朝立ちて 旅行く人をいつとか待たむ」
            (よみ人しらず 古今集離別歌366番)

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01 ともしするほぐしの松もかへなくにしかめあはせで明す夏の夜
          (岩波文庫山家集52P夏歌・新潮239番)
        
02 みまくさに原の小薄しがふとてふしどあせぬとしか思ふらむ
           (岩波文庫山家集52P夏歌・新潮236番・
         西行上人集・山家心中集・万代集・夫木抄)

03 隣ゐぬ畑の假屋に明かす夜はしか哀なるものにぞありける
          (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮439番・
             西行上人集追而加書・夫木抄)
 
04 さらぬだに秋は物のみかなしきを涙もよほすさをしかの聲
          (岩波文庫山家集69P秋歌・新潮432番)
        
05 しかもわぶ空のけしきもしぐるめり悲しかれともなれる秋かな
          (岩波文庫山家集69P秋歌・新潮434番)
      
○ともし

 (照射)と表記します。灯火(ともしび)、明かりのことです。
 この歌では、夏の旧暦30日前後の月の光の弱い夜に鹿を狩る
 ために、火串に挟んで用意していた松明を灯すことです。
 火に誘われて、近寄ってきた鹿を狩ります。

○ほぐしの松

 (火串)と書きます。
 狼煙(のろし)の台の上に入れたり、杭を地面に立てたりします。
 杭の先端に葦や柴や松などの燃えるものを挟むなりして、燃や
 して鹿に知らせるための設備です。
 この歌の場合は松の枝を挟んで、燃やしているということです。

○かへなく

 交換しないで、ということ。代えないこと。

○しかめあはせ

 (鹿目合わせで)と(鹿妻合わせで)あるいは(然か目合わせで)などの
 意味が重ねられている言葉です。
 「目合う」は、眠ること。また、鹿と目が合うということ。
 「妻(め)合う」は、結婚すること。妻として寄り添わせること。
 意味が錯綜していて、いくつかの解釈が可能です。

○みまくさ

 馬の飼料で「ま草」のこと。「み」は接頭語。

○しがふ

 草などを刈り束ねて、その末を結びあわせること。

○ふしどあせぬ

 「ふしど」は伏す床のこと。寝床のことです。
 「あせぬ」は褪せること。「褪せる」には(浅くなる)という
 意味があります。
 鹿の寝床とは決まった所があるのかどうかわかりませんが、
 いつも寝ている寝床が浅くなっている……ということです。

○假屋

 仮屋のこと。一時的に住む急ごしらえの粗末な作りの家のこと。

(01番歌の解釈)

 「照射に使う火串の松明をまだ一度も取り替えない内に、もう
 夜が明ける。夏の夜は短いから鹿もゆっくり寝てられないだろう。
 今夜は一頭も見なかったよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「皇室の牧場の馬草にするために野原の薄を刈って束ねていると、
 きっと鹿は寝床が荒らされて浅くなったと思うことだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「焼畑に作った私の山家には隣家などないので、ひとり夜を
 明かすと鹿の鳴き声がたまらなく悲しい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「ただでさえもの悲しい思いにのみかられる秋であるのに、
 牡鹿の妻を求めて鳴く哀しげな声を耳にすると、なお一層涙の
 もよおされることだよ。
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「鹿もわびしげに鳴き、空の気色も時雨模様で、悲しみなさい
 という情景となった秋だよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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06 人こばと思ひて雪をみる程にしか跡つくることもありけり
          (岩波文庫山家集101P冬歌・新潮533番)

07 糸すすきぬはれて鹿の伏す野べにほころびやすき藤袴かな
      (岩波文庫山家集60P秋歌・新潮266番・夫木抄)

08 をじか伏す萩咲く野邊の夕露をしばしもためぬ荻の上風
          (岩波文庫山家集57P秋歌・新潮287番)

09 晴れやらぬみ山の霧の絶え絶えにほのかに鹿の聲きこゆなり
          (岩波文庫山家集62P秋歌・新潮300番・
                西行上人集・山家心中集)

10 鹿の音をかき根にこめて聞くのみか月もすみけり秋の山里
          (岩波文庫山家集62P秋歌・新潮302番・
        西行上人集・山家心中集・玉葉集・夫木抄)

○糸すすき

 イネ科の多年草。ススキの変種の一つでススキよりも葉、茎、
 穂も細く小さい。観賞用、盆栽用に栽培されます。
             
○藤袴

 キク科の多年草。高さは一メートルほどにもなります。
 公園などにもよく見かけます。
 秋に淡黄色や白色の小型の花を茎の頂に付けます。
 秋の七草の一つです。

○萩(はぎ)

 多年草または落葉低木で、いくつかの種類があります。
 マメ科萩属の総称です。秋の七草の一つでもあり、秋に蝶々に
 似たピンク色や白色の小さな花をつけます。
 萩の西行歌は20首あります。

 多くは「露」や「鹿」の言葉と共に詠み込まれ、また萩の「上葉」
 「下葉」という形で詠まれた歌も多くあります。

○荻(おぎ)

 イネ科の大形多年草。湿地に群生。高さ約二メートル。ススキに
 似るが、より豪壮。葉は扁平な線形。秋に銀白色・穂状の花序を
 つける。」
                (日本語大辞典から抜粋)
 
 草の名もところによりてかはるなり難波の芦は伊勢の浜荻
                      (つくば集)

 オギとアシの区別は難しい。アシの茎は中空、葉は下からほぼ
 均等に開き、花時の穂は紫褐色をおびているのに対し、オギの
 茎は中空でなく、葉は下方寄りに出て、穂は真っ白であること。
 ススキの仲間だが、ススキは株立ちになるし、小穂から長い芒
 (のぎ)が出る。
          (朝日新聞社刊「草木花歳時記」を参考)

 薄に似た感じもするが、葉が大きく広く、下部はサヤとなって
 棹(かん)をつける。万葉集にもよまれているが、平安時代にも、
 その大きな葉に風を感じ、その葉ずれによって秋を知るという
 把握が多かった。
 いずれにせよ、荻は風に関連してよまれることが圧倒的に多い。
        (片桐洋一氏著「歌枕歌ことば辞典」を参考) 

(06番歌の解釈)

 「もしも今人が来たら、うれしいけれど、足跡が残って残念だ、
 と思いながら雪を見ていると、鹿がしっかりと足跡を付ける、
 なんてこともあったりして。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(07番歌の解釈)

 「糸薄がちょうど真盛りで、まるでその糸に縫われたかの
 ごとく、鹿が臥している野辺に、綻びやすい藤袴がこれまた
 時を得て美しく咲いているよ。」」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(08番歌の解釈)

 「牡鹿が臥している萩の花が咲く野辺。その萩に宿る夕露を
 荻の末葉を吹く風はあっという間に吹き飛ばしてしまう。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(09番歌の解釈)

 「すっかり晴れてしまうことのない山の霧の絶え間絶え間に、
 とぎれとぎれにかすかに鹿の鳴く声が聞えてくるようだ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(10番歌の解釈)

 「秋の山里では、わが庵の中に入って来た鹿の鳴く声を垣根の
 中に籠めて聞くだけでなく、月も訪れ宿って澄んだ光を
 投げかけているよ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

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11 しだり咲く萩のふる枝に風かけてすがひすがひにを鹿なくなり
          (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮429番)

12 萩が枝の露ためず吹く秋風にをじか鳴くなり宮城野の原
          (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮430番)

13 よもすがら妻こひかねて鳴く鹿の涙や野辺のつゆとなるらむ
          (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮431番)

14 山おろしに鹿の音たぐふ夕暮を物がなしとはいふにやあるらむ
          (岩波文庫山家集69P秋歌・新潮433番)

15 何となく住ままほしくぞおもほゆる鹿のね絶えぬ秋の山里
          (岩波文庫山家集69P秋歌・新潮435番・
                西行上人集・山家心中集)

○しだり咲く

 「しだり」は「垂り」と書き、垂れ下がることです。
 垂れ下がって咲いている状態をいいます。

○ふる枝

 古い枝のこと。

○すがひすがひ

 次々に間をおかずに行われること。後から後から続いて現れること。

○宮城野の原

 宮城野は仙台平野を指しています。この平野はとても広いもので
 あり、一度、旅の途中に立ち寄って見ただけですが、京都の
 平野部よりは広いと感じました。
 「名取を越せば宮城野よ」という言葉もあったらしくて、その通り
 だと思いました。

 みちのくを代表する歌枕として、平安時代の歌人達には、あこ
 がれめいた思いが強くあったでしょう。京都からは余りにも遠い
 場所ですが、「みやぎの」と口ずさむだけで、何かしらの憧憬が
 あったものだろうと想像します。白河の関でも都からは遠いのに
 宮城野はそれよりもかなりの奥になります。

 詳しくは仙台市宮城野区の榴ヶ岡という丘陵部から見ての東部の
 平野部を指しています。榴ヶ岡は古来は躑躅の名所でしたが昨今は
 桜で有名とのことです。ここは源頼朝との奥州合戦の時に藤原
 泰衡が陣地を築いた場所でした。

 宮城野と呼ばれる平野部に群生していた小萩は本荒「もとあら」の
 小萩と言われていて、たくさんの歌に詠まれています。この本荒の
 小萩が「宮城野萩」です。宮城野の原が宅地化されてしまった現在
 では宮城野萩も自生種は殆ど姿を消したとの事です。

 都名所絵図では「高台寺萩の花」として以下の記述があります。

 「西行法師、宮城野の萩を慈鎮和尚に奉りし、その萩いまに残り
 侍りしを、草庵にうつし侍りし。花の頃、その国の人きたり侍り
 しに、

 露けさややどもみやぎ野萩の花(宗祇)
 小萩ちれますほの小貝こさかづき(はせを)

 この萩が青蓮院に残っていて、花の季節には咲いているそうですが、
 西行が持ち帰った萩であるとは、にわかには信じられません。

○たぐふ

 「類ふ・比ふ」と表記し、並ぶ、一緒になる、共に行動する、
 という意味合いを持つ言葉です。

○住ままほしく

 「住む」の活用形に「まほし」という希求の助動詞が接続した
 言葉で、「住みたい」という意味です。

(11番歌の解釈)

 「古くなって枝が垂れて咲いている萩の枝に風が吹きかかり、
 ゆれるにつけ、牡鹿が牝鹿を恋い慕って次々と鳴くことだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(12番歌の解釈)

 「宮城野の原では、萩の枝に露がたまる間もないほど
 絶えず秋風が吹いているが、その風に乗って牡鹿の鳴き
 声が聞えてくる。
               (和歌文学大系21から抜粋)

(13番歌の解釈)

 「夜通し妻を恋慕う心にたえかねて、鳴く鹿の涙が、
 暁の野辺の露となることだろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(14番歌の解釈)

 「山おろしの風に伴って鹿の哀音の聞えて来る夕暮にこそ、
 他はものの数でなく、もの悲しいとはいうのであろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(15番歌の解釈)

 「なんだか無性に住み続けたくなってくる。私の山家も秋に
 なって鹿が悲しげに鳴き続けていると。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

16 をじか鳴く小倉の山の裾ちかみただひとりすむ我が心かな
          (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮436番)

17 夜を残す寢ざめに聞くぞあはれなる夢野の鹿もかくや鳴きけむ
          (岩波文庫山家集67P秋歌・新潮437番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)

18 篠原や霧にまがひて鳴く鹿の聲かすかなる秋の夕ぐれ
          (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮438番・
                西行上人集・山家心中集)

19 小山田の庵近く鳴く鹿の音におどろかされておどろかすかな
    (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮440番・西行上人集・
       山家心中集・新古今集・御裳濯集・西行物語)

20 鹿の音を聞くにつけても住む人の心しらるる小野の山里
          (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮441番・
                   新後撰集・夫木抄)

○夢野

 摂津の国武庫郡にある地名。現在の神戸市兵庫区に夢野町が
 あります。
 「摂津風土記」に夢野の鹿の伝説があるとのことです。
 
○篠原

 固有名詞としての地名であるなら滋賀県野洲市の篠原だと解釈
 できますが、地名ではなくて普通名詞でしょう。
 篠竹の生えている原のことです。

○霧にまがひて

 (まがひて)は鹿にかかり、鹿と霧は、混ざって見分けが付かない
 ことを表しています。霧の中で鹿がどこにいるのか、わからないと
 いうことです。

○小山田

 (小)は接頭語で、山田のこと。
 山を切り開いて作られた田のこと。

○小野の山里

 山科区の随心院あたり。
 左京区の三宅八幡あたりから大原にかけて。
 右京区の周山街道沿い。京都には著名な「小野」の地名は以上の
 3カ所あります。
 西行の(小野歌)の殆どは左京区の大原近辺を詠んだ歌と見ていい
 でしょう。

(16番歌の解釈)

 「たった一人で住んでいる私の山家は、牡鹿が鳴く小倉山の
 山麓が近いので、私の心もただひとり澄み透っていくようだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(17番歌の解釈)

 「まだ夜明けにほど遠いのに眼が覚め、鹿のものがなしい声を
 聞くのはあわれの勝ることである。あの夢野の鹿もこのように
 夜通し鳴いたのであろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(18番歌の解釈)

 「篠原では夕霧に姿が紛れて鳴く鹿の声がかすかに
 聞えてくる秋の夕暮であるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(19番歌の解釈)

 「山田の番小屋を私の山家としていると、鹿が近くまで来て
 鳴くのでつい眠りから覚めてしまう。私も鹿をびっくりさせて
 追い払ったりする。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(20番歌の解釈)

 「鹿の鳴き声を聞くにつけても、小野の山里に住む人の心が
 どんなに澄み切ったものであるかがしのばれる。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

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21 たぐひなき心地こそすれ秋の夜の月すむ嶺のさを鹿の聲
          (岩波文庫山家集74P秋歌・新潮397番)

22 つま恋ひて人目つつまぬ鹿の音をうらやむ袖のみさをなるかな
          (岩波文庫山家集147P恋歌・新潮602番)

23 鹿の立つ野辺の錦のきりはしは残り多かる心地こそすれ
         (岩波文庫山家集61P秋歌・新潮1160番・
            西行上人集・続詞花集・西行物語)

24 秋の夜の月の光のかげふけてすそ野の原にをじか鳴くなり
   (岩波文庫山家集238P聞書集89番・御裳濯集・夫木抄)

25 山ざとはあはれなりやと人とはば鹿の鳴くねを聞けとこたへむ
            (岩波文庫山家集238P聞書集94番・
            西行上人集・宮河歌合・御裳濯集)

○人目つつまぬ

 他人の眼を自分の都合の良いようにくるんでしまおうとして、
 あえて無視するということではなくて、人に見られておろうが
 一切気にしないということ。
 「人目つつむ・つつまぬ」歌は下の5首と1詞書があります。

01 わりなしや我も人目をつつむまにしいてもいはぬ心つくしは
         (岩波文庫山家集156P恋歌・新潮1244番・
                   西行上人集340番)

02 涙川ふかく流るるみをならばあさき人目につつまざらまし
          (岩波文庫山家集151P恋歌・新潮661番)

03 はるかなる岩のはさまにひとりゐて人目つつまて物思はばや
          (岩波文庫山家集156P恋歌・新潮欠番・
       西行上人集648番・新古今集1099番・西行物語)

04 しはしこそ人目つつみにせかれけるさては涙やなる瀧の川
          (岩波文庫山家集151P恋歌・新潮662番・
         西行上人集722番・西行上人集追而加書)

05 今さらに何と人目をつつむらむしほらは袖のかはくへきかは
  (岩波文庫山家集155P恋歌・新潮欠番・西行上人集358番)

06  人目をつつむ恋

  芦の家のひまもる月のかげまてばあやなく袖に時雨もりけり
            (岩波文庫山家集264P残集・02番)

○みさをなるかな

 貞操のこと。変わらずに二心のない気持のこと。
 (操=みさお)のこと。志操という言葉が思われますが、
 (みさお)には、いつもと変わらない不変の気持や態度のことを
 も指す意味もあります。

○錦のきりはし
 
 秋の野辺の草々を「錦」と表現しています。忍西入道の詞書と
 歌にある「色々の花」「みな見する」を受けてのフレーズです。
 「きりはし」ということばで、断片しか見られないという不満を
 込めていますが、もちろん親愛の情の中での軽やかな不満です。

(21番歌の解釈)

 「秋の夜の月の澄みわたる峯に鳴く小牡鹿の声は、何とも
 いえずあわれな心地がするよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(22番歌の解釈)

 「牝鹿を恋い人目もはばからず鳴く鹿の声を聞くにつけ、
 羨しく思う自分の袖はいつもと同じでおられようか、とても
 無理で涙に濡れることである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(23番歌の解釈)

 「鹿の声が送られて来ず、秋の野辺の景色を織った錦の、
 ちょうど鹿が立っている部分だけを裁ち切ったような、秋草
 のみの錦は、まことに心残りなことですよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 この歌は、忍西入道の34番歌に対しての返歌です。
                
(24番歌の解釈)

 「秋の夜の月の光の、光が深まって、山の裾野の原に
 牡鹿が鳴いているよ。」

(25番歌の解釈)

 「山里はあわれなものですかと人がたずねたならば、鹿の鳴く
 音をお聞きなさいと答えよう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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26 ここも又都のたつみしかぞすむ山こそかはれ名は宇治の里
    (岩波文庫山家集125P羇旅歌・新潮欠番・神祇百首)

27 われ鳴きてしか秋なりと思ひけり春をもさてやうぐひすの聲
         (岩波文庫山家集271P補遺・西行上人集)

28 三笠山月さしのぼるかげさえて鹿なきそむる春日野のはら
         (岩波文庫山家集275P補遺・西行上人集)

29 かねてより心ぞいとどすみのぼる月待つ峯のさを鹿のこゑ
         (岩波文庫山家集276P補遺・西行上人集・
             山家心中集・新拾遺集・雲葉集)

30 をぐら山ふもとをこむる秋霧にたちもらさるるさを鹿の聲
              (岩波文庫山家集276P補遺・
           西行上人集・宮河歌合・新勅撰集)

○しかぞすむ

 原意は副詞の(然ぞ)です。(このように住む・・・)の意味。
 動物の(鹿)を掛けているという説もあります。

○宇治の里

 「宇治」は伊勢神宮内宮の門前町です。内宮の神域に向かう参道
 の五十鈴川(御裳濯川)に架けられた橋を宇治橋といいます。

 26番歌は百人一首第8番、古今集983番の喜撰法師の下の歌を本歌
 としています。

 「わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」

 しかし西行の「ここもまた・・・」歌は、渡会元長(1392〜1483)
 の神祇百首引歌を底本としていて、この底本は西行没後200年以上
 を隔たった後世に記述されたものです。
 歌は蓮胤(鴨長明の法名)詠とも言われ、果たして西行の歌で 
 あるのかはっきりしないということが実情です。

 鴨長明の歌は

 「是も又都のたつみうぢの山やまこそかはれしかは住けり」

 というものであり、歌意は26番歌と同じようなものです。

○三笠山

 大和国の歌枕。奈良市東方にある山です。

○春日野の原

 大和国の歌枕。
 奈良市市街地の東方の春日山及びその麓一帯の呼称です。
 春日山の北前方に「若草山」があります。若草山はかつては
 「三笠山」と呼ばれていました。春日山も「御蓋山=みかさやま」
 という別称がありますから、混乱します。
 阿倍仲麻呂の古今集406番歌(百人一首第七番歌)

「あまの原ふりさけみれば 春日なるみかさの山にいでし月かも」

 の「みかさの山」は、春日山のことです。
 西行歌の「三笠山」も春日山のことと解釈できます。
 なお、有名な春日大社は春日野にあり、藤原氏の氏社です。

○すみのぼる

 澄んだ月が昇るのを待つことによって澄み行く心境と、澄んだ月
 そのものとの同調を表現しています。
 
(26番歌の解釈)

 「ここもまた昔喜撰法師が歌によんだように都のたつみ(東南)
 で何とか暮らしている。山こそかわっているが同じ名の宇治の
 里。そこに私は住んでいる。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(27番歌の解釈)

 「私は鹿鳴に誘われて泣いて、そうだ秋だと思ったのだった。
 それでは春の訪れも鴬が知って、私はその声で知るのだろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(28番歌の解釈)

 「三笠山にさし昇る月の光が冴えて、鹿が鳴き始めた
 春日野の原よ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(29番歌の解釈)

 「月の出る前から心はいよいよ空に向かって高く澄んでくるよ。
 月の出を待つ山の峰で雄鹿の声を聞くと。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(30番歌の解釈)

 「小倉山の麓に立ち籠めている秋霧から漏れて
 聞こえて来る雄鹿の声。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(喜撰法師について)

 喜撰法師の生没年、経歴などは不詳です。
 喜撰法師は現在の京都府宇治市の東方にある宇治山(喜撰山とも)
 の中腹に庵を結んで住んでいたようです。
 喜撰山の標高は400メートル少しですが、自給自足の生活は不可能
 だと思われますので、何年、何十年という長い隠遁生活では
 無かったのではないかと思います。
 歌は他に伝わっていず、この一首のみしか知られていません。

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31 山ふかみなるるかせぎのけぢかきに世に遠ざかる程ぞ知らる
         (岩波文庫山家集138P羇旅歌・新潮1207番・
           西行上人集追而加書・玉葉集・夫木抄)

32 あはれなりよりより知らぬ野の末にかせぎを友になるるすみかは
          (岩波文庫山家集197P雑歌・新潮1149番)

33 すがるふすこぐれが下の葛まきを吹きうらがへす秋の初風
      (岩波文庫山家集56P秋歌・新潮1013番・夫木抄)

34 鹿の音や心ならねばとまるらんさらでは野邊をみな見するかな
    (忍西入道歌)(岩波文庫山家集60P秋歌・新潮1159番・
            西行上人集・続詞華集・西行物語)

35 もろともに秋も山路も深ければしかぞかなしき大原の里
  (寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羇旅歌・新潮1217番)

36 えは惑ふ葛の繁みに妻籠めて砥上原に雄鹿鳴くなり
         (西行上人集追而加書・西行物語正保本)

○なるるかせぎ

 自然の生物である鹿が山深い庵に住んでいる作者に馴れるという
 ことと、作者が鹿に馴れるという事の両方の意味を込めていて、
 山深い庵での暮しぶりや、その覚悟ということを伝えてくる表現
 です。

○よりよりしらぬ

 「よりより」は「折々」ということ。
 「知らぬ」は一般の大多数の人々が知らないこと。知ろうとも
 思わない事象のこと。
 
○こぐれが下

 木の枝が張っていて、その下は陽も射しこみにくくて周り
 よりは薄暗いということ。

○葛まき

 葛の蔓がもつれ絡まりついた状態。
 葛の葉の葉先が巻いていて、玉のように見える状態ともいいます。

○えは惑ふ

 意味不明です。この初句は西行物語文明本では「えは惑う」では
 なくて、「しか松の」となっています。

 東海道名所図会によると、小田原と大磯の中間あたりの二宮という
 所に「鹿松」という松の木(?)があったそうです。
 「鹿松」が、地名として転化されているとしたら、かろうじて
 意味が通じるでしょう。
 しかし、どちらにしても西行詠の可能性はほぼ無いと思われる歌
 です。

○ 砥上原(とがみがはら)

 藤沢市の江ノ島に向かって流れる片瀬川(堺川)の西方の野原を
 指す地名です。藤沢市鵠沼(くげぬま)辺りの古い名称です。
 藤沢市の西の茅ヶ崎市あたりまで含めていたもののようです。
 36番歌の砥上原の歌碑が茅ヶ崎市に二ヶ所あるそうです。

(31番歌の解釈)

 「山が深いので、鹿が近く馴れ親しむにつけ、世間からどんなに
 遠ざかったかが知られることですよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(32番歌の解釈)

 「しみじみとあわれを思うことだよ。折々、人も知らぬ野末に
 あって、訪れる鹿を友として、馴れてゆく自分のすみかは。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(33番歌の解釈)

 「鹿の伏す木の下闇の葛巻の葉を、初秋の風が吹いて
 うらがえしているよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(34番歌の解釈)

 「美しい鹿の鳴き声だけは思いのままにならず野原に残して
 きました。もしできていたら野原にあるありったけの美しさを
 あなたにお見せできたのですが。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(35番歌の解釈)

 「大原の里に鳴く鹿の声はいかにも悲しい。秋が深まると、
 山路の深さも合わせて実感されるので。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

 西行と寂然の贈答歌の各10首の中の一首です。

(36番歌の解釈)

 「生い茂った葛の葉の茂みの中に妻の鹿を住まわせて、ここ
 砥上原では安らぎを得た雄鹿が鳴いているようだ。」
                  (西行物語から抜粋)

(忍西入道について)

 誰のことなのか一切不詳です。

 立ち帰り君やとひくと待つほどにまだ消えやらず野辺のあわ雪
    (静忍法師歌)(岩波文庫山家集16P春歌・新潮1067番)

 16ページに上の贈答歌のある静忍法師も不詳ですが、おそらくは
 忍西入道と同一人物なのでしょう。贈答の歌があるほどですから、
 そして歌の内容からみても西行とは親しい関係であったものと
 推察されます。
 
【しがふとて】 (山、52)→「しか・鹿」参照

【しかまの市】 (山、156)

(しかま)は飾磨のこと。旧国名では播磨国にあり、現在の兵庫県
姫路市飾磨区あたりを指します。
そこに「市」が立っていたということがわかります。
飾磨地方の特産品は「藍染め」の衣料で、市にはそれが販売
されていたそうです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 なき名こそしかまの市に立ちにけれまだあひ初めぬ恋するものを
          (岩波文庫山家集156P恋歌・新潮1242番)
      
○なき名

名前が無いこと。事実ではないこと。まったく身に覚えが無い
のに噂だけが立っているということ。

○あひ初めぬ

「逢い初めぬ」ということと、市で売買される「藍染」の掛詞。
まだ一度も逢っていないという意味ですが、それでは「恋する」
とは説得力がありません。ですから見初めてはいるけれども、
きちんと逢って話したことがないという意味でしょう。

(歌の解釈)

「無実の噂が藍染を扱う飾磨の市の立つごとくに立ってしまった
ことだ。まだ逢い初めたこともない恋をしているのに。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【しがらき】

近江国の地名。歌枕。滋賀県甲賀郡信楽町のこと。
タヌキの焼き物の町として有名です。
聖武天皇の「紫香楽の宮」がありました。
春の訪れが遅い、冬は厳しく寂しいというイメージで歌に詠まれて
います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
01 しがらきの杣のおほぢはとどめてよ初雪降りぬむこの山人
          (岩波文庫山家集100P冬歌・新潮1483番)
       
02 春あさみ篠(すず)のまがきに風さえてまだ雪消えぬしがらきの里
          (岩波文庫山家集15P春歌・新潮967番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)

○杣のおほぢ

杣(そま)は樵などの山で生活する人たちの事。杣道などと用います。
「おほぢ」は老翁として、年を重ねている山人のことです。

○とどめてよ

留めること。留めおくこと。引き止めること。

○むこの山人

和歌文学大系21、新潮版山家集ともに「婿の山人」としています。
しかし、なんだか釈然としない意訳だと感じます。
この歌は言葉の流れが不自然で、誤植が多いのではないかと思います。

○篠のまがき

篠竹を用いて作られた垣のこと。

(01番歌の解釈)

「信楽の樵の婿よ。老人が山へ行くのを止めなさい。
初雪が降ったことだ。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「(都はもうすっかり春なのに)ここ信楽の里は春の気配がまだ
浅いので、庵を囲う篠竹の籬に冷たい風が吹き付け、雪もまだ
消えない。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【詞花和歌集】

第6番目の勅撰集で撰者は藤原顕輔。1144年、崇徳院の下命により、
第一次本が1151年に完成しました。同年に第二次本(精選本)が完成
したものとみられています。
精選本の歌数は409首。入集歌人は曽爾好忠17首、和泉式部16首、
大江匡房14首、源俊頼11首などです。
一人の歌人から多くの歌を採らないという編纂意図がみられ、122人
もの人が一首のみの歌人です。

この勅撰集には西行も「よみ人しらず」として一首撰入しています。
それゆえに西行にとっては記念碑的な勅撰集です。

 世をすつる人はまことにすつるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
          (岩波文庫山家集196P雑歌・新潮欠番・
           西行上人集・詞花集368番・西行物語)

このうち「世を」が詞花集では「身を」となっています。

(歌の解釈)

「この世を捨てる人は本当にその身を捨てたことにはならない。
この世を捨てない人こそはその身を捨てることになるのだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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