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項目
釈迦・世尊・大師の御師・寂照(三河入道)・寂然=じゃくぜん・じゃくねん
【釈迦・世尊・大師の御師】
すべて仏教の創始者である「釈迦」を指す固有名詞です。
他にも仏陀・釈尊・釈迦牟尼などとも呼ばれます。
釈迦は現インドのヒマラヤ南麓にあったカビラ城の城主の子として
生まれ、(シッタルタ)と呼ばれていたようです。
29歳で城を出て35歳で仏道の悟りを得て、80歳で入寂するまで布教
活動をしたということです。
誕生日は4月8日で当日は「花祭り」「灌仏会」「仏生会」などとも
呼ばれています。
死亡は2月15日。涅槃会が行われます。
なお、257ページにある仏舎利とは普通は釈迦の遺骨のことです。
五重塔は内部に仏舎利を安置することを目的として造られました。
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01 転法輪のたけと申す所にて、釈迦の説法の座の石と
申す所ををがみて
此処こそは法とかれたる所よと聞くさとりをも得つる今日かな
(岩波文庫山家集124P羈旅歌・新潮1119番)
02 やがてそれが上は、大師の御師にあひまゐらせさせおはし
ましたる嶺なり。わかはいしさと、その山をば申すなり。
その辺の人はわかいしとぞ申しならひたる。山もじをば
すてて申さず。また筆の山ともなづけたり。遠くて見れば
筆に似て、まろまろと山の嶺のさきのとがりたるやうなる
を申しならはしたるなめり。行道所より、かまへてかき
つき登りて、嶺にまゐりたれば、師に遇はせおはしまし
たる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の
石ずゑ、はかりなく大きなり。高野の大塔ばかりなりける
塔の跡と見ゆ。苔は深くうづみたれども、石おほきにして
あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて
筆の山にかきのぼりても見つるかな苔の下なる岩のけしきを
善通寺の大師の御影には、そばにさしあげて、大師の
御師かき具せられたりき。大師の御手などもおはしましき。
四の門の額少々われて、大方はたがはずして侍りき。
すゑにこそ、いかがなりけんずらんと、おぼつかなく
おぼえ侍りしか
(岩波文庫山家集114P羈旅歌・新潮1371番)
03 方便品 諸佛世尊 唯以一大事 因縁故出現於世
あまのはら雲ふきはらふ風なくば出でてややまむ山のはの月
(岩波文庫山家集226P聞書集02番・夫木抄)
04 提婆品 我献宝珠 世尊納受
いまぞ知るたぶさの珠を得しことは心をみがくたとへなりけり
(岩波文庫山家集228P聞書集13番・夫木抄)
○転法輪のたけ
奈良県吉野郡下北山村と十津川村の境にある「転法輪岳」のこと
だと言われます。大峰南奥駆道にあり、標高は1281メートル。
標高1800メートルの釈迦ケ岳の少し熊野側にあります。
「転法輪岳」の山頂には、01番歌にある説法石があるそうです。
これとは別に、新潮版では「釈迦が岳」の別称としています。
現在の大峰奥駆道は釈迦ケ岳から前鬼方面に降りていて、転法輪岳
の方向には行かないようです。
しかし平安時代は転法輪岳の方に向かっていたということですから、
転法輪岳で良いのではないかと思います。
もう今となっては「転法輪のたけ」が転法輪岳か釈迦ケ岳である
かは検証の方法がないでしよう。
仏教用語としての「転法輪」は、仏が説法をすることを言います。
仏教が衆生の一切の煩悩を打ち砕き、衆生を助けて正しい道に導く
ことだと言われます。
仏が法の輪を世界に転じて、人々の迷いを取り去り、悟りの世界に
導くことだそうです。
○法とかれたる所
仏教の教えを説いた場所という意味ですが、もちろん実際には釈迦が
大峰の転法輪岳で説法したなどということはありえないことです。
あるいは、インドから雲に乗って来たなどという伝説があるのかも
しれません。
○大師
弘法大師空海のこと。真言宗の開祖。
774年讃岐国多度郡弘田郷「現、善通寺市」にて出生。父は佐伯氏、
母は阿刀氏。高野山奥の院にて835年入滅。
天台宗の伝教大師最澄とともに我が国の仏教界の礎となった人物です。
○御師にあひまゐらせさせ
我拝師山の出釈迦寺では空海が釈迦に逢うために断崖から飛び降り
たという伝説があります。飛び降りて地中に激突する前に釈迦に
救われたとする伝説です。
空海を聖性化する過程で作られて、西行の時代には広く知られて
いたものでしよう。
○わかはいしさ
香川県善通寺市吉原町にある我拝師山のこと。五岳山の最高峰で、
標高は481メートル。麓に四国88か所霊場第73番札所の「出釈迦寺」
があり、その奥の院を「禅定寺」と言います。
山名を声にして言う時「わがはいしさ」と、最後に「ん」を付けずに
呼ぶこともあったようです。
○筆の山ともなづけ
香川県善通寺市には「五岳山」と言われている山があります。
我拝師山(481M)、中山(440M)、火上山(409M)、筆山(296M)、香色山
(153M)の五山を指します。
現在では我拝師山と筆山は別の山としてありますが、西行時代は
筆山は我拝師山や中山と一続きの山として見られていたものでしよう。
○なめり
断定の助動詞「なり」の連体形「なる」に、推量の助動詞「めり」が
接合したことば。「なるめり」の凝縮化されたもの。
「…のようだ」「…だろう」という意味です。
○行道所
「行道」とは読経しながら仏像や仏殿の回りを巡り歩くことです。
場所は我拝師山の出釈迦寺の奥の院の禅定寺だと思われます。
○塔の石ずゑ
(石ずゑ)は(礎=いしずえ)のことです。石を据えることが原意
であり、建物の基礎となる柱の下の土台の石のことをいいます。
転じて、物事の基礎となること、または、それ相当の人を指します。
西行歌にある(石ずゑ)は、建物にかかる基礎としての意味である
ことは確実です。
○かきつき登り
「掻き付き登り」。しがみつくように、よろぼうように登ると
いう様を言います。筆の山の(筆)と(かき)は縁語です。
○高野の大塔
高野山金剛峰寺の中央にある宝塔のこと。
平安時代でも高さ48.5メートル、本壇回り102.4メートルという
巨大な規模の建物でした。現在の大塔は昭和12年の建築といわれます。
○善通寺
香川県善通寺市にある善通寺のことです。弘法大師空海は
善通寺市の出生です。
善通寺は空海が出生地に建立したお寺で、父親の法名をつけて
「善通寺」としたものです。
高野山、京都の東寺と並んで真言宗の三大聖地です。
○あまのはら
天上界のこと。天空のこと。広い大空を指します。
○雲ふきはらふ風
「雲」は人々に宿る迷いや悩み、愁いのこと。
「ふきはらう風」は仏道の教えの比喩です。
○たぶさの珠
髪の毛を頭頂部に集めて、まとめて束ねた状態。その部分を
言います。(もとどり)のことです。
また「手房」と書き、手首や腕のことを指します。
この歌では珠を持っている手を意味します。
(01番歌の解釈)
「この場所こそが釈迦が説法された所と聞いて、見仏聞法の
悟りの境地を得た今日である。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「我拝師山に登る。筆の山というだけあって、かきつくように
して登ってみると、そこには大塔の礎石が苔の下に埋まっていた。
その大きさは大師の慈悲の大きさを語るようだった。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「天空に雲を吹き払う風がなかったならば、ついに出ないで
しまうだろうよ。山の端の月は。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(04番歌の解釈)
「今わかった。手の中に捧げ持つ珠を仏が受け取ったことは、
竜女が心を磨き成仏するたとえだったよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【寂照(三河入道)】
岩波文庫山家集に「寂照」という人物名はありません。
聞書集に「三河入道」として出てくる人物が「寂照」です。
寂照は俗名を大江定基と言います。三河の守として赴任していた
時に、出家したということが説話集の今昔物語19巻第二に書かれて
います。
出家後、「往生要集」を著した恵心僧都源信などに師事したそうです。
後に渡海して宋の国に入り、日本に帰ることなく1034年に70歳位で
没したといわれます。
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01 三河の入道、人すすむとてかかれたる所にたとひ心にい
らずともおして信じならふべし この道理を思ひいでて
知れよ心思はれねばとおもふべきことはことにてあるべきものを
(岩波文庫山家集252P聞書集215番)
○人すすむとてかかれたる
三河の入道が書いた書物ではなくて、仏道に入ることを勧めた
書物があったということでしよう。
○心にいらずとも
理解できなくても、得心できなくても、納得できなくても、という
意味です。
○おして信じ
無理にでも信じなさい、ということ。
○知れよ心
自分自身を納得させるためのフレーズのようにも思われます。
仏道に邁進するための確認でもあるのでしよう。
(01番歌の解釈)
「承知せよ心よ。信じられないから信じないとお前が思うに
違いない事は、道理ある事であるはずなのだから。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【寂然=じゃくぜん・じゃくねん】
俗名は「藤原頼業」。藤原為忠の子です。生没年は未詳。
左近将監、壱岐の守などを経て1155年頃までには出家。
西行とほぼ同年代だと思われます。1182年頃に没したとみられます。
1172年「広田社歌合」、1175年「右大臣家(兼実)歌合」、1178年
「別雷社歌合」に出席していますので、歌人としての活動は終生
続けていたのかもしれません。
西行とは最も親しい歌人と言えます。贈答の歌がたくさんあります。
兄の寂念(為業)・寂超(為経)とともに「大原三寂」や「常盤三寂」
と呼ばれます。出家順は寂超、寂然、寂念の順です。
1156年7月、保元の乱が起こり崇徳院は讃岐に配流になりました。
讃岐の崇徳院は1164年8月崩御。崇徳院がまだ在世中に寂然は讃岐の
崇徳院を訪れています。
家集に「寂然法師集」「唯心房集」「法文百首」があります。
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寂然紅葉のさかりに高野にまうでて、出でにける
又の年の花の折に、申し遣しける
01 紅葉みし高野の峯の花ざかりたのめし人の待たるるやなぞ
(西行歌)(岩波文庫山家集29P春歌・新潮1074番・夫木抄)
02 ともに見し嶺の紅葉のかひなれや花の折にもおもひ出ける
(寂然法師歌) (岩波文庫山家集29P春歌・新潮1075番)
寂然高野にまうでて、立ち帰りて大原より遣しける
03 へだて来しその年月もあるものを名残多かる嶺の朝霧
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集70P秋歌・新潮1055番)
04 したはれし名残をこそはながめつれ立ち帰りにし嶺の朝ぎり
(西行歌)(岩波文庫山家集70P秋歌・新潮1056番)
寂然入道大原に住みけるに遣しける
05 大原は比良の高嶺の近ければ雪ふるほどを思ひこそやれ
(西行歌)(岩波文庫山家集101P冬歌・新潮1155番・西行上人集追而加書・
御裳濯河歌合・新勅撰集・玄玉集・唯心房集・西行物語)
06 思へただ都にてだに袖さえしひらの高嶺の雪のけしきは
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集101P冬歌・新潮1156番・唯心房集)
○たのめし人
明白に約束をかわしてはいない人のこと。
「たのめし」ではなくて「たのめぬ」が正しいと思います。
新潮版は「たのめぬ」となっています。
○待たるるやなぞ
どうして待つ気持ちになってしまうのだろう……と自分でも疑問に
思う言葉です。
○かひなれや
和歌文学大系21では(かひ)は(効)という字を当てています。
一度一緒に紅葉を見たことを思い出しての、その余情効果のことを
指しています。忘れられない思い出が、また今年の花見をも期待
したくなるということです。
○比良
滋賀県滋賀郡にある地名。近江の国の歌枕。JR湖西線に比良駅が
あります。
駅は比叡山の北東の湖岸に位置し、比良の山は比叡山の北側に連なる
連山を指します。比良山という独立峰はありません。
この山に吹く風の激しさは有名で、ことに春先の比良おろしの風は
「比良の八講荒れ」と呼ばれています。
ただし「八講」の本意は、四方八方の遠い地や国の隅々をいう言葉
であって、決して大荒れの意味ではありません。
○袖さえし
墨染めの衣の袖さえも凍りつく寒さのこと。
(01番歌の解釈)
「あなたが美しい紅葉を見た高野山の峯は今は桜の花盛りである。
その花を見ていると別に来るという約束はしていない人(寂然)が
来そうに思われて、自然と待たれるのは何としたことか。」
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
(02番歌の解釈)
「もみじの折でなく、花の折にも、あなたのことを思い出したのは、
共に高野山の美しい紅葉を見たかいがあったためであろうか。」
(かいに峡をかけている。峡は紅葉の美しいところ、また西行の
住みし所か)
(渡部保氏著「西行山家集全注解」より抜粋)
寂然が前年の秋に高野山に登って西行に逢い、その次の年の桜の季節に
西行が寂然に歌を贈りました。寂然の歌はその返歌としてのものです。
(03番歌の解釈)
「遠く隔たり長く逢わないで過ごして来たのに、ゆっくり語らう
こともできずすぐ帰り、その上別れては高野の峯の秋霧に隔てられ
てしまい、まことに名残多く心の晴れやらぬことでした。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(04番歌の解釈)
「下の方は晴れていた霧の中でお別れしたあなたを慕う気持の名残り
がいつまでも続き、もの思いに沈んだことでした。あなたが帰られ
ると同時に、高野にも秋霧がたちこめて、またあなたとの間を隔て
てしまったことです。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(05番歌の解釈)
「あなたの住む大原は、比良の高嶺が近いのですから、雪の降る
頃はどんなに大変かお察しいたします。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06番歌の解釈)
「想像してみて下さい。都にいてさえ袖が凍ったのですよ。
比良の高嶺の雪がどんなに厳しい寒さなのか、大原の冬は
本当につらいです。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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讃岐へおはしまして後、歌といふことの世にいときこえ
ざりければ、寂然がもとへいひ遣しける
07 ことの葉のなさけ絶えにし折ふしにありあふ身こそかなしかりけれ
(西行歌)(岩波文庫山家集183P雑歌・新潮1228番・西行物語)
08 しきしまや絶えぬる道になくなくも君とのみこそあとを忍ばめ
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集183P雑歌・新潮1229番・西行物語)
同行に侍りける上人、をはりよく思ふさまなりと
聞きて申し送ける
09 乱れずと終り聞くこそ嬉しけれさても別はなぐさまねども
(寂然法師歌) (岩波文庫山家集206P哀傷歌・新潮805番・
西行上人集・山家心中集・千載集・月詣集・寂然集)
10 此世にて又あふまじき悲しさにすすめし人ぞ心みだれし
(西行歌)(岩波文庫山家集206P哀傷・新潮806番・
西行上人集・山家心中集・千載集・月詣集)
とかくのわざ果てて、跡のことどもひろひて、
高野へ参りて帰りたりけるに
11 いるさにはひろふかたみも残りけり帰る山路の友は涙か
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集206P哀傷歌・新潮807番・
西行上人集・山家心中集・寂然集)
12 いかでとも思ひわかでぞ過ぎにける夢に山路を行く心地して
(西行歌)(岩波文庫山家集206P哀傷歌・新潮808番・
西行上人集・山家心中集)
○讃岐へおはしまして後
主語は崇徳院であり、崇徳院が讃岐に配流された後、ということ。
ちなみに崇徳院という院号は崩御後の1177年に諡号されたもので
あり、それまでは讃岐の院でした。
○歌といふことの世に
崇徳院を中心とした歌界の衰微を言います。事実として断絶した
ものでしよう。当時、詞花和歌集の改撰作業をしていたそうです。
○しきしま
日本の国のこと。大和の国のこと。
「敷島の道」では日本の和歌の伝統を指します。
○絶えぬる道
和歌の伝統が崇徳院の讃岐配流によって絶えようとしていること。
このことが詞花集改撰作業の挫折を意味しているならば、常盤三寂
にとって大変にショックな事だったと言えます。
○なくなくも
悲嘆にくれながらも・・・。
○同行に侍りける上人
西行とたびたびあちこちに行っていた西住上人のこと。
俗名は源季政。生没年未詳です。醍醐寺理性院に属していた僧です。
西行とは出家前から親しい交流があり、出家してからもしばしば
一緒に各地に赴いています。西行よりは少し年上のようですが、
何歳年上なのかはわかりません。
没年は1172年とみられています。
千載集歌人で4首が撰入しています。
同行に侍りける上人とは、すべて西住上人を指しています。
没後、西住法師は伝説化されて晩年に石川県山中温泉に住んだとも
言われています。現在、加賀市山中温泉西住町があります。
○をはりよく
冷静なままに念仏を唱えながら死に望むということ。
乱れずに・・・ということは理解できそうですが、果たして念仏を
唱えながら臨終を迎えることなどは体力的にも心理的にも可能
なのかどうか、という疑問も持ちます。
でも、こだわることでもなくて安らかな最期だったという解釈
だけで良いでしょう。
○すすめし人ぞ
西行自身のこと。西行が付きっきりでいて、葬儀も主催した
ものでしょう。
○とかくのわざ
葬儀のこと。死亡後にするべきこと。
○跡のことどもひろひて
火葬後の遺骨を拾うということ。
○いるさには
高野山に向かって出発することをいいます。
「帰さ」の対語です。
○いかでとも
どうにも……。どのようにも……。
自分がしっかりしようと思っても、どうにも思いが乱れて、
分からないという状態を導き出すための言葉です。
○思ひわかでぞ
悲しいままに思いが乱れて、確たる心理状態にないということ。
(07番歌の解釈)
「新院が讃岐におうつりになり、和歌の道がすっかり衰えてしまった
時節に生きてめぐり逢うわが身こそ悲しいことです。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(08番歌の解釈)
「新院の遷御によって絶えてしまった和歌の道に、涙ながらもあなたと
だけ新院の御跡……在りし日の和歌が盛んであった折を偲びましよう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(09番歌の解釈)
「心乱れず安らかだったと臨終の様子を聞くと、私もうれしく
なります。だからといって、永遠の別れの悲しみを慰める
ことはできませんが。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(10番歌の解釈)
「(来世はともかく)もうこの世では逢えないだろうと思うと悲しく
て、故人の臨終正念を導いた私の方が心が乱れてしまいました。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(11番歌の解釈)
「高野に入山された時には、拾った骨が友の形見に悲しいながらも
残っていましたが、納骨した帰りの山路には、もう友はいないと
いう悲しみの涙しかなかったのでしょうね。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(12番歌の解釈)
「何が何やらわけも分からない内に、時間だけが過ぎて
いったようです。帰路の悲しみを思いやって下さいましたが、
全ては夢の中のようでした。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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(大原三寂について)
藤原為忠の子供達で出家した(寂念=為業)・(寂超=為経・為隆)・
(寂然=頼業)の三人のことです。寂念は大原に住んだという確証は
ないようですから、大原三寂というよりは常盤三寂と呼ぶほうが正確
なのでしよう。
○(寂念=為業)は大原三寂の中で一番遅く出家。176Pに(為なり)
名での贈答歌があります。
○(寂超=為経・為隆) は西行より3年遅れて1143年の出家。
178Pと215Pに贈答歌があります。
○(寂然=頼業)は1155年頃の出家。西行ともっとも親しい歌人
だといえます。贈答歌については上記を参照願います。
為忠の子は、この三人以外に長男らしい為盛がいます。為盛につい
ては詳しく分からないままです。
179Pにある「兄に侍りける想空がもとより」とある想空という人物は、
為盛もしくは寂念の別号という説がありす。しかし大原に早くに隠棲
していたらしいので寂念ではなくて為盛の可能性が強いでしょう。
いずれにしても、西住や俊成なども交えて常盤の為忠邸でしばしば
歌会を催していたと解釈できますし、その作歌グループは西行に
とっても出家前から貴重なものであったことは確かでしよう。
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入道寂然大原に住み侍りけるに、高野より遣しける
13 山ふかみさこそあらめときこえつつ音あはれなる谷川の水
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1198番・玄玉集)
14 山ふかみまきの葉わくる月影ははげしきもののすごきなりけり
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1199番・玄玉集)
15 山ふかみ窓のつれづれとふものは色づきそむるはじの立枝ぞ
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1200番・夫木抄)
16 山ふかみ苔の莚の上にゐてなに心なく啼くましらかな
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1201番)
17 山ふかみ岩にしたたる水とめむかつがつ落つるとちひろふ程
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1202番)
18 山ふかみけぢかき鳥のおとはせでもの恐しきふくろふの聲
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1203番・夫木抄)
19 山ふかみこぐらき嶺の梢よりものものしくも渡る嵐か
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1204番)
20 山ふかみほた切るなりときこえつつ所にぎはふ斧の音かな
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1205番)
21 山ふかみ入りて見と見るものは皆あはれ催すけしきなるかな
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1206番)
22 山ふかみなるるかせぎのけぢかきに世に遠ざかる程ぞ知らるる
(西行歌)(岩波文庫山家集138P羈旅歌・新潮1207番・
西行上人集追而加書・玉葉集・夫木抄)
23 あはれさはかうやと君も思ひ知れ秋暮れがたの大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1208番)
24 ひとりすむおぼろの清水友とては月をぞすます大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1209番・玉葉集)
25 炭がまのたなびくけぶりひとすぢに心ぼそきは大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1210番)
26 何となく露ぞこぼるる秋の田のひた引きならす大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1211番・夫木抄)
27 水の音は枕に落つるここちしてねざめがちなる大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1212番・
西行上人集追而加書・夫木抄)
28 あだにふく草のいほりのあはれより袖に露おく大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1213番・玄玉集)
29 山かぜに嶺のささぐりはらはらと庭に落ちしく大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1214番・
玄玉集・夫木抄)
30 ますらをが爪(つま)木に通草さしそへて暮るれば帰る大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1215番)
31 むぐらはふ門は木の葉に埋もれて人もさしこぬ大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1216番・
玄玉集・夫木抄)
32 もろともに秋も山路も深ければしかぞかなしき大原の里
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集139P羈旅歌・新潮1217番)
○大原
京都市左京区にある地名です。京都市の北東部に位置し、市街
地とは離れています。
「平安時代初期に慈覚大師円仁が天台声明の根本道場として、
魚山大原寺を開いて以来、比叡山を取り囲む天台仏教の中心地の
ひとつとなった。男女を問わずこの地に出家隠棲する人々は多く、
また比叡山の修行僧が遁世する地ともなった。」
(三千院発行「三千院の名宝」から抜粋)
寂光院、三千院、来迎院、勝林院などの古刹があります。
○高野
地名。和歌山県伊都郡にある高野山のこと。
単独峰ではなくて、標高1000メートル程度の山々の総称です。
平安時代初期に弘法大師空海が真言密教道場として開きました。
京都・滋賀府県境の比叡山と並ぶ日本仏教の聖地です。
真言宗の総本山として金剛峰寺があります。
金剛峰寺には西行の努力によって建立された蓮華乗院がありまし
たが、現在は「大会堂」となっています。
西行は1148年か1149年(西行31歳か32歳)に、高野山に生活の場を
移しました。1180年には高野山を出て伊勢に移住したと考えられ
ますので、高野山には30年ほどいたことになります。
この間、高野山に閉じこもっていたわけではなくて、京都には
たびたび戻り、さまざまな場所への旅もしていますし、吉野にも
庵を構えて住んでいたことにもなります。
○さこそあらめ
なるほど、そういうことなのだろう・・・という意味。
○はじの立枝
ハゼの木の高く伸びた枝のこと。漆と同じように、樹液に触ると
かぶれます。秋から冬にかけて、真っ赤に紅葉します。
実は和ローソクの原料となるため、江戸時代は植栽を督励されて
いました。
○苔の莚
苔が一面に生えている状態を敷物に見立てて言う言葉です。
「むしろ」はイグサや藁などを編んで作った敷物のこと。
「み芳野の青根が峰の苔むしろ誰か織りけむたてぬき無しに」
(万葉集巻七 1120番)
○ましら
猿の古語です。「まし」だけで猿を言いますが「ら」をつけて
接尾語としています。
○とちひろふ程
山深い庵で一人住むわけではなくて、他に僧侶がたくさんいる高野
山の僧房あるいは山内の自身の庵で起居していた頃の歌です。
自身で水を汲み貯め、食料となる栃の実を拾って貯蔵するものと
思います。
栃の実は渋くて、そのままでは食用にならないのですが、根気のいる
渋抜き加工などは自分でできたのだろうかと疑問に思います。灰汁
抜きのための道具も必要であり、はたしてその道具を手に入れて、
山中の粗末な庵にまで持ちこんでいたものでしようか?
○ほた切る
「ほた」は、調理に使う、かまどにくべるマキのことです。高野山の
僧房で使う薪の調達なのだろうと思います。
○なるるかせぎ
自然の生物である鹿が山深い庵に住んでいる作者に馴れるという
ことと、作者が鹿に馴れるという事の両方の意味を込めていて、
山深い庵での暮しぶりや、その覚悟ということを伝えてくる表現
です。
(かせぎ)は(すがる)と共に鹿の異名、古称です。
「かせぎ」は鹿の角が(かせ木)に似ている所から付けられた名称
です。(かせ「木偏に上と下。峠の文字の(山)の部分が(木)」)
(かせ木)は英字の(Y)の字のように枝を切って、竿などを高い位置
に押し上げる道具です。
別の意味では、紡いだ糸を巻き取るための木製の道具です。
家紋にも「かせ木紋」があります。
「朝ほらけ蔀をあくと見えつるは かせきの近く立てるなりけり」
(赤染衛門 赤染衛門集351番)
○かうやと
西行の生活の拠点であった「高野山」と「こうです」という意味の
掛け合わせです。高野山の西行を思って、こんな表現をしています。
○おぼろの清水
三千院から寂光院に向かう小道の傍らに「おぼろの清水」はあり
ます。歌枕として「八雲御抄」や「五代集歌枕」にもあげられ、
平安時代から多数の歌にも詠まれてきた有名な清水ですが、現在は
小さな水たまりという感じです。
建礼門院が朧月夜に自身の姿をこの清水に写したということが、
この清水の名の由来との説もあるそうですが、建礼門院よりも
百数十年ほど前の良暹法師や素意法師の歌にも「おぼろの清水」と
あります。
○水の音は枕に落つる
大原来迎院には僧房を含めると100ほどの堂宇があったとのこと
ですし、確証はありませんが寂然の僧房も来迎院に属していたもの
と考えられます。来迎院の呂川に近い僧房だったものでしよう。
○ひた
「ひた」とは「引板」と表記します。田んぼの稲が実った頃に、
稲を食いに来るスズメなどから稲を守るために作られた用具です。
縄を引っ張るとずっと付け渡している板が鳴って鳥を遠ざける
仕掛けのことです。
○ささぐり
シバグリのこと。栗の野生種で実は小さいけど味は良いといいます。
○爪木に通草
爪木(つまき)は薪用に折り取った枝のことです。通草の読みは
食用になる甘い果実の「あけび」のこと。薪用の細い枝にアケビを
刺して家路への道をたどったということです。
○しかぞかなしき
鹿の鳴く声が哀感に満ちていて悲しく聞こえてくるということ。
同時に晩秋の情趣が、うら悲しい気配に満ちていることを言います。
(13番歌の解釈)
京都の大原に住んでいた寂然に宛てた贈答歌10首のうちの一番
初めの歌です。初句は全て「山ふかみ」です。
「高野山は山が深いので、そういうこともあろうとは常々
聞いてはいたが、それにしても谷川の水の音を聞くと寂しくて
たまらなくなる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(14番歌の解釈)
「高野山は山が深いので、真木の葉を渡るように流れゆく
月光は、強烈な印象を受けるものであるが、ぞっとするほど
寂しくも感じられる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(15番歌の解釈)
「高野山は山が深いので、誰も訪ねてくる者はいない。目立って
紅葉し始めた櫨の枝だけが寂しい山家を慰めてくれるようだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(16番歌の解釈)
「山が深いので一面に敷きつめた苔の上に坐り、無心に猿が
啼くことでありますよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(17番歌の解釈)
「山が深いので、岩に滴り落ちる水を留めよう、ぽつりぽつりと
僅かに落ちる栃を拾う間に。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(18番歌の解釈)
「山が深いので、親しみのある鳥の声は少しも聞えず、もの
恐ろしい感じの梟の声のみがします。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(19番歌の解釈)
「山が深いので、木がうっそうと繁る暗い峯の梢から、ものもの
しい音を立てて吹きわたってゆく嵐であることです。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(20番歌の解釈)
「高野山は山が深いので、薪を切り出している音が続いているが、
斧の音は随分と賑やかである。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(21番歌の解釈)
「高野山は山が深いので、入山すると見るものすべて
感慨を催すものばかりである。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(22番歌の解釈)
「山が深いので、鹿が近く馴れ親しむにつけ、世間からどんなに
遠ざかったかが知られることですよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(23番歌の解釈)
「あわれさは高野と同じくこうもあろうかと推察してください。
晩秋の夕暮の大原の里を。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(24番歌の解釈)
「見る人とてなくただ一人澄んでいる朧の清水と同じく、自分も
大原の里に独り住み、友としては朧の清水が月かげを宿すと同様、
月光を庵の中にさしこませることです。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(25番歌の解釈)
「炭を焼く炭窯の煙が細く一筋になびき流れていますが、
そのようにひたすら心細いのは、大原の里であることです。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(26番歌の解釈)
「大原の里はわけもなく涙がこぼれます。秋の稲田に引板を引く
音が鳴り響くと、稲の露もこぼれ落ちる気がして。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(27番歌の解釈)
「大原の里はよく眠れないのです。旅寝同然の山家に暮らして
いるので、水の音がすぐ枕元に聞こえて夜何度も目が覚めます。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(28番歌の解釈)
「大原の里は泣いてしまいます。仮に草を葺いただけの山家が
あまりにもはかなげで、袖にも草の露が結ぶほどですから、
寂しくなってしまいます。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(29番歌の解釈)
「大原の里では山風が吹き下ろすと、尾根から笹栗がはらはらと
音を立てて庭いっぱいに落ち敷きます。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(30番歌の解釈)
「大原の里では日が暮れると、薪を切り出していた樵たちが枝に
串刺しにしたあけびを手土産に山から帰って行く。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(31番歌の解釈)
「葎が這いまつわり荒れ果てた門のあたりは、すっかり
木の葉に埋もれて、人もやってこない大原の里です。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(32番歌の解釈)
「秋も深まり、山路も深いので、聞えてくる鹿の声も
まことに悲しい大原の里であります。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
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(この贈答歌について)
「書信に代えた歌であるから、即興的で軽いところは、両者に共通
している。互いに住居の状況を報じようとするので、生活環境の
自然に取材しているが、それも写生するときのスケッチ程度という
ことができる。したがって作品として高度なものとはいえない。
また形式から注意されるのは、初句に「山深み」とおくために限定
が生じていること、また10首でまとめにしようという限定もかさ
なっていることである。当然の結果として、全体が説明的、叙述的に
なり、盛り上がるような点が弱く、平面的でもある。」
(窪田章一郎氏著「西行の研究」235ページから抜粋)
「両者が高野と大原の草庵から交わした10首ずつの贈答は、山里の
情趣を詠いあげた絶唱というべきであろう。」
(目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」148ページから抜粋)
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兄の入道想空はかなくなりけるを、とはざりければ
いひつかはしける
33 とへかしな別の袖に露しげき蓬がもとの心ぼそさを
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮833番・
西行上人集・山家心中集・続後撰集)
34 待ちわびぬおくれさきだつ哀をも君ならでさは誰かとふべき
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮834番)
35 別れにし人のふたたび跡をみば恨みやせましとはぬ心を
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮835番)
36 いかがせむ跡の哀はとはずとも別れし人の行方たづねよ
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮836番・風雅集)
37 中々にとはぬは深きかたもあらむ心浅くも恨みつるかな
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮837番)
38 分けいりて蓬が露をこぼさじと思ふも人をとふにあらずや
(西行歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮838番)
39 よそに思ふ別ならねば誰をかは身より外にはとふべかりける
(西行歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮839番・
西行上人集・山家心中集・続後撰集)
40 へだてなき法のことばにたよりえて蓮の露にあはれかくらむ
(西行歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮840番)
41 なき人を忍ぶ思ひのなぐさまば跡をも千たびとひこそはせめ
(西行歌)(岩波文庫山家集210P哀傷歌・新潮841番・風雅集)
42 御法をば言葉なけれど説くと聞けば深き哀はいはでこそ思へ
(西行歌)(岩波文庫山家集211P哀傷歌・新潮842番)
43 露深き野べになり行く古郷は思ひやるにも袖しをれけり
(西行歌)(岩波文庫山家集211P哀傷歌・新潮843番・西行上人集)
○想空
この人物については判然としません。藤原為盛説と藤原為業(寂念)
説があり、窪田章一郎氏は「西行の研究」298ページで「想空は寂念
とは別人であり、長兄の為盛ではないかと考えられる。」として
います。この卓見に私も賛同します。
西行上人集では「相空入道大原にてかくれ侍りたりし」と詞書が
あり、出家して大原に住んでいたことが分かります。
それならなぜ「尊卑分脈」にいう寂念を含めての大原三寂とした
のかという疑問も霧消しません。寂念も一時的には大原に住んだ
ことがあるのかもしれません。それでも想空をのけ者にしている
ような感じがして、釈然としないままです。
「想空」は他に179ページに西行との贈答歌があります。また残集
13番の「静空」も「想空」と同一人物ともみなされます。
○はかなくなり
死亡したということ。
○とへかしな
「とへ」は訪うことです。
「かし」は終助詞で、念を押して意味を強めます。
「な」も終助詞で強い願望を表します。
「とへかしな」で、ぜひ訪れて下さい、という意味になります。
○おくれさきだつ哀
あとになったり先になったりすること。
転じて、一方は先に死亡し、もう一方は生き残っていることの悲哀
を言います。
○恨みやせまし
恨むことをしないということ。恨みますという宣言みたいな気持の
撤回を意味します。「や」は反語です。
和歌文学大系21では「恨みましょう」という解釈をしています。
○蓬が露をこぼさじ
833番歌に対応していて、想空の遺族の悲しみの涙をこれ以上
こぼさせたらよくないという意味です。
「分け入り」は遺族の心情に立ち入ることを言います。
○よそに思ふ
分かりくい表現だと思います。自分(西行)は故人の身内みたいな
意識があり、ほかの方々に向けるのと同様に弔問を待たれる立場
ではない、という屈折した思いが真意です。
○御法
(みのり)と読みます。仏法のこと。
○古郷
西行にとっての「古里」ということではなくして、故人が住んでいた
場所や空間に対していう言葉です。
○袖しをれけり
涙をたくさん出して、法衣の袖で涙をぬぐうために袖が濡れる
ことを言います。
(33番歌の解釈)
「訪れて慰めてほしいものです。兄と死別し、袖には悲しみの涙が
あふれ、荒れ果てた庭の蓬には露がいっぱい置いている心細さを。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(34番歌の解釈)
「あなたの訪れを待ちわびております。兄と別れた悲しみを、そして
先後があるとはいえ、所詮死別はまぬがれ難いあわれをも、あなた
以外の誰が弔い慰めてくれましょう……(にもかかわらずあなたは
弔問してくれないのですね。)」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(35番歌の解釈)
「もしも故人が再びこの世を見ることがあったら、あなたが
弔問に来なかったことを恨んだりするでしょう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(36番歌の解釈)
「弔問が遅れたのは仕方がないことです。私たち遺族の悲しみを
慰めて下さらなくても、故人の魂の行方は見届けて下さいね。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(37番歌の解釈)
「弔問なさらなかったのは、かえって深い思いがおありだった
のでしょう。あなたをお恨みしたのは心浅い所業でした。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(38番歌の解釈)
「あなたは露しげき蓬の宿を弔問せよといわれますが、そこへ分け
入って露をこぼすように、あなたにこれ以上の涙を流させまいと
思うのも、弔問するのと同じ心ではありませんか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(39番歌の解釈)
「遅れ先立つあなたの悲しみも、よそごととは思われません
から、自分以外の誰を弔問したらよいのか、我とわが身を弔問
するばかりです。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(40番歌の解釈)
「今頃想空上人は、すべての衆生を救う仏教に結縁して浄土に
仏と生まれ、慈悲深く憐れんでいらっしゃるでしょう。弔問に
遅れた私を恨んだりなどなさいませんよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(41番歌の解釈)
「故人を偲ぶ悲しみがそれで少しでも慰められるのなら、
御遺宅に何度でもお伺いいたしますが。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(42番歌の解釈)
「仏は言葉を使わないで教えを説くと言いますから、私もこの
深い悲しみを言葉にせずにひとりで思うことにいたしました。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(43番歌の解釈)
「日々悲しみが深まる御遺宅の様子は、想像するだけで
涙が誘われます。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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同じさまに世をのがれて大原にすみ侍りけるいもうとの、
はかなく成にける哀とぶらひけるに
44 いかばかり君思はまし道にいらでたのもしからぬ別なりせば
(西行歌)(岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮815番)
45 たのもしき道には入りて行きしかど我が身をつめばいかがとぞ思ふ
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集208P哀傷歌・新潮816番)
○同じさま
剃髪、出家したことを指します。
○大原にすみ侍りけるいもうと
寂然法師の妹のことです。出家して大原に隠棲していた尼ですが、
寂然より早く亡くなったので、その弔いの歌を西行が寂然に贈った
ものです。参議定長の母ということですが、名前や没年は未詳です。
○我が身をつめば
自分の身に比べて他人の不幸に同情する。
我が身をつねって人の痛さを知る。
(大修館書店刊「古語林」から抜粋)
(つめば)は「抓む」のことです。指で物を挟むこと、つまむことを
意味します。
これだけでは歌の意味が通じません。我が身を強くつまんで、その
痛みを知ることによって、同時に他者の痛みを知ることにつながり、
自分に引き寄せて感じること、考えることができます。
平安時代にはすでにこういう使い方が完成されていたことに軽い
驚きを覚えます。
(44番歌の解釈)
「あなたの妹が仏道に入ることなく死なれ、後世の頼みもない
死別であったとしたら、どんなにあなたは遺憾に思われたこと
でしょう。」(出家しての往生は何よりの慰めと思います。)
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(45番歌の解釈)
「後世を頼む仏道に入るには入って妹は死んで行きましたが、
自分の身にひきよせて考えると、極楽往生できるか否か、
不安に思われることです。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
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【寂然名のある西行歌】
寂蓮高野にまうでて、深き山の紅葉と
いふことをよみける
01 さまざまに錦ありけるみ山かな花見し嶺を時雨そめつつ
(西行歌)(岩波文庫山家集88P秋歌・新潮477番・
西行上人集・山家心中集)
秋の末に寂然高野にまゐりて、暮の秋によせて
おもひをのべけるに
02 なれきにし都もうとくなり果てて悲しさ添ふる秋の暮かな
(西行歌)(岩波文庫山家集90P秋歌・新潮1045番・
西行上人集・山家心中集・雲葉集)
○寂蓮高野に
01番歌の「寂蓮」は「寂然」の誤りだろうと思います。
ただし岩波文庫山家集の底本の山家集類題本も寂蓮となって
いますから岩波文庫の校訂ミスではありません。
新潮日本古典集成山家集は寂然となっていますから、ここでも
「寂然」とします。29ページや70ページの贈答歌と情景は似て
いますが、この歌には寂然からの返しの歌がありません。
この歌の詞書は西行法師家集では以下のようになっています。
『寂然高野にまゐりて、深き山のもみぢといふ事を、宮の法印の
御庵室にて歌よむべきよし申し侍りしに参り会ひて』
寂然も高野山に登って、ともに宮の法印の庵で歌会をした時の詠歌
であることがわかります。
○花見し嶺
桜を見た嶺ということ。晩秋になって春の情景を追憶しています。
○時雨そめつつ
時雨が紅葉の色を深く染め上げるという表現は西行にも数首あり、
万葉集以来の和歌の伝統ともいえます。
◎ 長月のしぐれの雨に濡れとほり春日の山は色づきにけり
(万葉集巻十 2180番)
◎ いとと山時雨に色を染めさせてかつがつ織れる錦なりけり
(岩波文庫山家集87P秋歌・新潮473番・夫木抄)
○なれきにし
「慣れ来にし」で、都に慣れ親しんで来たということ。
西行は30年ほどの期間を都とその周辺で過ごしたことになります。
○都もうとく
西行が出家してから10年ほど後に移住した高野山は、都からは
遠く隔たっています。
この2首は1170年頃、西行50歳代前半の歌だと思われます。高野山
での生活は20年ほどが過ぎた頃です。
(01番歌の解釈)
「色とりどりの錦のあるみ山だよ。春は桜の花を賞(め)でた
この高野の峯を、今は時雨が染めて……」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「昔馴染んだ都のこともすっかり忘れてしまった。秋も
深まってくるとますます悲しくなってくる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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【想空歌】
寂超ためただが歌に我が歌かき具し、又おとうとの
寂然が歌などとり具して新院へ参らせけるを、人とり
伝へ参らせけると聞きて、兄に侍りける想空がもとより
01 家の風つたふばかりはなけれどもなどか散らさぬなげの言の葉
(想空法師歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮931番)
02 家の風むねと吹くべきこのもとは今ちりなむと思ふ言の葉
(西行歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮932番)
○ためただ
寂然、寂超などの父にあたる藤原為忠のこと。1136年没。
○とり具
多くの中から選びあげて、一緒に添えて・・・ということ。
○新院
崇徳院のことです。「参らせける」は詞花集の改撰を指すようです。
○人とり伝へ
人に託して崇徳院のもとに届けたということ。人とは誰か確証は
ありませんが、あるいは西行を指しているのかもしれません。
この経緯をみると、あるいは寂超と想空の兄弟の仲は良くなかった
のかもしれません。
○なげの言の葉
取り立てて言うほどの立派な歌ではないのですが……という
謙遜の言葉。
○むねと吹く
(むね)は「主・宗」の意味を持っています。大切なこと、核心で
あることなどを指しますから、想空が長兄であることに敬意を
表している言葉だと解釈できます。
同時に歌の道で華々しく活躍する家であるという意味も持ちます。
○このもと
常盤木を指し、藤原為忠の血筋の者たちを言います。
(詞書の解釈)
「寂超が父の為忠の歌を選び、寂超自身の歌も書き、また弟の寂然
の歌も選んで取り上げて書いたものを人に頼み込んで崇徳院に見せ
たということです。そのことを聞き知った想空が西行に歌を書き
送りました。
西行の返歌は儀礼的というよりも、なにかわざとらしい感じをさせ
ます。西行にしても、困惑したできごとだったのかもしれません。」
(阿部の解釈)
(01番歌の解釈)
「自分の歌は代々わが家に伝えてきた歌風を伝えるほどのもの
ではないけれど、なおざりの歌とはいえどうして一緒に広めて
くれないのでしょうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「代々和歌を第一として伝えてこられた常盤の家ですから、
あなたの歌もすぐに世に広まることでありましょう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
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