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しあ〜しか しき〜しで しな〜しほ しま〜しも しゃ しゃ〜しゅ しょ しら〜しを しん

項目   
      新院・讃岐の院・崇徳天皇

【新院】

1141年に退位してから1156年の保元の乱後に讃岐に配流される
までの崇徳上皇の呼称です。
山家集にある「一院」は鳥羽上皇を言い、「院」は後白河上皇を
指します。

【讃岐の院】

1156年の讃岐配流から崩御後10年以上を経た1177年7月までは、
崇徳上皇は「讃岐院」と呼ばれていました。

【崇徳天皇】

崇徳(すとく)天皇。1119年生、1164年崩御。46歳。

天皇在位は1123年から1141年までです。天皇とはいえ名ばかりで
あり、実権は院政を執っていた白河院、そして鳥羽院にありました。
崇徳天皇は終生にわたって政治活動とは無縁の天皇でした。

第74代鳥羽天皇と藤原公実の娘の待賢門院璋子を父母として、1119年
5月18日に出生し、1123年1月に第75代天皇となりました。1141年12月
まで在位しました。
白河院の寵愛を受けていた藤原璋子が鳥羽天皇の中宮になったのは
1118年です。
翌年、崇徳天皇は生まれましたが、当時から崇徳天皇は白河院の子供
という風説があったそうです。鳥羽天皇も、崇徳天皇は白河院の子供
と認識していたらしくて、「叔父子」として生涯にわたって嫌って
いたことがわかります。
実際には、白河天皇は鳥羽天皇の叔父ではなくて祖父にあたります。
藤原璋子に対する白河院の寵愛が保元の乱の遠因とも言えます。
1129年、白河院崩御。以後10年以上も崇徳天皇が天皇位にとどまって
いたのは、鳥羽天皇に待賢門院以外の血筋の良い女性との間に皇子
がいなかったからでしょう。この間、崇徳院に実権はありませんでした。
1139年、美福門院との間に近衛天皇が生まれると、1141年、鳥羽院は
崇徳天皇を強制的に退位させ、近衛天皇を第76代天皇とします。この
近衛天皇が1155年に夭折すると、なんと崇徳院の弟の後白河天皇が
即位して、皇太子は二条天皇となります。これによって崇徳院の血筋
の者が天皇になる可能性が完全になくなり、崇徳院の不満は高まります。
この時、藤原忠通は崇徳院の血筋が皇位につくことに反対し、後白河
即位を画策しました。また後白河天皇の乳母だった紀伊の二位の局も、
そして二位の局の夫である藤原信西も後白河即位に向かって暗躍した
ようです。二位の局は終生、西行と親しかった女性です。
1156年7月2日鳥羽院崩御。崇徳院は鳥羽院の遺体との対面も拒絶され
ていました。そして同月10日からの保元の乱にと続きます。
白河北殿に拠っていた崇徳院は敗れて12日以降に仁和寺の覚性法親王を
頼って仁和寺に入ります。同月23日に讃岐に配流。
1164年8月に讃岐にて崩御しました。崩御後10年以上も経てから、1177年
7月に「崇徳院」と諡号されました。
都に廟が建てられたのは、世情が混乱の極みであった1184年のことです。

  瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ
                (崇徳院 百人一首第77番)

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     心ざすことありて、扇を佛にまゐらせけるに、新院より
     給ひけるに、女房承りて、つつみ紙にかきつけられける

01 ありがたき法にあふぎの風ならば心の塵をはらへとぞ思ふ
  (崇徳院歌)(岩波文庫山家集214P釈教歌・新潮864番)
 
02 ちりばかりうたがふ心なからなむ法をあふぎて頼むとならば
   (西行歌) (岩波文庫山家集214P釈教歌・新潮865番)

     ゆかりありける人の、新院の勘当なりけるをゆるし
     給ふべきよし申し入れたりける御返事に

03 最上川つなでひくともいな舟のしばしがほどはいかりおろさむ
    (崇徳院歌)(岩波文庫山家集183P春歌・新潮1163番・
             西行上人集・山家心中集・夫木抄)

04 つよくひく綱手と見せよもがみ川その稲舟のいかりをさめて
   (西行の返歌)(岩波文庫山家集183P春歌・新潮1164番・
             西行上人集・山家心中集・夫木抄)

     かく申したりければ、ゆるし給ひてけり

     世の中に大事出できて、新院あらぬさまにならせおはし
     まして御ぐしおろして、仁和寺の北院におはしましけるに
     参りて、けんげんあざり出であひたり。月あかくてよみける

05 かかる世に影もかはらずすむ月をみる我が身さへ恨めしきかな
      (西行歌)(岩波文庫山家集182P雑歌・新潮1227番・ 
       西行上人集・山家心中集・拾遺風体集・西行物語)

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○心ざすこと

仏法に結縁のための祈願ということ。仏法にできるだけ近づき、
心の平安を得たいという、その心情のこと。
具体的には崇徳院近親者の法要をいうのかもしれません。

○扇を仏にまゐらせける

扇は古い読み方では「あふぎ」と言います。「あふぎ」の「あふ」
は仏に逢うの「あふ」ということを掛け合わせていますから「おうぎ」
と読めば歌の味わいが乏しくなります。
この歌は崇徳院の歌であり、崇徳院関係の法要の場に扇を供えると
いうことです。
当時は扇を仏に供養すれば功徳があると思われていたようです。

○心の塵

誰もが持つ「煩悩」のことです。煩悩こそが、人が清らかな境地
にたどりつくための障害であり、悩み苦労することの元凶と見ら
れていたものでしよう。
煩悩は人生に彩りを与え、豊かにするものの一つという解釈は
成立していなかった時代だと思います。

○ちりばかりうたがふ

仏教の素晴らしさをほんの少しでもうたがったらいけない、
という「さとし」の言葉。崇徳院の「塵」を受け、「ちり」の意味を
意図的に違えて返歌としています。

○ゆかりありける人

誰であるのか具体的な個人名は不明です。西行との共通の知人が
崇徳上皇の怒りを買っていたということがあったものと思います。
一説に藤原俊成説があるようです。

○勘当

「当」は古字の「當」です。現在は「当」の文字を使います。
江戸時代以降は親が子と絶縁する意味で使われますが、ここでは
「勘に障っている」という怒りの大きさを表しています。

○最上川

山形県中部を貫流する河で長さは229キロ。山形、福島県境の
吾妻山を源流として酒田市で日本海に注いでいます。日本有数の
急流です。後年、この河を行き来する船頭たちの「最上川舟歌」
が流行したそうです。

○つなでひく

(綱手引く)の意味です。稲舟を引く綱のことですが、実際には
崇徳院も西行も稲舟の綱を引くわけではありませんから、ここ
では崇徳院の指導力なり徳の力なりを表すための言葉として用い
られています。

○いな舟・稲舟

稲を運ぶ舟のことです。
(否=いな)は否定を表す言葉ですが、稲と否は発音が同じこと
から(否=稲)として、掛けている詠み方もされます。
「最上川を運行する舟がへさきを左右に振りながら進むゆえに、
「否舟」というとする説もあったが、「いなぶねの」は「否」
を導き出すための同音反復の序詞であり、実体は稲を運ぶ舟と
見るのが自然である。」
   (片桐洋一氏著「歌枕歌ことば辞典増訂版」から抜粋)

○いかりおろさむ 

(いかり)は舟に用いる碇と、人の感情の怒りを掛けている言葉
です。
(おろさむ)は(くらさむ)(あかさむ)(あらはさむ)などの
(む)の付く用法と同じで、(おろす)の活用形に助動詞(む) 
が付いた形です。
(おろそう)という意味になります。下ろす、沈めるということ
ですが、鎮める、納めるという意味にはならず、怒りを引き上げる
ことなくそのまま持ち続けようということになります。ちょっと
分かりにくい表現です。
新潮版には(いかりおろさん)とありますが、異同の(む)と
(ん)は同義です。

○あらぬさま

1156年、保元の乱で敗れて、仁和寺に入って出家したこと。

○御ぐし

(おぐし・みぐし)と読み、頭髪のこと。

○仁和寺

右京区御室仁和寺のこと。
仁和寺の北院とは、現在もある「喜多院」のことと思われます。

○兼堅(けんげんあざり)

生没年、俗名不詳。「源賢」とも「兼賢」とも表記されていま
すが、仁和寺の文章では「兼賢」です。
藤原道隆の孫で顕兼の子供といわれます。
1164年、崇徳院が讃岐で没した年に法橋に任ぜられたようです。
87ページの「覚堅阿闍梨」とは別人です。

○かかる世

このようになった世の中。保元の乱が起こり、新院が敗北した
状況を指します。月がかかる夜ということも掛けています。

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(01番歌の解釈)

「この扇を供えることで、なかなか逢えないという仏法に逢える
のならば、扇の風で私の心に積もった煩悩の塵を払って欲しい
ものだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「仏法にお逢いになれるであろうことを微塵も疑ってはなり
ません。仏法を仰ぎ尊んで、一途におすがりしようというので
ありますならば。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

「最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張って
いることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこの
ままでお前の願いも拒否しょう。舟が碇を下ろし動かないように」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

「最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒り
をおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私
の切なるお願いをおきき届け下さい。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
  
この二首は崇徳院と西行の贈答歌です。西行が、ある人に対しての
怒りを崇徳院の高徳を見せて解いて欲しいという願いを伝えていて、
その願いに歌で返したのが1番歌です。崇徳院の1番歌に対して、
西行は2番歌で院に意見をしていることになります。結果としては、
西行の思いを受け入れていることが詞書に見えます。

(05番歌の解釈)

「いたましくも新院がご出家になるようなこんな世の中が恨めし
いばかりか、常に変ることのない光りを放っている月が、そして
それを見ているわが身までもが恨めしく思われるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

     新院、歌あつめさせおはしますと聞きて、ときはに、
     ためただが歌の侍りけるをかきあつめて参らせける、
     大原より見せにつかはすとて
                     
06 木のもとに散る言の葉をかく程にやがても袖のそぼちぬるかな
  (寂超長門入道歌)(岩波文庫山家集178P雑歌・新潮929番)

07 年ふれど朽ちぬときはの言の葉をさぞ忍ぶらむ大原のさと
      (西行歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮930番)

     寂超ためただが歌に我が歌かき具し、又おとうとの
     寂然が歌などとり具して新院へ参らせけるを、人とり
     伝へ参らせけると聞きて、兄に侍りける想空がもとより

08 家の風つたふばかりはなけれどもなどか散らさぬなげの言の葉
     (想空法師歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮931番)

09 家の風むねと吹くべきこのもとは今ちりなむと思ふ言の葉
       (西行歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮932番)

     新院百首の歌召しけるに、奉るとて、右大将きんよしの
     もとより見せに遣したりける

10 家の風吹きつたへけるかひありてちることの葉のめづらしきかな
 (西行歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮933番・西行上人集)
 
11 家の風吹きつたふとも和歌の浦にかひあることの葉にてこそしれ
    (藤原公能歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮934番)

    讃岐へおはしまして後、歌といふことの世にいときこえ
    ざりければ、寂然がもとへいひ遣しける

12 ことの葉のなさけ絶えにし折ふしにありあふ身こそかなしかりけれ
  (西行歌)(岩波文庫山家集183P雑歌・新潮1228番・西行物語)

13 しきしまや絶えぬる道になくなくも君とのみこそあとを忍ばめ
 (寂然法師歌)(岩波文庫山家集183P雑歌・新潮1229番・西行物語)

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○新院、歌あつめさせ

崇徳院が詞花集のための歌稿を集めるということです。
崇徳院には久安百首歌がありますが、こちらは当時に活躍して
いた歌人14名の百首歌ですから、「歌あつめさせ」は詞花集の
ことであるのは間違いありません。
ところが寂超が父親の為忠の歌を清書して西行に見せましたが、
詞花集には為忠の歌は入集しませんでした。
そこで、1155年に寂超は「後葉和歌集」を編んでいます。詞花集に
対しての多少の不満があったものと思います。

○かく程に

(言の葉)を掻き集めると言うことと、歌をまとめて(清書する)
ということを掛け合わせています。

○そぼちぬる

涙でびっしょりと濡れること。

○寂超長門入道

生没年未詳。藤原為忠の三男とも言われ大原三寂「常盤三寂」の
一人です。西行ととても親しかった寂然の兄です。
俗称は為隆(為経とも)とも言われます。西行より3年遅れて
1143年の出家。子の隆信は1142年生まれですから、生まれた
ばかりの隆信を置いて出家したことになります。
女房の「加賀」は後に俊成と結婚して定家を生んでいますから、
隆信は定家の同腹の兄になります。
西行との贈答歌が岩波文庫版178Pと215Pにあります。

○朽ちぬときはの言の葉

「ときわ」とは、永久に変わらないこと、不変であることを意味
します。歌では、藤原為忠が右京区の常盤という地に屋敷を構えて
住んでいたということも重ね合わせて、為忠の歌に対しての賛辞
としています。

○我が歌かき具し

「我が」は誰を指しているのか解釈に迷うところです。
私もこれまでは以下のように解釈していました。

『寂超が為忠の歌に寂超自身の歌を書き添えて…ということ。
「我が」とは想空のことではなくて寂超を指します。
この詞書を見る限りでは寂超は想空の歌を評価していなかったとも
受け止められます。』

『為忠の歌を崇徳院に進覧するに際し、寂超が自身の歌および弟
寂然の歌を書き添えながら、自分「想空」の歌を記さなかった
ことへの不満を西行に訴えた歌。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

『歌に熱心な寂超は、兄弟の想空や寂然の詠草まで添えて提出した
こを知らせるのである。」
          (窪田章一郎氏「西行の研究」162ページ)

窪田氏は「我が」を(想空)と解釈し、新潮版では(寂超)と解釈して
います。どちらとも断定できかねますので両論併記とします。
和歌文学大系21の解説では、どちらとも触れていません。
現在の私は「想空」と解釈して良い文脈ではないかと思っています。

○寂然

常盤三寂(大原三寂)の一人で藤原頼業のこと。西行とは
もっとも親しい歌人であり、贈答歌も多くあります。

○想空

この人物については判然としません。藤原為盛説と藤原為業(寂念)
説があり、窪田章一郎氏は「西行の研究」298ページで「想空は寂念
とは別人であり、長兄の為盛ではないかと考えられる。」として
います。この卓見に私も賛同します。

西行上人集では「相空入道大原にてかくれ侍りたりし」と詞書が
あり、出家して大原に住んでいたことが分かります。

○なげの言の葉

取り立てて言うほどの立派な歌ではないのですが……という
謙遜の言葉。

○むねと吹く

(むね)は「主・宗」の意味を持っています。大切なこと、核心で
あることなどを指しますから、想空が長兄であることに敬意を
表している言葉だと解釈できます。
同時に歌の道で華々しく活躍する家であるという意味も持ちます。

○このもと

常盤木を指し、藤原為忠の血脈の者たちを言います。

○新院百首

崇徳院が題を出して、14名の歌人に詠ませた久安百首歌のこと。
藤原公能も作者の一人に選ばれています。
崇徳院には別に百首歌がありましたが、散逸して現在には残って
いません。

○右大将きんよし

藤原実能の嫡男の藤原公能のこと。1115年生。1161年、47歳で没。
第76代近衛天皇と第78代二条天皇の二代の皇后となった藤原多子の父。
最終官位は右大臣正二位。西行より三歳年長です。

久安百首が成立したのは久安6年(1150年)であり、この時には
公能はまだ右大将ではない。公能の右大将任官は1156年のこと。
書写した人のミスではないかと思いますが、必ずしもミスとは言え
ないようです。
公能との贈答歌は岩波文庫版203ページにもあります。

○家の風

徳大寺家の歌の特質的なことを言います。
ただし徳大寺家は実能が興したものですから、家の風というほど
の歴史は無いと思います。実能以前にさかのぼって言っていると
解釈したほうが良いのかもしれません。

○和歌の浦

和歌の神と言われる「玉津島明神」が紀伊の国、紀の川河口の
和歌の浦にあります。和歌に関しての歌で、よく詠まれる歌枕です。

○讚岐へおはしまして後

保元の乱で敗れた崇徳院が讃岐に流されたのは1156年7月のこと。
西行40歳頃の歌です。

○歌といふこと

崇徳院が讃岐に配流されてから、崇徳院を中心とした当時の都の
歌壇の衰退を憂えている、寂然との贈答の歌です。

○いときこえざり

崇徳院が讃岐に遷御されてから和歌の道が衰退したように感じ
られるということ。
保元の乱の後に平治の乱と続きますので、実際にこの期間は
歌合の開催などはできにくい情勢下だったと思います。
1154年から1159年の間は各歌合は一度も開催されていません。
1160年になって清輔家歌合が開かれています。

○ことの葉のなさけ絶えにし                    

和歌及び和歌を尊ぶという社会的な基盤、文学的風土が衰退した
ということ。

○しきしま

大和(奈良県)の国、磯城郡磯城島の地名から転じて大和の国
(奈良県)全体を指す言葉になります。さらに転じて大和(日本)の
国全体を指すようになります。
「しきしまや絶えぬる道」で日本の和歌の伝統が絶えるという
意味になります。

○絶えぬる道

和歌の伝統が崇徳院の讃岐配流によって絶えようとしていること。
このことが詞花集改撰作業の挫折を意味しているならば、常盤三寂
にとって大変にショックな事だったと言えます。

○なくなくも

悲嘆にくれながらも・・・。

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(06番歌の解釈)

「父が書いておいた歌稿を、再び自分が進覧すべく清書するうちに、
感に堪えずそのまま袖が涙に濡れてしまったことでありますよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

◎ (木のもとに)は新潮版では(もろともに)となっています。

(07番歌の解釈)

「時を経ても常盤の里の常盤木のように、朽ちることのない和歌を
集められ、大原の里であなたはさぞ亡き父君のことを偲んで
おいででしょう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(08番歌の解釈)

「自分の歌は代々わが家に伝えてきた歌風を伝えるほどのもの
ではないけれど、なおざりの歌とはいえどうして一緒に広めて
くれないのでしょうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(09番歌の解釈)

「代々和歌を第一として伝えてこられた常盤の家ですから、
あなたの歌もすぐに世に広まることでありましょう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(10番歌の解釈)

「さすがに徳大寺の家風をよくお伝えになっていて、素晴らしい
歌をお詠みになられますね。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(11番歌の解釈)

「確かに徳大寺家は和歌の家であるが、和歌の浦に貝がある
ように、詠むだけの価値がある和歌なのかどうか、見ていた
だけませんか。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

「この百首に公能の立場は重いものであったが、その作品をまず
西行に下見させたことは、徳大寺家に関係を持つ西行が、内部に
おいては歌人としてすでに大きく認められていたことを知る証拠
にもなる。」(中略)
          (窪田章一郎氏「西行の研究」から抜粋)

(12番歌の解釈)

「新院が讃岐におうつりになり、和歌の道がすっかり衰えて
しまった時節に生きてめぐり合うわが身こそ悲しいものです。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(13番歌の解釈)

「新院の遷御によって絶えてしまった和歌の道に、涙ながらも
あなたとだけ新院の御跡をーー在りし日の和歌が盛んであった
折を偲びましょう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(久安百首)

崇徳院出題による百首歌集。出題は1142年か1143年。完成は久安
六年(1150年)です。これを部類本といいます。さらに藤原俊成
撰による非部類本が撰進されましたが、これは当時の世相の混乱
により奏覧はされませんでした。
部類本の作者は崇徳院・公行・公能・行宗・教長・顕輔・忠盛・
親隆・覚雅・俊成・堀川・兵衛・安芸・小大進の14名でしたが、
久安百首は生存歌人の歌という制約がありましたので、撰進の
作業中に没した歌人は除かれました。
行宗、覚雅、公行が編纂中に没したため新たに季通、清輔、実清
が加えられました。
この久安百首が俊成撰の千載和歌集の重要な資料となりました。
            (桜楓社「和歌文学辞典」を参考)

 (詞花和歌集)

第六番目の勅撰集。1144年、崇徳院の院宣。撰者は藤原顕輔。
第一次本の完成は1151年。評価の定まっていた後拾遺集歌人が
優遇されて当代歌人は冷遇されたとも言われます。
第二次本も奏上されました。崇徳院はさらに改撰希望のよう
でしたが、顕輔の死去によってなされませんでした。
寂超長門入道はこれを不満として1155年頃に「後葉和歌集」を編纂
しています。
歌数は第二次本で409首。歌人数191名。曽禰好忠17首をはじめ、
和泉式部、大江匡房、源俊頼などの歌が多く採られています。
西行の歌は「よみ人しらず」として、「世をすつる」歌が「身を
捨つる」歌として撰入しています。
            (桜楓社「和歌文学辞典」を参考)

 身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
 (岩波文庫山家集196P雑歌・西行上人集・詞花集・西行物語)

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    讃岐の位におはしましけるをり、みゆきのすずのろうを
    聞きてよみける

14 ふりにける君がみゆきのすずのろうはいかなる世にも絶えずきこえむ
          (岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1446番)

     讃岐の國へまかりて、みの津と申す津につきて、月のあか
     くて、ひびのてもかよはぬほどに遠く見えわたりけるに、
     水鳥のひびのてにつきて飛びわたりけるを

15 しきわたす月の氷をうたがひてひびのてまはる味のむら鳥
         (岩波文庫山家集110P羇旅歌・新潮1404番)

     讃岐にまうでて、松山と申す所に、院おはしましけむ御跡
     尋ねけれども、かたもなかりければ

16 松山の波に流れてこし舟のやがてむなしくなりにけるかな
         (岩波文庫山家集110P羇旅歌・新潮1353番・
       西行上人集・山家心中集・宮河歌合・西行物語)

17 まつ山の波のけしきはかはらじをかたなく君はなりましにけり
          (岩波文庫山家集111P羈旅歌・新潮1354番)

     白峰と申す所に、御墓の侍りけるにまゐりて

18 よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせむ
         (岩波文庫山家集111P羈旅歌・新潮1355番・
            西行上人集・山家心中集・西行物語)

(讃岐の歌について)

西行の四国旅行は崇徳院の墓所や関係場所を尋ねることが主たる
目的です。ですから讃岐に関する歌はすべてここで取り上げるべき
かと迷いますが、弘法大師関係の歌はすでに記述ずみでもあり割愛
します。
151号の「讃岐」、163号の「四国」なども参照願います。

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○讃岐の位
 
讃岐の院としてあったということ。讃岐院のこと。
保元の乱後に配流された1156年から1164年崩御までの崇徳院の
こと。1177年に崇徳院の諡号が贈られましたから、実際には
1156年から1177年までの崇徳上皇を指します。

○みゆきのすずのろう

「すずのろう」は「鈴の奏」のことです。
天皇の行啓の際に用いる鈴を賜るよう奏上することです。

○みの津

現在の香川県三豊市三野町にある三野津湾のことです。
JR予讃線で観音寺駅と多度津駅の間に三野津湾が見えます。

○津

船が停泊する港のこと。川の場合も「津」と言います。

○ひび

「魚を捕る仕掛けで、浅海に枝付きの竹や細い木の枝を立て並べ、
一方に口を設け、満潮時に入った魚が出られないようにしたもの。
また、のり・牡蠣などを付着・成長させるため海中に立てる竹や
細い木の枝。」
            (大修館書店「古語林」から抜粋)

○月の氷

月の澄明な光に照らされて海面が氷を張り詰めたように見える
状態。その光景のこと。

○ひびのてまはる

海流によって流されないように、ひびを支えるための木を「ひび
の手」と言い、ひびの手に止まることもなくアジガモが旋回して
いる様子を説明しています。

○味のむら鳥

アジガモと言い、トモエガモの異名です。単純に「アジ」とも
言います。マガモより小ぶりのトモエガモの群れのことです。

○松山

現在の香川県坂出市林田町あたりを指します。白峯も松山村でした。

○院おはしけむ御跡

保元の乱に敗れた崇徳上皇が讃岐の国に配流されて、住んでいた
場所。香川県坂出市林田町の雲居御所跡のことだと言われます。
讃岐での崇徳院の行在所は、保元物語によれば松山(坂出市)から
直島(香川郡)、次いで志度(さぬき市)にと移転して、志度で崩御。
1164年8月26日。46歳。
坂出市の白峰稜に葬られました。
 
○かたもなかり

松山の行在所が跡形もなくなっているということ。

○波に流れてこし舟

讃岐の国の松山まで船に乗って渡ってきたこと。
自身の命、人生という小舟が、時代の波のうねりに翻弄されながら、
流されてたどりついたということ。

○白峯

「しろみね」が正しい読みのはずですが辞書類では「しらみね」と
表記しています。あるいはどちらでも良いのかもしれません。
讃岐の国綾歌郡松山村白峯、行政区は現、坂出市青海町です。
白峯は高松市と坂出市にまたがる五色台の一部であり、四国霊場
第81番札所の「白峯寺」があります。

○よしや君

すでに崩御している院に対して「君」としていますが、この歌の
場合の「君」は、生前の院との関係を偲び儀礼を越えての、より
直情的な響きを伝えてきます。
「よしや」は「たとえ…」「仮に…」という意味を持ちます。

○玉の床

美しく飾られた天皇の寝所を言います。
天皇の地位や権威、生活の全般をさしていると解釈できます。

○かからむ後

現世での生が終わった後には……どうにもならないという悲嘆の言葉。

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(14番歌の解釈)

「崇徳天皇の行幸。鈴の下賜を願い出る奏上が聞こえて、鈴が
高らかに鳴り響く。いつまでも永遠に鈴は鳴り続けることだろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(15番歌の解釈)

「海上一面に照り輝く月の光のために、氷が張ったのかと疑って、
海面におりずにひびの手の上を飛び廻っているあじ鴨の群れよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

◎ この歌に続いて月の歌9首があります。同じ旅の時の歌と解釈
 できますが、ここでは残りの9首については割愛します。

(16番歌の解釈)

「ここ松山の地に配流された崇徳上皇は、帰京の悲願も空しく
そのまま当地で崩御されてしまったのですね。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(17番歌の解釈)

「修行のきっかけが見付からなかったかもしれませんよ。
あんなにひどい目にもしお逢いにならなかったならば。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(18番歌の解釈)

「都の昔お住みになりました金殿玉楼とても、上皇様、あなた
様がお亡くなりになられました後は何になりましょうか。
何にもなりませぬ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

     讃岐にて、御心ひきかへて、後の世のこと御つとめひま
     なくせさせおはしますと聞きて、女房のもとへ申しける。
     此文をかきて、若人不嗔打以何修忍辱

19 世の中をそむく便やなからましうき折ふしに君があはずば
     (岩波文庫山家集182P雑歌・新潮1230番・西行物語)

20 浅ましやいかなるゆゑのむくいにてかかることしもある世なるらむ
           (岩波文庫山家集182P雑歌・新潮1231番)
 
21 ながらへてつひに住むべき都かは此世はよしやとてもかくても
           (岩波文庫山家集182P雑歌・新潮1232番)

22 幻の夢をうつつに見る人はめもあはせでや夜をあかすらむ
           (岩波文庫山家集182P雑歌・新潮1233番)

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○御心ひきかへて

心を引き換えること。交換すること。
今までの心持ちと違って、別のものに改心すること。

○御つとめひまなくせさせ

讃岐の崇徳院が一心に仏道修行に邁進していることをいいます。

○若人不嗔打以何修忍辱

「もしひといかりてうたずんば、なにをもってかにんにくを
しゅうせんや」と読むようです。

もし人が怒って私を打たなかったならば、私はどうやって忍辱を
修行実践することができたでしょうか。
(忍辱とは屈辱を耐え忍ぶこと。菩薩行である六波羅蜜の一つ)

○世の中をそむく便や

世を出ること。出家して仏道修行をすること。「便や」は、そう
いう日常を知らされたということです。

○なからまし 

「まし」は反実仮想の助動詞。(もし、逢わなかったならば……
無かったでしよう)の意味。

○うき折ふし

1156年の保元の乱での敗北、それに続く讃岐配流を指します。

○浅ましや

日本を統治する天皇という最高位にあった身でありながら、世の中
を乱してしまったこと、結果として配流されるというあってはなら
ないひどい現実に対しての直接的な言葉。

○いかなるゆゑの報い

因果応報ということ。悪因悪果で崇徳院ではどうすこともできない
前世からの宿業という意味。

○かかること

このようになってしまった有様。結果として配流されたことだけ
ではなくて、それまでの一連の出来事をいいます。

○住むべき都かは

讃岐から都に帰りたいという希望を持っていた崇徳院の執着を、
現世の短さを説いて、いさめている言葉。

○めもあはせでや

保元の乱からの一連の出来事のために、懊悩が深くて眠るに眠れ
ない日常でしょう……という推測の言葉。

(19番歌の解釈)

「修行のきっかけが見つからなかったかもしれませんよ。あんなに
ひどい目にもしお逢いにならなかったならば。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(20番歌の解釈)

「何とも呆れてしまう。前世からの因縁によって天皇に生まれ
ついた方が、配流の憂き目にあうなんて、そんなあり得ないことが
この世に起こってしまうなんて。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(21番歌の解釈)

「どんなに長生きしても永久に都に住むことなどできないのです
から、現世はどうでもいいじゃありませんか。それより来世の
幸福をお祈り下さい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(22番歌の解釈)

「この世が夢、幻に過ぎなかったことを自身の現実として見てしまった
人は、夜になっても眠れない苦しい日々が続くのでしょうね。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

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     かくて後、人のまゐりけるに

23 その日より落つる涙をかたみにて思ひ忘るる時の間ぞなき
       (西行歌)(岩波文庫山家集182P雑歌・新潮1234番)

24 目のまへにかはりはてにし世のうきに涙を君もながしけるかな
  (讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集182P雑歌・新潮1235番)
 
25 松山の涙は海に深くなりてはちすの池に入れよとぞ思ふ
  (讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集182P雑歌・新潮1236番)
 
26 波の立つ心の水をしづめつつ咲かん蓮を今は待つかな
  (讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集182P雑歌・新潮1237番)
           
     新院さぬきにおはしましけるに、便につけて
     女房のもとより

27  水茎のかき流すべきかたぞなき心のうちは汲みて知らなむ
 (讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1136番)
 
28  程とほみ通ふ心のゆくばかり猶かきながせ水ぐきのあと
       (西行歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1137番)

    また女房つかはしける
 
29 いとどしくうきにつけても頼むかな契りし道のしるべたがふな
  (讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1138番・
                西行上人集追而加書・玉葉集)
 
30 かかりける涙にしづむ身のうさを君ならで又誰かうかべむ
  (讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1139番)

31 頼むらんしるべもいさやひとつ世の別にだにもまよふ心は
        (西行歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1140番・
                西行上人集追而加書・玉葉集)

◎讃岐の院の女房歌は実際には崇徳院の歌だと言われています。
 こういう体裁を採らないままでは、西行との和歌の贈答でさえも
 差し障りがあったものでしょう。

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○人のまゐりけるに

「人」とは誰か不明です。「まゐりけるに」を讃岐の崇徳院を訪ねる
ことと解釈するなら「人」は寂然法師だろうと思われます。
寂然法師は崇徳院在世中に讃岐を訪れています。
その時に西行は23番歌を寂然法師に託したものとみなされます。

○涙を君も

西行の23番歌に対しての返歌ですから、このように表現しています。
24番から26番までの3首が崇徳院からの返し歌です。
ただし女房の立場としての歌ですから、「君」は崇徳院を指します。

○心の水

感情の起伏を水に例えています。 

○水茎

「筆や筆跡」のことです。
「水茎」という言葉が、なぜ筆や筆跡を表す言葉として使われ
だしたか、それはどんな理由からなのかは不明のようです。
万葉集では「水にひたる城」という意味で使われていました。
「筆あるいは筆跡」を表す言葉としては平安時代から使われ
だしたようです。

○かたぞなき

どうして良いかわからない、どうすべきか、その方法がないと
いうこと。

○程とほみ 

場所と場所の距離的な遠さを表します。 
     
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(23番歌の解釈)

「院御遷幸のその日から、悲しみの涙を流しては院を思い出して
います。片時も忘れたことがありません。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(24番歌の解釈)

「上皇様が讃岐へ遷御され、まのあたりすっかり変わり果てて
しまった世の憂さに、上皇様の御ため涙を流したことです。」
  (讃岐の院の女房歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

「上皇から流罪人へ、一瞬にして世の中が急変する苦しみを体験
なさって、さすがに院も涙の日々をお過ごしでいらっしゃいます。」
      (讃岐の院の女房歌)(和歌文学大系21から抜粋)

(25番歌の解釈)

「松山で流す涙で海は深くなり、水が増したその分を極楽の蓮の
池に入れ、極楽往生出来るようにと思うことです。」
  (讃岐の院の女房歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(26番歌の解釈)

「怒りと悲しみに波立ちわきかえる心の水をしずめながら、それが
極楽の蓮の池の水に通じ、蓮の花が咲くごとく極楽往生できる日を、
今は待つことであります。」
  (讃岐の院の女房歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(27番歌の解釈)

「手紙をどのようにしたためたらよいか分かりません。
私の心の中はどうぞお察し下さい。」
  (讃岐の院の女房歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(28番歌の解釈)

「讃岐とは遠く隔たっているので、通うこともできず、心が
通うだけだから、せめて気のすむまで心の中を手紙にしたためて
下さい。」
       (西行歌)(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(29番歌の解釈)

「以前からあなたを頼りにしておりましたが、このような事態と
なって讃岐に下りましてからはいよいよあなたしかいません。
お約束下さったように間違いなく私を後世に導いて下さいませ。」
      (讃岐の院の女房歌)(和歌文学大系21から抜粋)

(30番歌の解釈)

「こんなに涙を流して泣いてばかりいるつらい境遇の私を、あなた
以外の一体誰が救い出して下さるというのでしょう。」
      (讃岐の院の女房歌)(和歌文学大系21から抜粋)

(31番歌の解釈)

「後世の道案内を私に、ということですが務まりますでしようか。
後世どころか同じ現世にあってさえ、このように離れ離れでお会い
できないことに戸惑い気味の私です。」
           (西行歌)(和歌文学大系21から抜粋)

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【崇徳院関係年表】

1119年05月 第74代鳥羽天皇を父、藤原公実の娘の藤原璋子を母と
      して崇徳院出生。第一皇子。

1123年01月 五歳で第75代天皇として即位。譲位した鳥羽天皇は21歳。

1124年11月 藤原璋子に「待賢門院」の院号宣下。

1129年07月 第72代白河天皇崩御。この頃から鳥羽院と藤原璋子の
      関係は冷却に向かう。

1130年10月 待賢門院の御願寺「法金剛院」落慶供養。
      鳥羽院、待賢門院、各公卿が臨幸。

1134年ころ 藤原得子入内。鳥羽院の寵を受ける。

1135年   叡子内親王、続いて1137年(日+章)子内親王(八条院)出生。

1139年05月 体仁親王(近衛天皇)出生。安楽寿院落慶供養。

1140年09月 崇徳天皇第一皇子重仁親王出生。母は兵衛佐局。
      美福門院の養子となる。
      保元の乱後に仁和寺で出家。1162年病気で没。

1140年10月 佐藤義清、出家して西行、円位、大宝房と号する。

1141年12月 崇徳天皇23歳で譲位。第76代近衛天皇が三歳で即位。

1142年   待賢門院に近い源盛行が待賢門院の命により藤原得子を
      呪詛したという嫌疑を持たれて土佐に配流となる。

1145年08月 待賢門院逝去。45歳。女房たちは三条高倉第で喪に服す。

1149年   藤原得子、「美福門院」の院号宣下。

1150年   久安百首部類本の完成。崇徳院下命は1142年か1143年。

1151年   詞花和歌集の一次本の完成。院宣は1144年。撰者は顕輔。
      宮の法印出生。(元性→覚恵と改名)1184年没。

1153年03月 藤原頼長、崇徳院御所別当となる。

1155年07月 近衛天皇崩御。待賢門院所生の後白河天皇が即位。
      藤原忠実・頼長父子や崇徳院の呪詛によって近衛院は
      早逝したという噂が広まる。

1156年07月 鳥羽院崩御。54歳。保元の乱勃発。崇徳院、仁和寺に
      逃れた後、讃岐に配流。兵衛佐局らが随行。
      藤原頼長敗死。源為義らを船岡山で斬殺。

1158年08月 後白河天皇譲位。第78代二条天皇即位。

1159年12月 平治の乱が起こる。藤原信頼、藤原信西、源義朝らが没。

1160年12月 美福門院逝去。遺言により女人禁制の高野山に葬むられる。

1164年08月 崇徳院、配流先の讃岐で崩御。46歳。白峯陵に葬むられる。

1168年   西行、讃岐の白峯陵参拝。

1177年07月 讃岐院から崇徳院と諡号。

1184年04月 崇徳院の廟を都に建てる。権別当は西行の子?の慶縁か?

【崇徳院の係累】

「父」   

第74代鳥羽天皇。鳥羽天皇は第73代堀川天皇の第一皇子。
1107年、五歳で即位。1123年、21歳で崇徳天皇に譲位。1129年、
白河院崩御後、崇徳、近衛、後白河治世の27年間にわたり院政を
執る。1141年、出家して法皇となる。

中宮待賢門院との間に7人、皇后美福門院との間に4人など、20人
以上の皇子女がある。
長子の崇徳天皇を、鳥羽院から見ると叔父でもあり、かつ、自分の
子でもある意味から「叔父子」と呼んでいたことを鎌倉時代初期に
書かれた「古事談」が伝えています。1156年の臨終に際しても、
死後の対面を拒絶していたそうですし、当事者の心情はいかばかり
かと、やりきれないものを覚えます。
1156年、54歳にて崩御。すぐに保元の乱が勃発しました。
多くの遺領は八条院(日+章)子内親王が伝領しました。
陵墓は鳥羽の安楽寿院陵。

「母」
   
藤原璋子。藤原公実の娘、実能の妹。祇園女御と白河院が養い親と
なっていました。1117年鳥羽天皇に入内。鳥羽天皇との間に7人の
子があります。
白河院が没した1129年頃から不遇をかこつようになり、1142年、
法金剛院にて落飾。1145年逝去。陵は花園五位山の花園西陵。
西行が出家する原因となった女性という説もあります。

「主な兄弟姉妹」

後白河天皇 第76代天皇(1127〜1192)。母は待賢門院。
覚性法親王 仁和寺総法務(1129〜1169)。母は待賢門院。
近衛天皇  第75代天皇(1139〜1155)。母は美福門院。
上西門院  統子内親王(1126〜1189)。母は待賢門院。
八条院   (日+章)子内親王(1137〜1211)。母は美福門院。
五辻斎院  頌子内親王(1145〜1208)。母は春日局。

「皇后女御」

中宮 藤原聖子(藤原忠通娘)皇嘉門院。月輪南に陵墓あり。
兵衛佐局(重仁親王の母であり、讃岐にも随行)。
    贈答歌のある讃岐の院の女房は兵衛佐局と思われます。 

「皇子女」

重仁親王(1140〜1162)。仁和寺で出家。足の病気?で没。
元性親王(1151〜1184)。宮の法印として山家集にも登場。西行と親交。

【京都の崇徳院関係寺社】

白峰神宮   上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261
安井金毘羅宮 東山区東大路通松原上る下弁天町
崇徳院御廟  東山通安井一筋上がる 祇園歌舞練場の東
聖護院    境内北西に崇徳地蔵あり(私は未確認)
琴平神社   左京区金毘羅山

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