しあ〜しか | しき〜しで | しな〜しほ | しま〜しも | しゃ | しゃ〜しゅ | しょ | しら〜しを | しん |
項目 上西門院・前斎院・頌子内親王(五辻斎院)・(日+章)子内親王(八条院)
勝持寺・静忍法師・菖蒲・書写
【上西門院】
鳥羽天皇を父、待賢門院を母として1126年に出生。統子(とうこ・
むねこ)内親王のこと。同腹の兄に崇徳天皇、弟に後白河天皇、
覚性法親王がいます。1189年7月、64歳で崩御。
幼少の頃(2歳)に賀茂斎院となるが、6歳の時に病気のため退下。
1145年に母の待賢門院が没すると、その遺領を伝領しています。
1158年8月に上西門院の一歳違いの弟の後白河天皇は、にわかに二条
天皇に譲位して上皇となります。統子内親王は、後白河上皇の准母
となり、1159年2月に上西門院と名乗ります。
それを機にして、平清盛が上西門院の殿上人となり、源頼朝が蔵人
となっています。
同年12月に平治の乱が起こり、三条高倉第にいた後白河上皇と二条
天皇、そして上西門院は藤原信頼・源義朝の勢力に拘束されています。
1160年1月に義朝は尾張の内海で殺され、3月には頼朝が伊豆に配流
されています。
上西門院は1160年に出家していますが、それは平治の乱と関係がある
のかも知れません。生涯、独身で過ごしています。
高野山に蓮華乗院を建立した五辻斎院頌子内親王や八条院ワ子内親王は
異母妹になります。
【前斎院】
賀茂斎院であった女性の退下後の呼称です。
05番・06番歌は統子内親王とその御所を意味します。菩提院は
仁和寺にありました。
これとは別に下の歌の場合は「清和院の前斎院」の官子内親王
御所を指しています。詳しくは143号を参照願います。
夢中落花といふことを、前斎院にて人々よみけるに
◎ 春風の花をちらすと見る夢は覚めても胸のさわぐなりけり
(西行歌)(岩波文庫山家集38P春歌・新潮139番)
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上西門院の女房、法勝寺の花見られけるに、雨のふりて
暮れにければ、帰られにけり。又の日、兵衛の局のもとへ、
花の御幸おもひ出させ給ふらむとおぼえて、かくなむ
申さまほしかりし、とて遣しける
01 見る人に花も昔を思ひ出でて恋しかるべし雨にしをるる
(西行歌)(岩波文庫山家集27P春歌・新潮101番・
西行上人集・山家心中集・西行物語)
02 いにしえを忍ぶる雨と誰か見む花もその世の友しなければ
若き人々ばかりなむ、老いにける身は風の煩はしさに、
厭はるることにてとありけるなむ、やさしくきこえける
(兵衛局歌)(岩波文庫山家集27P春歌・新潮102番・
西行上人集・山家心中集・西行物語)
十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院
おはしますよし聞きて、待賢門院の御時おもひ出でら
れて、兵衛殿の局にさしおかせける
03 紅葉見て君がたもとやしぐるらむ昔の秋の色をしたひて
(西行歌)(岩波文庫山家集194P雑歌・新潮797番・
西行上人集・山家心中集・西行物語)
04 色深き梢を見てもしぐれつつふりにしことをかけぬ日ぞなき
(兵衛局歌)(岩波文庫山家集194P雑歌・新潮798番・
西行上人集・山家心中集・西行物語)
山水春を告ぐるといふ事を菩提院前斎宮にて人々
よみ侍りし
05 はるしれと谷のほそみずもりぞくるいはまの氷ひまたへにけり
(西行歌)(岩波文庫山家集16P春歌・新潮10番・
西行上人集・山家心中集)
遠く修行することありけるに、菩提院の前の斎宮に
まゐりたりけるに、人々別の歌つかうまつりけるに
06 さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は
(西行歌)(岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1142番・
西行上人集・新古今集・西行物語)
同じ折、つぼの櫻の散りけるを見て、かくなむ
おぼえ侍ると申しける
07 此春は君に別のをしきかな花のゆくへは思ひわすれて
(西行歌)(岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1143番)
かへしせよと承りて、扇にかきてさし出でける
08 君がいなんかたみにすべき櫻さへ名残あらせず風さそふなり
(女房六角局歌)(岩波文庫山家集106P離別歌・新潮1144番)
上西門院にて、わかき殿上の人々、兵衛の局にあひ申し
て、武者のことにまぎれて歌おもひいづる人なしとて、
月のころ、歌よみ、連歌つづけなんどせられけるに、
武者のこといで来たりけるつづきの連歌に
09-1 いくさを照らすゆみはりの月
(前句、兵衛局)(岩波文庫山家集256P聞書集228番)
伊勢に人のまうで来て、「かかる連歌こそ、兵衛殿の局
せられたりしか。いひすさみて、つくる人なかりき」
と語りけるを聞きて
09-2 こころきるてなる氷のかげのみか
(付句、西行)(岩波文庫山家集256P聞書集228番)
◎ 03番歌の詞書の「法金剛院」は新潮版では「宝金剛院」となって
います。これは西行が意図的に「宝」の文字を用いたか、あるいは
山家集を書写した人のミスなのか断定はできません。高橋庄次氏は
「西行の心月輪」の中で、「西行はこの詞書で法金剛院の「法」を
「宝」と書いている。こんなところにも女院への思いがこめられて
いるのだろうか」と記述していますが、はたしてどうなのでしょう。
◎ 05番歌の詞書は山家心中集と西行上人集にあります。新潮版、
岩波文庫版ともに「題しらず」となっています。
◎ 05番歌と06番歌にある「斎宮」は「斎院」のミスです。
◎ 06番歌の「菩提院」は岩波文庫版では抄物書きです。後述。
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○法勝寺
白河天皇の御願寺です。後述。
○兵衛の局
待賢門院と上西門院に仕えた女性です。西行と親しかった歌人です。
○花の御幸
「花の御幸」とは、百錬抄の1124年2月12日条にある「両院、臨幸、
法勝寺、覧、春花・・・於、白河南殿、被、講、和哥」とある花見を
指しているもののようです。新潮版の山家集でも、そのように解釈
されています。
とするなら、1124年は西行6歳。上西門院の出生は1126年ですから、
この2年後に生まれたということです。1185年頃に死亡したとみられる
兵衛の局は、この詞書と歌を信じるなら、すでに待賢門院には仕えて
いて、花の御幸に随行したということでしょう。1105年ほどの出生に
なるのでしょうか。
御幸(みゆき・ごこう)=上皇、法皇、女院などの外出を指します。
行幸(みゆき・ぎょうこう)=天皇の外出を指します。
○友しなければ
この歌の場合「友」とは花の友である兵衛自身をいいます。
「し」は強意の副助詞で「し」の前の言葉を強調します。
○法金剛院
右京区花園にある寺院。後述。
○待賢門院
鳥羽天皇中宮、崇徳天皇と後白河天皇の母です。後述。
○菩提院の前の斎宮
岩波文庫山家集では抄物書きの「サ」を二つ縦に重ねたような合字
です。仁和寺の菩提院と断定できます。
斎宮はミスであり、正しくは「斎院」です。後述。
○遠く修行
遠くとはどこであるか不明です。初めの奥州行脚を指すものと
みられています。この時代にあって「修行」という言葉は「旅」と
ほぼ同義であったようです。
○さりともと
古語。「さ、ありとも」の約。しかしながら・それにしても・
それでも・そうであっても・・・などの意味。
○死出の山路
人の死後にたどるという山のこと。
○つぼの桜
「つぼ」は、建物の内にある庭のこと。中庭の桜のこと。
○武者のことにまぎれて
1180年頃からの源平の争乱を指しています。
○ゆみはりの月
弓形をしている月のこと。上弦と下弦の月のこと。
弓は武者の象徴でもあり、戦の縁語です。
○いひすさみて
口に言うだけである・・・ということ。
言いはしても返しの歌を作らないということ。
○こころきる
分かりにくい表現ですが、身体だけでなく心まで切り刻むという
意味だと思います。そこには武者の世や、命をやり取りすること
に対しての批判が込められています。
○てなる氷
「手にした剣」の比喩表現。鋭利な刃の意味を込めています。
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(01番歌の解釈)
「かつての御幸に随われた人が桜を見に来られたので、桜の花も
あなたと同じように昔の事を思い出して恋しく思ったのであり
ましょう。懐旧の涙にぬれてしおれております」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「花見御幸の昔をしのんで涙が雨となったとは誰が見ましょうか。
桜の花もその昔の友である私がいなかったことですから」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
◎歌と詞書から類推すると兵衛の局は風邪のために欠席したようにも
受け止められます。しかし実際には参加していました。
(03番歌の解釈)
「上西門院のお供をして宝金剛院の紅葉を御覧になるにつけ、待賢
門院をお偲び申し上げて、紅葉を染めた時雨のごとく涙にかきくれ
られることでしょう。女院御在世の折の秋の様子をお慕いになって。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(04番歌の解釈)
「女院をお慕い申し上げる涙のような色の紅葉の梢を見ても、その
色を一層濃くするために降りくる時雨のごとく、涙もとめどなく流れ、
女院御在世の昔のことを心にかけて思わない日はありません。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(05番歌の解釈)
「春の到来を告げるように谷の伏流が岩間から漏れ出てきた。
張りつめた氷が解けて隙間ができたのだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06番歌の解釈)
「遠い修行の旅に出かけるので、むずかしいとは思われますが、
それでもやはり再会を期待することです。死出の山路を越える
別れではないから。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(07番歌の解釈)
「この春は内親王様にお別れすることがまことに名残り惜しゅう
ございます。いつもでしたら、散りゆく花に覚えます惜別の念も
忘れてしまいまして。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(08番歌の解釈)
「あなたが遠い修行の旅に出られたら、あなたの形見にしたいと
思っている桜の花までも、名残りを留めることなく風が誘って
散らしてしまうことです。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(09-1兵衛局の前句の解釈)
「戦場を照らす弓張の月よ」
(和歌文学大系21から抜粋)
(09-2西行の付け句の解釈)
「心を切る、手の中にある氷のような剣の刃ばかりか」
(和歌文学大系21から抜粋)
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『法勝寺及び六勝寺』
法勝寺は白河天皇の御願寺として1075年に造営に着手されました。
もともとは藤原氏の「白河殿」があった場所です。この地は白河
天皇が藤原師実から献上を受け、そこに法勝寺は建立されました。
1077年の末には洛慶供養が営まれています。順次、伽藍が増築され
て1083年には高さ82メートルという八角九重の塔が完成しています。
ところが、この塔も約100年後の京都大地震で「うへ六重ふり落とす
(平家物語巻十二、大地震)」と被災しています。1185年7月のこと
です。
九重塔は度重なる落雷や火災に見舞われ、1342年の火事で焼亡
してからは再建されていません。
場所は現在の京都市動物園を中心にした一帯です
現在、動物園内に九重の塔の碑文があります。
六勝寺は、この法勝寺の近くの「勝」の文字が用いられた六寺を指し
ます。すべて法勝寺の付近、岡崎公園一帯にありました。現在も
法勝寺、円勝寺、最勝寺、成勝寺は町名として残っています。
いずれも焼亡などにより応仁の大乱後までには廃寺になっています。
尊勝寺は堀川天皇のご願により建立。1102年落慶供養。
最勝寺は鳥羽天皇のご願により建立。1118年落慶供養。
円勝寺は待賢門院のご願により建立。1128年落慶供養。
成勝寺は崇徳天皇のご願により建立。1139年落慶供養。
延勝寺は近衛天皇のご願により建立。1149年落慶供養。
◎ 角田文衛氏著「平安の都」では、地震による被害については
触れていません。1169年、1174年、1176年、1208年に落雷被害が
あったと記述されています。
『法金剛院』
法金剛院のもともとの創建は右大臣、清原夏野が830年頃に山荘を
建てたのが始まりといわれています。夏野の死後、山荘はお寺に
改められ双丘寺と号しました。857年には伽藍も整えられて、元号
そのままの天安寺と改称。
しかし、壮観を誇っていた天安寺も974年に火災が起きてからは、
歴史から消えました。
この天安寺の跡地に、待賢門院が法金剛院を建てました。1130年の
ことです。この時代は浄土信仰が盛んな時代で、本尊は阿弥陀仏とし、
庭園も浄土思想に基づいて造られています。
待賢門院は1142年にここで落飾して、1145年に三条高倉第にて崩御。
遺骸は法金剛院の三昧堂の下に納められました。
その後の法金剛院は、娘の上西門院が伝領しました。1171年に南御堂、
1172年には東御堂も建てられています。
以後、衰退に向かいますが、円覚上人が再興。それも応仁の乱の
戦火や地震などにより荒廃に向かいます。
江戸時代初期に再建され、近世を通じて四宗兼学寺院として続いて
いました。
明治になって、山陰線の鉄道施設のために境内の真中で二分され、
1968年には丸太町通り拡幅のためにも寺域が削られています。
その時に本堂も移築しています。したがって法金剛院が現在の
寺観になったのは、わずか40年ほど前のことです。
『待賢門院』
藤原公実の娘の璋子のこと。1101年から1145年まで在世。藤原実能
の妹。白河天皇の猶子。鳥羽天皇中宮。崇徳天皇・後白河天皇・
上西門院などの母です。ほかには三親王、一内親王がありますので、
七人の母ということになります。
幼少から白河天皇の寵愛を受けていた彼女は1117年に入内し翌年、
鳥羽天皇の中宮となります。そして1119年に崇徳天皇を産んでいます。
末っ子の本仁親王(仁和寺の覚性法親王)が1129年の生まれですから、
ほぼ10年で七人の出産ということになります。このうち、崇徳天皇は
白河院の子供という風説が当時からあって、それが1156年の保元の
乱の遠因となります。
白河院は1129年に崩御しました。それからは、鳥羽院が院政を始め
ました。1134年頃に藤原得子(美福門院)が入内すると、鳥羽院は得子を
溺愛します。得子は1139年に近衛天皇を産みます。鳥羽院は1141年に
崇徳天皇を退位させ、まだ幼い近衛天皇を皇位につけました。
この歴史の流れの中で鳥羽院の中宮、崇徳天皇の母であった待賢門院
の権威も失墜してしまって、1142年に法金剛院で落飾、出家しました。
同時に、女房の中納言の局と堀川の局も落飾しています。
1145年8月22日崩御。法金剛院の三昧堂の下に葬られ、現在は花園西陵
と呼ばれています。
【菩提院の前斎院】
「菩提院の前斎院」の前斎院については久保田淳氏監修の「和歌文学
大系21」に『あるいは後白河院皇女亮子内親王(殷富門院)か。』
とあります。そこで、二人の内親王について比較してみます。
統子内親王 亮子内親王
父 鳥羽天皇 後白河天皇
母 待賢門院 藤原成子
生年 1126年 1147年
没年 1189年 1216年
斎院卜定 1127年(第28代賀茂斎院)1156年(第61代伊勢斎宮)
斎院退下 1132年 1157年
院号 上西門院(1157年) 殷富門院(1187年)
西行法師が京都から陸奥に旅立ったのは初度の旅の時だけであり、
それは1147年頃、西行30歳頃の年と見られています。二度目の
旅は伊勢から旅立ったものと見られています。西行69歳の時です。
1147年といえば亮子内親王は生れたばかりです。亮子内親王が伊勢の
斎宮となったのは1156年のこと。統子内親王は1132年から前斎院です。
したがって、亮子内親王が初度の旅の時の「菩提院の前斎宮」と
いうことはありえないことでしょう。西行40歳前の陸奥行脚になり
ますので年代が下がりすぎます。
岩波文庫106ページにカタカナの「サ」を下に二文字重ねたような
文字があります。これは「抄物書き」といい、合字です。「ササ菩薩」
と言われます。仏教関係の書籍では菩薩などという言葉は頻繁に出て
くる言葉なのですが、仏典などを書写する人は何度も書き写す文字を
略して記述するようになりました。それが「抄物書き」です。
ところが「菩薩院」では明らかに変な名詞と思います。他の多くの
資料では当該箇所は「菩提院」となっています。
仁和寺には実際に「菩提院」という支院がありました。
今回紹介した05番歌「はるしれと〜」にある詞書は「山家心中集」
と「西行法師家集」にあります。そこでは「菩提院」を表す合字が
用いられているそうです。(私は未確認です。)
「さりともと〜」歌も「菩薩院」は「菩提院」の誤りと思います。
西行の自筆稿を岩波文庫新訂山家集まで書き写して来た過程で、
どなたかが誤写して、それがそのまま伝わってきたものでしょう。
「斎宮」も「斎院」の誤写と言われています。
目崎徳衛氏の「西行の思想史的研究」によれば、1126年に出生した統子
内親王が第28代賀茂の斎院となったのが1127年、斎院退下が1132年、
入内が1157年。この内、斎院退下から入内までの25年間が「菩提院の
前斎院」と呼ばれていた期間だと、考察されています。
(主に学藝書林「京都の歴史」・平凡社「京都市の地名」を参考)
【頌子内親王(五辻斎院)】(のぶこ・しょうし)
鳥羽天皇を父とし、藤原実能の養女の春日局を母として1145年に
生まれた皇女です。1208年64歳にて崩御。異母姉の上西門院より
19歳、八条院より8歳若い内親王です。
第33代賀茂の斎院になったのは1171年。なんと27歳での斎院でしたが、
わずか一か月半ほどで退下しています。この年、西行54歳です。
頌子内親王は父の鳥羽上皇の菩提を弔うために、高野山に蓮華乗院を
建立したのですが、それに西行が協力して完成させています。
その時の書状が今に残っていて、「高野山宝簡集」にあるそれは、
西行60歳時の自筆書簡で「円位書状」と呼ばれています。
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斎宮おりさせ給ひて本院の前を過ぎけるに、人のうちへ
入りければ、ゆかしうおぼえて具して見まはりけるに、
かくやありけんとあはれに覚えて、おりておはします所へ、
せんじの局のもとへ申し遣しける
01 君すまぬ御うちは荒れてありす川いむ姿をもうつしつるかな
(西行歌)(岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1224番・
西行上人集・山家心中集・夫木抄)
02 思ひきやいみこし人のつてにして馴れし御うちを聞かむものとは
(宣旨局歌)(岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1225番・
西行上人集・山家心中集)
○斎宮
「斎宮」ではなくて「斎院」の誤りです。賀茂の場合は「斎院」
もしくは「斎王」と言います。
○おりさせ
「降りさせ」です。斎院が退下して俗界に戻ったということ。
○本院
紫野にあった斎院御所のことですが、どこか確定していません。
場所は櫟谷七野(いちいだにしちの)神社あたりという説があります。
船岡山の東南、大宮寺の内通り北側になります。
○君すまぬ
賀茂斎院が退下してから年数がたっていたことを思わせます。
○御うち(みうち)
紫野にあった斎院御所のことです。紫野とは北大路通り沿いの大徳寺
あたりを指しますが、斎院の場所は不明のままです。
「御うちは荒れて」とは、斎院の本院に皇女の斎院が住まなくなって、
手入れをしないから荒れ果てているということです。
斎院御所に住む皇女のことは「斎王」とも「斎院」ともいいますが、
斎王の住む建物自体も「斎院」といいます。
これとは別に、伊勢神宮に仕える皇女は「斎宮」といいます。
また、藤原氏は斎宮制度を真似て私的に西京区大原野にある大原野
神社に藤原氏の息女を入れていましたが、こちらは「斎女」と
言っていました。
(平凡社「京都市の地名」を参考)
○ありす川
紫野の斎院御所の中、もしくはその側を流れていた川のことです。
歌の有栖川は紫野ですが、現在は紫野に有栖川はありません。他に
賀茂と嵯峨にも有栖川があって、合計3箇所に有栖川があったよう
です。
現在、嵯峨を流れている有栖川は大覚寺の北、観空寺谷奥からの渓流と、
広沢池から流れ出る水源が合流、嵯峨野を南流して桂川に注いでいます。
野宮に入った賀茂斎院はこの有栖川で潔斎していたものと思います。
(平凡社「京都市の地名」を参考)
○いむ姿
僧体を指します。自発的な出家であり、西行自身ではむしろ薄墨の
衣の姿は誇りだったでしょう。決して忌む立場、忌む姿ではない
はずですが、ここでは内親王に対して謙譲的に、自身を一段低い
ものとして表現しているのでしょう。
○宣旨「せんじ)の局
女房名とするより職掌名と解したいと思います。
斎院に仕えた女官の官職のひとつです。現在風言葉でいうなら、斎院の
広報官とも言えます。
○いみこし人
(いみこし人)は西行自身を指します。
斎院という朝廷の制度において、僧形は斎院の神聖さを汚すものと
して受け止められていたようです。
○つてにして
言伝のこと。伝言、便り、お知らせ、などのこと。
(01番歌の解釈)
「斎院が今はお住みになっていない本院の内はすっかり荒れており、
かつて斎院が潔斎せられたお姿をうつした有栖川に、忌まれる
僧形のわが姿をうつしたことでありました。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「思ってもみたことでしょうか。僧形ゆえ斎館に近づくのははば
かっておられましたあなたの言伝てによって、昔お仕えし馴れ
親しんだ斎館の様子をお聞きしょうとは。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【(日+章)子内親王(八条院)】(あきこ・しょうし)
1137年出生、1211年、75歳で没。第74代鳥羽天皇と美福門院藤原
得子との間に生まれた内親王。第76代近衛天皇は弟にあたります。
鳥羽院と美福門院の広大な所領を伝領しました。八条院没後はその
遺領は後鳥羽天皇皇女昇子内親王に譲られました。
後白河院の子で甥の第78代二条天皇の准母となっています。
上西門院統子内親王は異母姉、五辻斎院頌子内親王は異母妹に
なります。
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八條院の宮と申しけるをり、白川殿にて虫あはせられ
けるに、かはりて、虫入れてとり出だしける物に、水に
月のうつりたるよしをつくりて、その心をよみける
01 行末の名にや流れむ常よりも月すみわたる白川の水
(西行歌)(岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1188番)
○八条院の宮
(日+章)子内親王が八条院となったのは1161年、25歳のことです。
「八条院の宮」と呼ばれていたのはそれ以前のことです。
鳥羽院崩御、保元の乱、21歳での出家などを考え合わせると、1155年
頃までの歌、内親王10代後半、西行30代中頃までの詠と思います。
○白川殿
白川南殿と北殿がありました。「みなみどの」「きたどの」と呼び
ます。南殿は岡崎公園の西、二条通りの北側に1095年に白河法皇に
よって造営されました。泉殿ともいい、しばしば花見の宴が催された
ようです。
「百錬抄」1124年条に白川、鳥羽の両院、中宮の藤原璋子とその
女房達が花見をしたことが記述されています。
他方、北殿は南殿の北に位置し、同じく白河法皇により1118年に
造営されました。大炊(おおい) 御殿ともいいます。
1156年の保元の乱の際に崇徳上皇の御所となったために、平清盛・
源義朝らに攻められて炎上しました。
○虫あはせ
貝合わせと同じで、上流階級の女性たちの遊びの一つです。
虫を持ちよって、その鳴き声や姿形の美しさを競ったようです。
虫だけでなく、意匠を凝らした虫かごや、そして歌なども
優劣の対象になったようです。
(01番歌の解釈)
「この虫合の名声は将来まで語り伝えられるでしょう。今日は格別に
白河の水も澄み、ずっと映っている月も美しく澄んでいますから。」
(和歌文学大系21から抜粋)
「白川の水に常よりも月が澄んでいることを題材として、初二句に
よって宮の将来を祝った賀歌としているのは、公的な作品として
型通りのものであり、貝合の場合とおなじである。しかし、ただ
一首のみであり、心のはなやかに躍ったところもなく、特に
取り上げる内容はない。西行が女房の代作者として、40代に
貴族社会の歌の催しを楽しんでいたことが、生活の一部に
あった・・・(後略)」
(窪田章一郎著「西行の研究」より抜粋)
『常磐御所』と『源光寺』
現在、右京区常盤に「源光寺」という小宇があります。「源光庵」
とも称する尼寺です。1778年に源義経の母「常盤」ゆかりの「常盤院」
から「源光寺」に改めたそうです。境内には常盤の墓があります。
このお寺は「常盤地蔵・乙子地蔵」という地蔵尊を祀っていて、
京都六地蔵の一つです。1180年頃に始まったという八月下旬頃の
六地蔵巡りは地蔵会行事の一つですが、小野篁の冥土往来伝説に
ちなむものだそうです。
この源光寺には、お寺の由来を記した立て札があり、鳥羽天皇皇女
(日へんに章)子内親王が隠棲していて、藤原定家がたびたび
尋ねてきたとあります。歌の講義をしたのかもしれません。
八条院(日へんに章)子内親王はこの辺りに山荘を造っていました。
この山荘が常盤御所であり、常盤御所は1174年に「蓮華心院」という
お寺に改められています。以後、仁和寺の一支院となっています。
蓮華心院は現在はありません。蓮華心院の跡地に「常盤院」を建てた
というのも変な気がしますが、あるいは跡地の一部に「常盤院」が
建てられ、それが「源光寺」になったとも考えられます。
源光寺の近くには「常磐古御所町」の地名が残っています。
藤原為忠の屋敷もすぐ近くにあったものと思います。
(平凡社「京都市の地名」を参考』)
【勝持寺】
現在の京都市西京区にあるお寺です。山家集には一度も出てこない
お寺名ですが、西行が剃髪出家したという伝承がありますので、
ここで取り上げます。
勝持寺の創建は詳らかではなく役の小角が680年に天武天皇の勅で
建立したとも言い、また791年に最澄が桓武天皇の勅で草創の事業を
したとも言われています。
足利尊氏の庇護を受けて一時は堂塔49宇を数えたとのことですが、
応仁の乱で焼亡して衰退しました。現在の堂宇は乱後のものです。
京都新聞社1982年発行「京の西山」では境内に300本に及ぶ桜の木が
あると書かれていますが、最近発行の同寺の栞では「100本の桜」と
あります。以前よりも桜の木はかなり少なくなったような印象を
受けます。
現在は桜よりも紅葉がとても素晴らしいです。東福寺などよりは
素晴らしい紅葉だと思いますが、いかんせん境内は東福寺ほどには
広くは無く、紅葉する木も100本ほどのようです。
重文の薬師如来、金剛力士像がありますし、応仁の乱でも被災を
免れた仁王門が静かな、しかし威厳のあるたたずまいを見せます。
鎌倉時代の湛康・慶秀作の仁王像は現在も見ることができます。
927年作という小野道風筆の勅額もありますし、室町時代作の若い
西行像もあります。
裏山には西行を慕ったという歌人の木下長蕭子が草庵を結んでいて、
そこで一生を終えたとも言われています。
西行の剃髪落飾地については確かな資料がなくて推定するしかあり
ません。勝持寺がその地とみなされていますが、鳥羽にあった西行寺
も同様に出家地という伝承があります。他にも二か所は出家地の
可能性がありますから、勝持寺での落飾出家説は確定したものでは
なくて、一つの伝承にすぎません。
謡曲の「小塩」はもちろんのこと、「西行桜」にしてもその舞台を
勝持寺と特定するものではないはずです。特定するだけの材料は
ないものと思います。
室町時代初期の1365年、バサラ大名、佐々木道誉が観桜の饗宴など
もやっていて、京師に勝持寺のことは知れ渡っていましたから、
室町時代に作られた「西行桜」の舞台は勝持寺であったとしても
納得できます。
仁王門の前に京都市の立てた説明の立札があって、そこには本堂前
の西行桜は三代目とあります。それは本当かな?という疑念が私
にはあります。
「新訂都名所図会 2」1786年発行(西行桜、堂前の左右にあり。)
「山州名跡志 巻10」1771年発行(西行桜、ただし、この樹今は亡し)
高浜虚子の句 「地にとどく 西行桜 したしけれ」
高浜虚子(1874〜1959)の句は果たして勝持寺の西行桜を詠ったものか
どうか私には確認できませんが、もし勝持寺の西行桜であったとして
もそれは現在の西行桜ではなくて、先代の西行桜なのでしょう。
虚子最晩年のことであれば、西行桜の樹高は1メートル前後の若木の
はずですから、句に詠われた桜でないことは確実です。現在の桜の
枝ぶりは「地に届く」というものではありません。
私が今の西行桜を初めて見たのは40年ほど前、その頃の西行桜は
人の背丈とあまり変わりなかったという記憶があります。
そういうことを考え合わせると、現在の西行桜は呼称を受け継いだ
5代目か6代目の西行桜なのでしょう。いずれにしても今となっては
何代目であるのか確かなことの検証は不可能でしょう。
【静忍法師】
生没年だけでなく確かなことは一切不詳です。
忍西入道(岩波60.61ページ、新潮1159.1160番。西行上人集では
「西忍入道」)。
浄蓮(岩波187ページ、折につけて歌。西行上人集では「西蓮」)と
同一人物の可能性が強くあります。経歴も含めて一切不明です。
いずれにしても西行が嵯峨野に庵を構えていた時に懇意にしていた
法師でしょう。
歌からは西行と静忍法師との、なごやかな関係性がしのばれます。
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嵯峨にまかりたりけるに、雪ふかかりけるを見おきて
出でしことなど申し遣わすとて
01 おぼつかな春の日数のふるままに嵯峨野の雪は消えやしぬらむ
(西行歌)(岩波文庫山家集15P春歌・新潮1066番)
02 立ち帰り君やとひくと待つほどにまだ消えやらず野邊のあわ雪
(靜忍法師歌)(岩波文庫山家集16P春歌・新潮1067番)
○嵯峨
京都市右京区にある地名。二尊院には「西行庵跡」の碑が
あります。
○おぼつかな
「覚束無し」のこと。
対象がぼんやりしていて、はっきりと知覚できない状態。また、
そういう状態に対して抱くおぼろな不安、不満などの感情のこと。
心もとなさを覚える感情のこと。
「おぼつかな」は西行の愛用句とも言えます。
○しぬらむ
「しぬらむ」は初句の「おぼつかな」に照応していて、どうかなー、
わからないなー、という、明確に事物の様子がわからない事を
表しています
○君やとひくと
ちょっと判然としない表現です。「君が訪ひ来ると」の略語です。
(01番歌の解釈)
「どうなりましたか。春になってもう何日も経ちますから、
今年は深くなりそうだった嵯峨野の雪ももう消えてしまった
のではないですか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「嵯峨野を出てすぐにお帰りになるものと、あなたの来訪をずっと
待っておりましたから、野原に降った淡雪もまだ消え残っています。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【菖蒲】
(あやめ=菖蒲)。アヤメ科の多年草。山野に自生。観賞用にも
栽培される。高さは約50センチ。葉は細長く直立。初夏に紫色の
花が茎頂に咲く。白色や紅紫色の栽培種もある。
ハナアヤメ。菖蒲の古名。
サトイモ科の多年草。高さ約80センチで水辺に群生。葉は長い
剣状。花茎の中ほどに淡黄色の肉穂花序をつける。全草に芳香が
あり、根茎は薬用に、葉は端午の節句の菖蒲湯に使う。観賞用の
ハナショウブとは別種。ノキアヤメ。アヤメグサ。フキグサ。
ハナショウブの俗称があります。
(以上は講談社刊の日本語大辞典を参考)
端午の節句の菖蒲湯で親しまれている。ヨモギと一緒に束ねて浴槽
に浮かべると健康に良い。また五月四日の夜、軒の上に菖蒲を葺いて
ヨモギを添え、無病息災を祈願する。これが「菖蒲葺く」である。
ハナショウブとは形も名前も似ているため、しばしば混同される。
しかしショウブの葉や地下茎には芳香があるし、花の形は全く異なる。
ショウブの花序はミズバショウを小さくしたような形・・・以下略。
(朝日新聞社刊「草木花歳時記・夏」から抜粋)
山家集にある(あやめ草)は菖蒲のことです。(菖蒲)も(アヤメ)
なのですが、ただしアヤメ科のアヤメではありません。
「日本語大辞典」によると、サトイモ科の菖蒲の場合もあるはず
と思います。古称、俗称、自生種、園芸種入り乱れていて、私も
混乱する時があります。要するにアヤメ科の花の付いている植物は
菖蒲ではないのですが、俗称として「アヤメ」と言い、菖蒲鬘、
菖蒲の節句、菖蒲湯、菖蒲葺きの言葉などはすべて「あやめ」とも
読めます。
【さうぶ】
古い表記で、菖蒲のこと。02番歌は「菖蒲」と「勝負」をかけて
います。
【菖蒲かぶり】
習俗の端午の節句を表しています。端午の節句に男の子ども達が
菖蒲で兜などの形に織ったものを被っていたということです。
◎あやめ草・花あやめ・あやめ・菖蒲は24号にも触れています。
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01 いたきかな菖蒲かぶりの茅巻馬はうなゐわらはのしわざと覚えて
(岩波文庫山家集248P聞書集172番)
02 今日の駒はみつのさうぶをおひてこそかたきをらちにかけて通らめ
(岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1527番)
五日、さうぶを人の遣したりける返事に
03 世のうきにひかるる人はあやめ草心のねなき心地こそすれ
(岩波文庫山家集47P夏歌・新潮721番)
高野に中院と申す所に、菖蒲ふきたる坊の侍りけるに、
櫻のちりけるが珍しくおぼえてよみける
04 櫻ちるやどにかさなるあやめをば花あやめとやいふべかるらむ
(岩波文庫山家集48P夏歌・新潮202番・夫木抄)
五月五日、山寺へ人の今日いるものなればとて、
さうぶを遣したりける返事に
05 西にのみ心ぞかかるあやめ草この世はかりの宿と思へば
(岩波文庫山家集48P夏歌・新潮205番)
さることありて人の申し遣しける返ごとに、五日
06 折におひて人に我身やひかれましつくまの沼の菖蒲なりせば
(岩波文庫山家集47P夏歌・新潮204番・夫木抄)
五月会に熊野へまゐりて下向しけるに、日高に、宿にかつみを
菖蒲にふきたりけるを見て
07 かつみふく熊野まうでのとまりをばこもくろめとやいふべかるらむ
(岩波文庫山家集48P夏歌・新潮欠番・西行上人集)
08 ちる花を今日の菖蒲のねにかけてくすだまともやいふべかるらむ
(稚児詠歌 岩波文庫山家集48P夏歌・新潮203番)
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○いたきかな
ここでは感嘆のことば。すばらしいなーというほどの意味。
○茅卷馬
端午の節句の男児の玩具の一つです。茅や菰を利用して馬の形に
かたどって作ったものです。
○うなゐわらは
(うなゐ)は子供の髪型のこと。髪をうなじで束ねた髪型。または
うなじの辺りで切り下げておく髪型。(うなゐ)は(うなじ)に
通じるものでしょう。
(わらは)は童のことであり(うなゐわらは)は、うない髪にした
幼い子供という意味です。
○駒
馬の別称。
○みつのさうぶ
美豆の菖蒲。美豆は男山の少し北に位置する地名。淀競馬場の南に
広がる地名です。
男山にある岩清水八幡宮の五月節句の日の行事に競馬があって、
片方の馬は背に美豆産の菖蒲を付けているということ。菖蒲は
勝負に掛けています。
○かたきをらちにかけて
(かたき)は勝負の相手方のこと。(らち)は競馬用の馬場の
柵のことです。相手を柵のあたりに押し付けるようにして・・・
立ち往生させるようにして・・・一方的にということを意味
しています。
○心のねなき
「心のね」とは、人間として備わっているべき基本的な性情の
こと。それが欠如しているということでしょう。
ここでは、仏教を信じる心がしっかりと根付いていないことを
批判的に詠っていると解釈するべきだと思います。
誰かは分からない人が西行に菖蒲を贈った時のお礼としての歌
です。当時は菖蒲を贈ったり贈られたりするという習慣があった
ものと思えます。
○高野に中院
現在の高野山竜光院が平安時代は「中院」と呼ばれていたそうです。
○花あやめ
邪気を払う効用があるという菖蒲を屋根に葺いた坊が高野山に
あって、屋根の上に桜の花が散り敷く光景を詠った歌です。
したがってこの歌にある「花あやめ」はハナアヤメという植物とは
違います。花は桜であり、しゃれで「花あやめ」という言葉を
使った歌です。
○五月五日
菖蒲の節句の日のことです。邪気を払うという菖蒲を軒先に吊る
したり、菖蒲の葉を入れた湯に浸かるという風習があります。
あやめの節句、端午の節句とも言います。
○つくまの沼
近江の国の歌枕。米原市の琵琶湖湖岸にあり筑摩江は湖岸の入り江
を言います。昔は菖蒲の名所だったようです。
すぐそばに古刹の「筑摩神社」があります。鍋を被るという奇祭で
知られています。
○日高
紀の国にある地名で日高郡日高町。熊野詣での紀伊路ルートにあり
ます。紀伊水道に面している町です。
○かつみ
(まこも=真菰)の別称とみられています。
○熊野まうでのとまり
熊野詣でをした折に宿泊する宿のこと。
○こもくろめ
不明。菰にくるまっているような感覚をいうか?
○くすだま
五月の節句の日に用いる作り物のこと。邪気を払うために香料や
薬草を丸くして菖蒲などで飾り付けたものが「薬玉」。それを柱
などに掛けておくという風習がありました。
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(01番歌の解釈)
「すばらしいなあ。菖蒲をかぶせた茅巻馬は。うない髪の子供の
したことと思われて。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「今日五月五日の岩清水の競馬に出場する馬は、美豆野の菖蒲を
背に負っているので、相手の馬を馬場の柵に立ち往生させる
くらい颯爽と駆け抜けて、勝利した。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「菖蒲の節句の今日、泥の中から菖蒲を根のままひくごとく、憂き
世の俗事に心のひかれる人は、逆に根のない菖蒲のように心も
根のない心地がすることですよ(そのようになりたくないものです。)
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(04番歌の解釈)
「桜の花の散っている坊を飾っている菖蒲を、それこそ
花菖蒲というべきだろう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(05番歌の解釈)
「心の方は西方浄土ばかりが気にかかって、軒に掛ける菖蒲
なんて忘れていたよ。菖蒲を刈ったの葺いたのといっても、所詮は
仮の宿、現世は虚仮である、と観念して修行する身ですから。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06番歌の解釈)
「よい機会に巡り合って人に私は引き立てられるのでしょう。
もし私が筑摩の沼の菖蒲であったなら。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(07番歌の解釈)
「かつみを屋根に葺く、熊野詣での人々のための泊り宿を、
こもくろめというべきだろうよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(08番歌の解釈)
「散る桜の花を端午の節句の今日、菖蒲の根にかけて、
これを薬玉ともいうべきであろうか。)
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【書写】
播磨の国にある書写山円教寺のこと。書写山は現在の姫路市北方に
位置します。
966年、性空上人創建のこのお寺は天台宗寺院で、西の比叡山とも
称されています。山内の広い寺域に多くの堂宇が建立されていて、
その点でも比叡山と酷似しています。
姫路駅から書写山ロープウェイ乗り場までバスで25分ほどかかります。
ロープウェイは山麓駅から山上駅を4分ほどで結んでいます。
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播磨書写へまゐるとて、野中の清水を見けること、
一むかしになりにける、年へて後修行すとて
通りけるに、同じさまにてかはらざりければ
01 昔見し野中の清水かはらねば我が影をもや思ひ出づらむ
(岩波文庫山家集109P羈旅歌・新潮1096番・
西行上人集・山家心中集・続後撰集・夫木抄)
○播磨
旧国名の播磨の国のこと。摂津の国の西になります。
現在の兵庫県南西部に相当します。国府は姫路市にありました。
○野中の清水
普通名詞としても理解できます。
歌枕としては播磨国印南野(いなみの)「現在の神戸市西区岩岡町
野中」にあった清水を指していると見られています。
◎ 印南野や野中の清水むすぶ手の たまゆら涼し篠の上露
(最勝四天王院障子歌)
◎ 古の野中の清水ぬるけれど もとの心を知る人ぞ汲む
(詠み人しらず 古今集887番)
○一むかし
「一むかし」の厳密な年数は不明です。ですから、以前にはいつ頃
書写山に行ったのか不明です。
以前は書写山を目的として行ったのですが、この歌にある時は、
書写山に行くのが目的ではなくて、西国への通りすがりに「野中の
清水」を見たということです。
○我が影
昔に野中の清水に映った自分の容貌のこと。若かった頃を思い出すと
いうことです。時間の隔たりを意味します。
(01番歌の解釈)
「野中の清水は昔見たまま少しも変っていないので、汲むときに
映ったまだ若かった頃の私の姿を思い出してくれるだろうか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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