しあ〜しか | しき〜しで | しな〜しほ | しま〜しも | しゃ | しゃ〜しゅ | しょ | しら〜しを | しん |
項目 白川・白川の里・白河天皇・白川の関・白川の関と境の明神
しら山・しららの浜・紫蘭・白妙・白峰・しるべ・しをり
【白川】
白川は京都市左京区を流れる小さな川です。比叡山と如意が嶽の間、
滋賀県の山中村を源流としています。北白川天神宮の前を過ぎて白川
通今出川、真如堂の東を南流し、南禅寺の西で琵琶湖疎水と合流して
います。琵琶湖疏水は1890年に完成したものですから、平安時代は
当然に琵琶湖疏水と合流していません。
かつての白川は、これから、三条通りの北を西に流れて鴨川と合流
していたそうですが、現在はこの部分の白川本流はありません。
江戸時代初期にはなくなっています。
変わりに、平安神宮の鳥居の前を過ぎて勧業会館の西端から夷川
発電所にと向かっています。平安神宮前で分岐して、祗園を流れる
川も現在は白川といいますが、これはかつての白川の支流の小川です。
従って、西行の歌にある白川が川を指す場合は、現在の平安神宮
あたりから以北を流れる白川しか残っていないということになります。
【白川の里】
土地名としては鴨川の東の現在の九条以北を白川と呼び、北白川・
南白川・下白川の呼び名があったそうです。
ただし狭義の地名としては滋賀県と通じる山中越えの周辺一帯を、
「白川村」と言っていました。
【白河天皇】
第72代天皇。父は後三条天皇、母は藤原茂子。1053年生、1129年没。
在位は1072年から1086年まで。以後、堀川・鳥羽・崇徳天皇の三代に
渡って43年間の院政を行いました。鳥羽天皇の時代には藤原摂関家の
勢力の衰退を受け、次第に専制的な政治的基盤を確立していきます。
鳥羽殿や白川殿、そして左京区岡崎の法勝寺をはじめ、たくさんの
寺社を創建しています。
院の北面の武士の制度を創設したのも白河上皇です。
鳥羽天皇の中宮であり、崇徳天皇の生母でもある待賢門院璋子を
寵愛していて、崇徳天皇の実父は白河天皇だとする説もあります。
「後拾遺和歌集」と「金葉和歌集」の撰集編纂を命じています。
御陵は鳥羽の成菩提院陵です。
◎「川」と「河」の文字について
正しくは、京都の川名は「白川」。天皇名は「白河天皇」。白河の
関は「白河」です。
岩波文庫版でも新潮版でも山家集では必ずしも正しい漢字を使った
表記がされてはいません。正しい漢字に統一されていないのです。
このことはこれまで伝えられた山家集を書写した人のミスであるとか、
あるいは西行自身のミスであるなどとは思えません。
古い書物を見ると川と河の混同はたくさんあります。
川名「白河」、天皇名「白川」、関名「白川」は慣用的に使われて
きたはずですし、厳密には間違いなのだろうけどミスというほどの
ものではないと私は解釈しています。
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01 白河の梢を見てぞなぐさむる吉野の山にかよふ心を
(岩波文庫山家集30P春歌・新潮69番・
西行上人集・山家心中集)
02 白河の春の梢のうぐひすは花の言葉を聞くここちする
(岩波文庫山家集31P春歌・新潮70番・夫木抄)
03 波もなく風ををさめし白川の君のをりもや花は散りけむ
(岩波文庫山家集36P春歌・新潮107番・
西行上人集・山家心中集)
04 風あらみこずゑの花のながれきて庭に波立つしら川の里
(岩波文庫山家集27P春歌・新潮136番・
西行上人集・山家心中集)
白河の花、庭面白かりけるを見て
05 あだにちる梢の花をながむれば庭には消えぬ雪ぞつもれる
(岩波文庫山家集27P春歌・新潮137番・山家心中集)
世をのがれて東山に侍る頃、白川の花ざかりに人さそひ
ければ、まかり帰りけるに、昔おもひ出でて
06 ちるを見て帰る心や櫻花むかしにかはるしるしなるらむ
(岩波文庫山家集28P春歌・新潮104番・
西行上人集・山家心中集・千載集・月詣集)
八條院の宮と申しけるをり、白川殿にて虫あはせられ
けるに、かはりて、虫入れてとり出だしける物に、水に
月のうつりたるよしをつくりて、その心をよみける
07 行末の名にや流れむ常よりも月すみわたる白川の水
(岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1188番)
◎ 07番歌は先号181号の「(日+章)子内親王」の項で詳述して
います。ご参照願います。
○君のをりもや
君の折には。君の時には。白河天皇の治世を指しています。
○庭に波立つ
庭に散り敷き積もった桜の花弁が、風に吹かれてあたかも白い波を
立てているように見えるということ。
○消えぬ雪
桜の花弁が散ることを雪と対比して「消える」として捉え、花弁が
庭に降り積もり重なっている状態を雪にたとえて「消えぬ」と
表現しています。
(01番歌の解釈)
「京の白川の桜の梢を見て、吉野山の桜を思う
自分の心を慰めることだ。」
(新潮日本古典集成山家集より抜粋)
(02番歌の解釈)
「白河の、春美しく咲いた桜の梢に鳴く鶯の音は、あたかも桜が
語りかける言葉を聞くような心地がすることだ。」
(新潮日本古典集成山家集より抜粋)
(03番歌の解釈)
「四海波静かに、風枝を鳴らさぬ泰平の天下を誇った白河院の
治世にも、やはり花は散ったのであろうか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
「波もなく・・・」の歌は白河天皇が、ある年の催事の時に雨が
降ったので、雨滴を器に入れて獄に閉じ込めた、という故事談を
踏まえた歌とのことです。
そういうことも考え合わせ、直前の歌に「勅とかや下す帝」があり、
かつ「白川」が「白河」に掛かった言葉であることも思い合わせ
ると「君」とは白河天皇であることが分かります。
この一首のみを取り上げて味わう場合、そういう背景となる知識が
ないと、この歌を理解できにくいものです。
こういう詠い方は、私はちょっと感心しません。歌の背景を知ら
なくても、スムーズに味わえる歌の方が良いと思います。
(04番歌の解釈)
「風が強いので、吹き散らされた梢の花が庭に流れて来て、散り
敷いた花片が白波のたつように見える白川の里である」
(新潮日本古典集成山家集より抜粋)
(05番歌の解釈)
「はかなく散って行く梢の花の行方をじっと見ていると、庭には
いつしか雪が積もっている。この雪ははかなく消えたりはしない。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06番歌の解釈)
「散るのを見届けたらやっと落ち着いて、帰路に就く気になったが、
桜花よ、思えば出家する前とはここが違うんだね。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(07番歌の解釈)
「この虫合の名声は将来まで語り伝えられるでしょう。今日は格別に
白河の水も澄み、ずっと映っている月も美しく澄んでいますから。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【白河の関】
現在の福島県白河市に設置されていた関所です。勿来(なこそ)の関、
念珠(ねず)の関と合わせて、奥羽三関のひとつです。古代に蝦夷
対策のために設置されたものです。
白河の関はいつごろに置かれて関として軍事的に機能していたのか、
明確な記録がなくて不明のままです。
「白河の関は中央政府の蝦夷に対する前進基地として勿来関(菊多関)
とともに4〜5世紀頃に設置されたものである。」
(福島県の歴史散歩から抜粋)
ところが文献にある白河の関の初出は799年の桓武天皇の時代という
ことです。それ以前の奈良時代の728年には「白河軍団を置く」と
年表に見えますので、関自体も早くからあったものと思われます。
この関はどこにあるかよく分かりませんでしたが、白河藩主松平定信
(1758〜1829)が1800年に古代白河の関跡と同定して「古関蹟」という
碑を建てました。1959年からの発掘調査によってさまざまな遺物が
発見され、「白河の関」として実証されています。
この関の前を東西に通る県道76号線が古代の東山道に比定されますから、
能因や西行もこの道をたどったものと断定して良いものと思います。
現在は関の森公園として整備されています。隣接して古刹の『白河神社』
があります。私が08年4月14日に行ったときはカタクリの花が群生して
いました。
◎ 白川の関路のあとを尋ぬれば今も昔の秋風ぞ吹く
(松平定信詠 歴史春秋社刊「歴史文学紀行」から抜粋)
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みちのくにへ修行してまかりけるに、白川の関にとまりて、
所がらにや常よりも月おもしろくあはれにて、能因が、秋風
ぞ吹くと申しけむ折、いつなりけむと思ひ出でられて、名残
おほくおぼえければ、関屋の柱に書き付けける
01 白川の関屋を月のもる影は人のこころをとむるなりけり
(岩波文庫山家集129P羈旅歌・新潮1126番・西行上人集・
山家心中集・新拾遺集・後葉集・西行物語)
さきにいりて、しのぶと申すわたり、あらぬ世のことに
おぼえてあはれなり。都出でし日数思ひつづくれば、
霞とともにと侍ることのあとたどるまで来にける、
心ひとつに思ひ知られてよみける
02 都出でてあふ坂越えし折までは心かすめし白川の関
(岩波文庫山家集130P羈旅歌・新潮1127番)
03 白河の関路の櫻さきにけりあづまより来る人のまれなる
(岩波文庫山家集272P補遺・西行上人集)
04 思はずば信夫のおくへこましやはこえがたかりし白河の関
(岩波文庫山家集244P聞書集139番・夫木抄)
○みちのくに
「道の奥の国」という意味で陸奥の国のことです。陸奥(むつ)は
当初は(道奥=みちのく)と読まれていました。
927年完成の延喜式では陸奥路が岩手県紫波郡矢巾町まで、出羽路
が秋田県秋田市まで伸びていますが、初期東山道の終点は白河の関
でした。白河の関までが道(東山道の)で、「道奥」は白河の関
よりも奥という意味です。
大化の改新の翌年に陸奥の国ができました。
陸奥は現在の福島県から北を指しますが、その後、出羽の国と分割。
一時は「岩城の国」「岩背の国」にも分割されていましたが、
西行の時代は福島以北は陸奥の国と出羽の国でした。
陸奥の国は現在で言う福島県、宮城県、岩手県、青森県を指して
います。
出羽の国は山形県と秋田県を指します。
○能因
中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(たちばなのながやす)。
若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽(伊丹市)や古曾部
(高槻市)に住んだと伝えられます。古曾部入道とも自称して
いたようです。
「数奇」を目指して諸国を行脚する漂白の歌人として、西行にも
多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」歌学書に「能因歌枕」があります。
「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。
○霞とともにと侍る
能因法師の歌にある句です。
みやこをばかすみとともにたちしかど秋風ぞふくしらかはのせき
(後拾遺和歌集518番 能因法師)
かすみとは春霞のことです。「秋風ぞふく」という語句によって、
春から秋という半年間という長い時間を要して白河の関まで行った
ということです。こんなに時間をかけていることから、本当に陸奥
まで行ったのか当初から疑われていたようです。
くしくも西行も初度の旅ではあちこちに逗留して、半年間ほどを
要して陸奥にまで行きました。
○さきにいりて
新潮版では「関に入りて」となっています。直前の1126番歌に白河の
関の歌がありますから、白河の関を越えて進んで行くと、という
意味になります。
○わたり
信夫という土地、場所を言います。
○あらぬ世のことに
ここでは想像するしかなかった別世界を意味します。
能因法師の歌やその他の陸奥の歌で知っていただけの光景が
現実の物として眼前に立ち現れていることを指します。
○しのぶ
西行時代の信夫は、現在の福島県福島市にあたります。
陸奥の国の歌枕です。
古今集の河原左大臣源融の歌や伊勢物語によって信夫摺りが有名に
なりました。
「信夫」については167号も参照願います。
みちのくのしのぶもぢずり たれゆゑに乱れんと思ふ我ならなくに
(かはらの左大臣 古今集724番)
春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれかぎり知られず
(在原業平 伊勢物語・新古今集994番)
○心ひとつに
能因の歌にある世界と共通した感慨を持ったということを
表しています。
○あふ坂
「あふ坂」は「逢坂山」のこと。
逢坂山は近江と山城の国境の山であり、関の設置は大化の改新の
翌年の646年。改新の詔りによって、関所が置かれました。平安
遷都の翌年の795年に廃止。857年に再び設置。
795年の廃止は完全な廃止ではなかったらしく、以後も固関使
(こかんし)が派遣されて関を守っていたと記録にあります。
尚、古代三関として有名な鈴鹿の関、不破の関、愛発の関は
長岡京時代の789年に廃止されています。
(01番歌の解釈)
「奥州(東北地方)へ修行の旅をして行った時に、白河の関に
とどまったのであるが、白河の関は場所がらによるのであろうか
月はいつもよりも面白く、心に沁みるあわれなもので、能因が
「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の関」と歌を
詠んだ折は、いつごろであったのかと自然と思い出されて、名残
多く思われたので、関屋の柱に書きつけた、その歌」
「白河の関屋(関守のいる所)も荒れて、今は人でなく月がもる
(守ると洩るとをかける)のであるが、その月の光はそこを訪ね
る人を関守(月が)として人をとどめるように人の心に深い感動
をあたえて心をとめるのであったよ。(もる、とむる、関屋の縁語)
(渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)
(02番歌の解釈)
「都を出立して逢坂の関を越えた時までは、折々心をかすめた
程度だった白川の関のことを、その後はひたすら思い続け、今
こうして辿りついたよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「白河の関のあたりの桜が咲いたのだな。東国からやってくる
人がまれだ。」
「東国から都にやってくる人がまれなので、人々は白河の関の
桜に引き留められているのだろうと想像する。都人の心で詠う。」
(和歌文学大系21から抜粋)
安田章生氏は、その著「西行」の中でこの歌に触れています。
現地で詠んだ歌と解釈されています。
「みちのくから白河の関まで帰ってきた西行が、そこで東国から
やってきた人と出会っている趣が感じられ、この作が帰路の作で
あることを思わせる。(中略)
「遠い旅路で、桜の花盛りに出会った喜びとともに、その桜の花
の華やかなさびしさをとらえている。そうしたことを通して、
旅愁のようなものをにじませており、読後には、旅愁を噛みしめて
立っている旅姿の作者の像が浮きあがってくる。(中略)
かくて文治三年(1187)の夏の頃までに、西行は都へ帰ったので
あった。」
(安田章生氏「西行」229ページから抜粋)
(04番歌の解釈)
「修行を思い願わなかったならば信夫の奥へ来なかっただろう。
越えがたかった白河の関を越えて。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【白河の関と境の明神】
朝廷の東進政策、同化政策によって早くから住んでいた蝦夷と呼ば
れていた人々との対立が激化していきました。その過程で朝廷側
からすれば関は必要だったのですが、730年頃には多賀城が造られ、
800年代初めには胆沢城ができ、朝廷の直轄支配地は岩手県水沢市
付近にまで伸びていました。そうなると、白河の関は多賀城や胆沢城
に行くための単なる通過地点にしかすぎなくなります。前進基地と
しての軍事的な関の役割もなくなってしまって、いつごろか廃されて
関守りも不在となりました。
能因と西行では130年の隔たりがあります。西行の時代でも関の
建造物が残っていたということは奇跡的なことなのかも知れません。
あるいは能因の見た関の建物と、西行の見た関の建物は同一のもの
ではないのかも知れません。能因の時代以後に新たに関屋を建てる
可能性はほぼ考えられないので、同一のものであろうとは思います。
西行や能因の立ち寄った白河の関は白河市旗宿関の森にあります。
後年、戦国時代に旧陸羽街道(国道294号線)が白河の関の北側に設置
されました。この道は江戸時代の官道でもあり戊辰の役の戦地にも
なっています。
その街道では下野国と陸奥国の境に『境の明神(白河市白坂)』があり、
玉津島神社と住吉神社があります。それゆえに「二所の関明神」
「関の明神」などとも呼ばれます。
奥の細道の旅で芭蕉が始めにたどり着いたのはこの「堺の明神」です。
奥の細道では「関の明神」と書かれています。芭蕉はここから5キロ
メートルほど離れている旗宿の白河の関までたどっています。
何かしらの遺構なり伝承が残っていて、境の明神を白河の関と間違う
ことなく古代からの白河の関にまで行けたものだろうと思います。
【しら山】
普通名詞ではなく固有名詞で、越の国の歌枕である白山のことと
解釈して良いと思います。「白山」は能因歌枕は越前、五代集歌枕
は越中としています。普通は「ハクサン」と呼ばれます。
白山は石川県・岐阜県・福井県にまたがり、最高峰の標高2702
メートルの御前峰を中心とする付近の山々の総称です。
石川県石川郡鶴来町に鎮座する白山比刀iひめ)神社が全国白山
神社の総本山。白山の御前峰に白山比盗_社の奥宮社があります。
◎ しらやまやなほ雪ふかきこしぢにはかへる雁にや春をしるらん
(藤原俊成 長秋詠藻)
◎ 面影におもふもさびしうづもれぬほかだに月の雪の白山
(藤原定家 拾遺愚草)
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若心決定如教修行 不趣于坐三摩地現前
01 わけ入ればやがてさとりぞ現はるる月のかげしく雪のしら山
(岩波文庫山家集245P聞書集142番)
○不趣
仏典の「菩提心論」にある文言です。
岩波文庫版にある「趣」の文字は誤植です。また「聞書集」でも
「不越」となっていて、これも誤りのようです。
正しくは「不起」とのことです。
○三摩地
「さんまじ」と読み、「三昧」の別称とのこと。
三昧とは
【心を静めて一つの対象に集中して、心を散らさず乱さず動揺する
ことのない状態。あるいは、その状態に至る修練のこと。雑念を取り
去り没入することによって、対象が正しくとらえられるとする。】と、
仏教辞典にあります。
大乗経典では種々の名称を付けられた数多くの『三昧』が説かれて
いるとのことです。
○月のかげしく
月光があまねく照らしているという幻想的な光景を言います。
仏道修行が修行者本人にもたらす境地を言うものでしょう。
(01番歌の解釈)
「修行を志して山に分け入ると、そのまま悟りの世界が現れる、
月の光が敷きつめたように覆う雪の白山よ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
詞書は「煩悩が原因で修行を中断したり再開したりするのではなくて、
自分の心が決めたように覚悟して、動揺することなく一念のままに
必死な修行を怠らなければ、悟りの世界に到達できるだろう」という
意味かと思います。
◎ 合せて139号の「越の山・越の中山」も参照願います。
【しららの濱=白良浜】
紀伊の国の歌枕です。和歌山県西牟婁郡白浜町にある海岸です。
白い砂で知られています。
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01 はなれたるしららの濱の沖の石をくだかで洗ふ月の白浪
(岩波文庫山家集84P秋歌・新潮1476番)
02 なみよするしららの濱のからす貝ひろひやすくもおもほゆるかな
(岩波文庫山家集171P雑歌・新潮1196番・夫木抄)
(参考歌)(西行歌ではありません)
◎ 月かげのしららの濱のしろ貝は浪も一つに見えわたるかな
(岩波文庫山家集83P秋歌)
○くだかで洗ふ
月の光が照らしだす白良の浜の幻想的な光景を、海の白波に見立てて
います。実際の波ではないので「砕くことなく」と表現しています。
○からす貝
1 イシガイ科の淡水に住む二枚貝。殻長2センチ前後。
殻色はやや黒い。
2 海生の胎貝(イガイ)科の二枚貝。黒褐色で楔形をしている。
ここでは2番の海産のイガイで間違いないと思います。
○おもほゆるかな
「思う」の活用形に、受身・自発の助動詞「ゆ」が接合した言葉が
「おもほゆ」です。
「る」は動詞の未然形につく助動詞。
「かな」は係助詞「か」の文末用法に、詠嘆の終助詞「な」が
ついてできた言葉。
「おもほゆーるーかな」で、漠然として、思う、考える、願う、
望む、感じるなどのことごとを表します。
(岩波古語辞典、その他の辞書を参考)
(01番歌の解釈)
「白良の浜から遠く離れた沖の石を美しい月が照らし出す。沖の
石を白波が砕き、洗うかにも見えたが、実は月光があまりにも
白かったために沖まで白良の浜が続くかと見紛えていたのだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「波が打ち寄せる白良の浜にずらり並んだ烏貝を見つけた。白い
砂浜に黒い貝だからとっても拾いやすいと思った。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(参考歌について)
1040年の歌合で詠み人知らずとして採録されているそうですから、
確実に西行の歌ではありません。
【紫蘭】
五月ころに赤紫色、もしくは白色の花を付けるラン科の「紫蘭」では
ありません。紫蘭は漢名を紫恵(しけい)とか白及と言います。
この歌の詞書にある「紫蘭」は秋の七草の一つである「藤袴」のこと
です。藤袴は中国原産植物であり、中国名が「蘭草」です。
香草、香水草の別称もあります。蘭は香草の総称であったけど、中古
以後には蘭とはフジバカマを指すようになったとのことです。
ただし万葉集にもすでに「藤袴」がありますから、西行もそのことは
当然に知っていて、それでも「紫蘭」としたものだろうと思います。
西行に藤袴の歌が一首あります。
◎ 糸すすきぬはれて鹿の伏す野べにほころびやすき藤袴かな
(岩波文庫山家集60P秋歌・新潮266番・夫木抄)
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又一首のこころを
やう梅の春の匂ひはへんきちの功徳なり、紫蘭の秋の
色は普賢菩薩のしんさうなり
01 野邊の色も春の匂ひもおしなべて心そめたる悟りにぞなる
(岩波文庫山家集222P釈教歌・新潮1542番)
○やう梅
ヤマモモのことです。今の季節はサクランボより少し大きい程度の
食用になる赤い実が付いています。熟れると黒くなります。
仏典にはよく出てくる植物のようです。
○へんきちの功徳
「へんきち」とは普賢菩薩の漢訳で、遍吉菩薩のことです。
つまり普賢菩薩と遍吉菩薩は同義です。
功徳(くどく)とは神仏からもたらされる恵みのこと。人間が善行を
積み重ねることによって受けられる果報という意味です。
○普賢菩薩のしんさう
普賢菩薩は文殊菩薩とともに釈迦如来とは離れることはなく、釈迦
如来の脇侍菩薩として知られています。
普賢菩薩は仏の慈悲や徳を司り、かつ延命に関する菩薩であり、
法華経では白象に乗った姿として表されます。
文殊菩薩は知恵を司り、獅子に乗った姿で表されます。
「しんさう」は春の匂いも秋の色も普賢菩薩の実相であるという
意味です。
それらに深く感応するということは悟りの世界に通じるという論理
で、この歌は詠われています。
(01番歌の解釈)
「秋の野原に咲く藤袴や春に咲く楊梅が美しいと思う心があれば、
そのように悟りの妨げになりそうな愛執の心もすべてが悟りへの
機縁になる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【白妙=しろたえ】
原意は植物の繊維で織った白い布のことです。衣や波や雪や雲に
かかる枕詞です。
田子の浦にうち出でてみればしろたへの富士の高嶺に雪は降りつつ
(山部赤人 新古今集675番・百人一首4番)
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01 松の下は雪ふる折の色なれやみな白妙に見ゆる山路に
(岩波文庫山家集111P羈旅歌・新潮1360番)
02 白妙の衣かさぬる月影のさゆる眞袖にかかるしら露
(岩波文庫山家集149P恋歌・新潮630番)
○みな白妙に
松の木の下以外は雪のために真っ白になっているということ。
雪は積もってはいるけれども、風景の全てを覆い隠すほどの積雪量
ではないという状況を指しています。
○白妙の衣
白い衣のこと。ここでは月光を衣に見立てています。
波に見立てての歌が「しららの浜」の01番歌です。
○さゆる真袖
衣の両袖が冴え冴えとしていること。真袖は両袖のこと。
(01番歌の解釈)
「雪が降り積って一面真白に見える山路に、松の下だけはもとの
ままの状況で、雪が降る折の空模様と同じ色をしているなあ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「月が澄み切った光をおとし、まるで白妙の衣を重ねて共寝して
いるようだが、その両袖に白露のようなもの思う涙がかかり、
月の光が宿っている。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【白峰=しろみね・しらみね】
「しろみね」が正しい読みのはずですが辞書類では「しらみね」と
表記しています。あるいはどちらでも良いのかもしれません。
讃岐の国綾歌郡松山村白峯、行政区は現、坂出市青海町です。
白峯は高松市と坂出市にまたがる五色台の一部であり、四国霊場
第81番札所の「白峯寺」があります。
保元の乱で讃岐配流となった崇徳院は1164年に崩御してから白峯に
埋葬されました。現在、白峯寺には崇徳上皇御陵があります。
西行は1168年頃に賀茂社に詣でてから四国旅行に旅立ち、白峰御陵
に参拝しています。この時の歌が01番歌です。
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白峰と申す所に、御墓の侍りけるにまゐりて
01 よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせむ
(岩波文庫山家集111P羈旅歌・新潮1355番・
西行上人集・山家心中集・西行物語)
○よしや君
すでに崩御している院に対して「君」としていますが、この歌の
場合の「君」は、生前の院との関係を偲び儀礼を越えての、より
直情的な響きを伝えてきます。
「よしや」は「たとえ…」「仮に…」という意味を持ちます。
○玉の床
美しく飾られた天皇の寝所を言います。
天皇の地位や権威、生活の全般をさしていると解釈できます。
○かからむ後
現世での生が終わった後には……どうにもならないという悲嘆の言葉。
(01番歌の解釈)
「都の昔お住みになりました金殿玉楼とても、上皇様、あなた
様がお亡くなりになられました後は何になりましょうか。
何にもなりませぬ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【しるべ】
たどるべき道を指し示すもの。手引き、道案内のこと。
実際の道案内だけではなくて、人の穏やかな成仏を願い、死後に
たどると信じられていた山路を迷うことなく歩くための、臨終の
際の導師の役割も「しるべ」と言います。
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01 山人よ吉野の奧にしるべせよ花も尋ねむ又おもひあり
(岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1034番・西行上人集)
02 吉野山うれしかりけるしるべかなさらでは奧の花を見ましや
(岩波文庫山家集226P聞書集4番・夫木抄)
03 うぐひすの聲を山路のしるべにて花みてつたふ岩のかけ径
(岩波文庫山家集272P補遺・西行上人集)
申すべくもなきことなれども、いくさのをりのつづき
なればとて、かく申すほどに、兵衛の局、武者のをりふし
うせられにけり。契りたまひしことありしものをと
あはれにおぼえて
04 さきだたばしるべせよとぞ契りしにおくれて思ふあとのあはれさ
(岩波文庫山家集257P聞書集229番)
宮の法印高野にこもらせ給ひて、おぼろけにては出でじ
と思ふに、修行せまほしきよし、語らせ給ひけり。千日
果てて御嶽にまゐらせ給ひて、いひつかはしける
05 あくがれし心を道のしるべにて雲にともなふ身とぞ成りぬる
(岩波文庫山家集135P羈旅歌・新潮1084番)
小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。
おなじ院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、
分けおはしたりける、ありがたくなむ。帰るさに粉河へ
まゐられけるに、御山よりいであひたりけるを、しるべ
せよとありければ、ぐし申して粉河へまゐりたりける、
かかるついでは今はあるまじきことなり、吹上みんと
いふこと、具せられたりける人々申し出でて、吹上へ
おはしけり。道より大雨風吹きて、興なくなりにけり。
さりとてはとて、吹上に行きつきたりけれども、見所
なきやうにて、社にこしかきすゑて、思ふにも似ざり
けり。能因が苗代水にせきくだせとよみていひ伝へ
られたるものをと思ひて、社にかきつけける
06 あまくだる名を吹上の神ならば雲晴れのきて光あらはせ
(岩波文庫山家集136P羈旅歌・新潮748番)
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○又おもひあり
この一首だけでは「又おもひあり」の内容までは不明のままです。
桜の花を尋ねるのが目的だけど、それだけではなくて別に何かしら
の思いも心に秘めているということです。
○さらでは
「そうでなかったならば」という意味。
「良い道案内がなかったならば」となります。仏教修行のことが
暗喩として込められています。
○兵衛の局
生没年不詳、待賢門院兵衛、上西門院兵衛のこと。
藤原顕仲の娘で待賢門院堀川の妹。待賢門院の没後、娘の上西
門院の女房となりました。1184年頃に没したと見られています。
西行とはもっとも親しい女性歌人といえます。
自選家集があったとのことですが、現存していません。
○武者のをりふしうせられにけり
源平の争乱時を指し、そのころに兵衛の局は没したということです。
○契りたまひしこと
臨終に際して「しるべ」となることを、生前に兵衛の局と約束して
いたことを言います。それ以外にも兵衛の局が保管していた舎利の
問題もあったものでしょう。
○宮の法印
宮の法印とは元性法印のこと。崇徳天皇第二皇子のため、この
ように呼びます。
1151年から1184年の存命。母は源師経の娘。
初めは仁和寺で修行、1169年以降に高野山に入ったそうです。
岩波文庫山家集ではこの返歌の前にも宮の法印に贈った歌があり
ます。
○おぼろけにては出でじ
修行の成果が自分ではっきりと確認できる、自分で納得できる
までは大峯から下山しないということ。
○千日果てて御嶽にまゐらせ
金峯山参詣の時に行う精進潔斎を「御嶽精進」というそうです。
当時は普通で50日から100日間の精進期間だったようです。
宮の法印の場合は千日、約3年間の精進潔斎を果たしたという
ことになります。
天台宗の千日回峰行の荒行は有名ですし大峰にもすさまじい荒行の
千日回峰行があったとのことですが、宮の法印の場合はこの荒行
とは関係ないようです。
御嶽とは大峰修験道の聖地で、大峰山「山上ヶ岳」のことです。
金峯山とも言い、大峰山寺があります。
○小倉をすてて
京都市右京区嵯峨野にある小倉山のことです。山としての嵐山の
対岸に位置します。麓に二尊院、常寂光寺などがあります。
「小倉をすてて高野の麓」の天野に住んだ人は、待賢門院中納言の局
であることが少し前の歌からわかります。
○待賢門院の中納言の局
待賢門院の落飾(1142年)とともに出家、待賢門院崩御(1145年)
の翌年に門院の服喪を終えた中納言の局は小倉に隠棲したとみな
されています。
西行が初度の陸奥行脚を終えて高野山に住み始めた31歳か32歳頃
には、中納言の局も天野に移住していたということになります。
待賢門院没後5年ほどの年数が経っているのに、西行は待賢門院の
女房達とは変わらぬ親交があったという証明にもなるでしよう。
○天野と申す山
和歌山県伊都郡かつらぎ町にある地名。丹生都比売神社があります。
高野山の麓に位置し、高野山は女人禁制のため、天野別所に高野山
の僧のゆかりの女性が住んでいたといいます。丹生都比売神社に
隣り合って、西行墓、西行堂、西行妻女墓などがあるとのことです。
(和歌文学大系21を参考)
「新潮日本古典集成山家集」など、いくつかの資料は金剛寺の
ある河内長野市天野と混同しています。山家集にある「天野」は
河内ではなくて紀伊の国(和歌山県)の天野です。白州正子氏の
「西行」でも(町石道を往く)で、このことを指摘されています。
○帥の局
待賢門院に仕えていた帥(そち)の局のこと。生没年不詳。藤原
季兼の娘といわれます。帥の局は待賢門院の後に上西門院、次に
建春門院平滋子の女房となっています。
○粉川
地名。紀州の粉川(こかわ)のこと。紀ノ川沿いにあり、粉川寺
の門前町として発達しました。
粉川寺は770年創建という古刹。西国三十三所第三番札所です。
○御山
高野山のことです。この歌のころには西行はすでに高野山に生活
の場を移していたということになります。
○吹上
紀伊国の地名です。紀ノ川河口の港から雑賀崎にかけての浜を
「吹上の浜」として、たくさんの歌に詠みこまれた紀伊の歌枕
ですが、今では和歌山市の県庁前に「吹上」の地名を残すのみの
ようです。
○能因
中古三十六歌仙の一人です。生年は988年。没年不詳。俗名は
橘永やす(ながやす)。若くして(26歳頃か)出家し、摂津の昆陽
(伊丹市)や古曽部(高槻市)に住んだと伝えられます。古曽部
入道とも自称していたようです。
「数奇」を目指して諸国を行脚する漂白の歌人として、西行にも
多くの影響を与えました。
家集に「玄玄集」、歌学書に「能因歌枕」があります。
◎ 「永やす」の(やす)は文字化けするため使用できません。
○あまくだる名
天界から降臨した神ということ。
天の川苗代水に堰き下せ天降ります神ならば神
(能因法師 金葉集雑下)
能因法師が伊予の国でこの歌を詠んだところ、雨が降ったという
伝説を踏まえての歌です。
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(01番歌の解釈)
「山人よ、吉野山の奥の道案内をしておくれ。桜の花もたずねよう。
また世を遁れたい思いもあるのだ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「吉野山で嬉しかったのは道案内だなあ。それがなくては
奥の花を見られなかっただろう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)
「鶯の声を山路の道案内として、花を見ながら岩がちの桟道を
伝い歩きするよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(04番歌の解釈)
「先だって死んだならば、後生の導きをせよと約束なさったけれど、
私が死におくれて思う、残された後のあわれさよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(05番歌の解釈)
「金峯山への憧れを道しるべにして、大峯山中を雲とともに
さまよい歩く修行の日々を送っています。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06番歌の解釈)
「天くだってここに鎮まります神ではあっても、名を吹上の神と
申し上げるならば、雨雲を吹きはらい、日の光をあらわし給え。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
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07 なべてみな晴せぬ闇の悲しさを君しるべせよ光見ゆやと
(作者不詳歌)(岩波文庫山家集177P雑歌・新潮740番)
08 思ふともいかにしてかはしるべせむ教ふる道に入らばこそあらめ
(西行歌)(岩波文庫山家集177P雑歌・新潮741番)
09 いとどしくうきにつけても頼むかな契りし道のしるべたがふな
(讃岐の院の女房歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1138番・
西行上人集追而加書・玉葉集)
10 頼むらんしるべもいさやひとつ世の別にだにもまよふ心は
(西行歌)(岩波文庫山家集184P雑歌・新潮1140番・
西行上人集追而加書・玉葉集)
待賢門院の女房堀川の局のもとより、いひ送られける
11 此世にてかたらひおかむ郭公しでの山路のしるべともなれ
(堀河局歌)(岩波文庫山家集137P羈旅歌・新潮750番・
西行上人集・山家心中集、新後撰集・玉葉集・西行物語)
堀河局仁和寺に住み侍りけるに、まゐるべきよし申し
たりけれども、まぎるることありて程へにけり。月の
頃まへを過ぎけるを聞きて、いひ送られける
12 西へ行くしるべとたのむ月かげの空だのめこそかひなかりけれ
(堀河局歌)(岩波文庫山家集174P雑歌・新潮854番・
西行上人集追而加書・新古今集・西行物語)
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○教ふる道に
倒置法で表現していますが、難しい歌だと思います。
仏道に入っていない人たちには「しるべ」の方法がないという、
突き放した感覚があるものと思われます。
それはそのまま出家していない人たちを見下しているようにも思え
ますし、同時に出家者であることの優越感めいたものが西行本人に
あったようにも思えます。
○しるべたがふな
間違いなく、後生のしるべをして下さいという嘆願の言葉。
○ひとつ世の別(わかれ)
人間三世説にある前世、現世、来世ということ。ここでは現世と
いう(ひとつ世)の中での距離的及び心理的な隔たりを(別)と
言っています。
○待賢門院
1101年から1145年まで在世。
藤原実能の妹。白河天皇の猶子。鳥羽天皇中宮。崇徳天皇・後白河天皇・
上西門院などの母です。ほかには三親王、一内親王がありますので、
七人の母ということになります。
○堀川の局
村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘といわれています。
堀川は待賢門院璋子(鳥羽天皇皇后)に仕えました。それ以前に、
白河天皇の令子内親王に仕えて、前斎院六条と称していました。
西行とは特に親しかった兵衛の局は堀川の妹です。
○仁和寺
京都の双が丘の北に位置し、大内山の南麓にあります。阿弥陀三尊を
本尊とする真言宗御室派の総本山で、御室御所や仁和寺門跡とも
呼ばれます。
第58代光孝天皇の御願寺として886年に起工され、887年に完成
しました。始めての門跡寺院として知られています。
○まぎるる
しなくてはならない事があり、取り紛れて。
○西へ行く
死後、西方の浄土に行くということです。西行法師の名前に掛けた
言葉でもあります。堀川も兵衛も、死に行く時の導きを西行に頼んで
いました。
○空だのめ
空頼め=頼んでいたのに頼りにならないということ。空は(そら)と
(から)に掛けています。
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(07番歌の解釈)
「おしなべて誰も皆晴れることのない煩悩にとらわれている悲しさを、
悟人の光が見えるかと、どうかあなたよ、しるべをして下さい。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(08番歌の解釈)
「一切の迷いを離れ、悟りの境地にいる自分であればともかく、
あなた方の願いに応えてしるべしょうと思っても、どうして
できましょうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(09番歌の解釈)
「以前からあなたを頼りにしておりましたが、このような事態と
なって讃岐に下りましてからはいよいよあなたしかいません。
お約束下さったように間違いなく私を後世に導いてくださいませ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(10番歌の解釈)
「後世の道案内を私に、ということですが務まりますでしょうか。
後世どころか同じ現世にあってさえ、このように離れ離れで
お会いできないことに戸惑い気味の私です。」
(和歌文学大系21から抜粋)
この歌は、保元の乱で敗れて讃岐に配流された崇徳上皇の女房との
贈答歌の中の一首です。体裁としては女房との贈答歌となっていま
すが、歌の内容をみれば崇徳院その人との贈答歌であることがわか
ります。
(11番歌の解釈)
「この世に生きている間にお願いしておきましょう。時鳥よ。
私が死んだら西方浄土にどうか私を導いて下さい。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(12番歌の解釈)
「せっかく私の死後の案内役として頼みとしていましたのに、月も
隠れてしまったような気のする空のように、私の頼みも空約束の
甲斐なき頼みだったのでしょうか・・・」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
【しをり】
「枝折り」のこと。主に目印のために枝を折ることです。
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01 吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ
(岩波文庫山家集33P春歌、258P聞書集240番・御裳濯河歌合・
新古今集・玄玉集・御裳濯集・西行物語)
02 降る雪にしをりし柴も埋もれて思はぬ山に冬ごもりする
(岩波文庫山家集97P冬歌・新潮530番)
思はずなること思ひ立つよしきこえける人のもとへ、
高野より云ひつかはしける
03 しをりせで猶山深く分け入らむうきこと聞かぬ所ありやと
(岩波文庫山家集140P羈旅歌・新潮1121番・
西行上人集・御裳濯河歌合・新古今集・西行物語)
○吉野山
奈良県吉野郡吉野町にある山。青根山を主峰としますが、大峯を
含む広域をいう場合もあります。雪と桜の名所です。
奥の千本には西行庵もあります。
○こぞのしをり
(こぞ)は(去年)のこと。(しをり)は(枝折)で、枝を折ること。
折って目印とするもの。
○思はぬ山
思いがけずも山に閉じ込められたということ。
冬籠りするのであれば、雪や寒さに対処できるだけの設備のある庵が
あったということなのかもしれません。山はどこなのか分かりません。
○思はずなること思ひ立つよし
何が起きたのか内容については一切不明です。個人的なことか、
社会的なことか政治的なことかわかりませんが、重大な出来事が
起きて、そのことを知らされたということです。
(01番歌の解釈)
「吉野山の去年つけておいた枝折の道を変えて、まだ見て
いない方角の花を尋ねよう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「降る雪のため、折って道るべとしていた小枝も埋もれてしまい、
思いもよらず山に冬ごもりしてしまった。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「帰り道のために枝を折って道しるべとするようなことはすまい。
憂いことを聞かないですむ所はないかと、なお山深く分け入ろう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
◎ 以下の歌は名詞ではないため除外して、歌の紹介のみにします。
山里は雪ふかかりしをりよりはしげるむぐらぞ道はとめける
(岩波文庫山家集236P聞書集71番)
◎ 01番歌は140号「こぞのしをり」の項でも記述しています。
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