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項目 【寂然(じゃくぜん・じゃくねん)・寂超長門入道・隆信 ・寂念(為業)
寂蓮・重業障・俊恵
【寂然=じゃくぜん・じゃくねん】
264ページ「寂為」→「寂然」の記述ミスと思われます。
264ページ「寂昭」→「寂超」の記述ミスと思われます。
264ページ「静空」→「想空」の別号か記述ミスと思われます。
俗名は「藤原頼業」。藤原為忠の子です。生没年は未詳。
左近将監、壱岐の守などを経て1155年頃までには出家。
西行とほぼ同年代だと思われます。1182年頃に没したとみられます。
1172年「広田社歌合」、1175年「右大臣家(兼実)歌合」、1178年
「別雷社歌合」に出席していますので、歌人としての活動は終生
続けていたのかもしれません。
西行とは最も親しい歌人と言えます。贈答の歌がたくさんあります。
兄の寂念(為業)・寂超(為経)とともに「大原三寂」や「常盤三寂」
と呼ばれます。出家順は寂超、寂然、寂念の順です。
1156年7月、保元の乱が起こり崇徳院は讃岐に配流になりました。
讃岐の崇徳院は1164年8月崩御。崇徳院がまだ在世中に寂然は讃岐の
崇徳院を訪れています。
家集に「寂然法師集」「唯心房集」「法文百首」があります。
岩波文庫山家集にある寂然歌は23首です。他に連歌があります。
このうち贈答歌は西行23首、寂然22首です。
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五條三位入道、そのかみ大宮の家にすまれけるをり、
寂然・西住なんどまかりあひて、後世のものがたり申し
けるついでに、向花念浄土と申すことを詠みけるに
01 心をぞやがてはちすにさかせつるいまみる花の散るにたぐへて
(岩波文庫山家集259P聞書集244番)
かくてものがたり申しつつ連歌しけるに、扇にさくらを
おきてさしやりたるを見て 家主 顕廣
02-1 あづさ弓はるのまとゐに花ぞみる
(前句、顕廣)(岩波文庫山家集259P聞書集245番)
とりわきつくべきよしありければ
02-2 やさしことになほひかれつつ
(付句、西行)(岩波文庫山家集259P聞書集246番)
○五條三位入道
藤原俊成のこと。1176年に出家して釈阿と号します。
五条は五条東京極に住んでいたため、三位は最終の官位を
指しています。
○大宮の家
藤原俊成が葉室顕廣と名乗っていた時代に住んでいた家のことです。
俊成は1167年12月に葉室顕廣から藤原俊成にと改名しています。
大宮の家は俊成の家ではなくて葉室家の邸宅のあった場所ではない
かとも思えます。歌も1167年12月以前のものと考えられます。
俊成の家としては「五条京極第」が知られています。五条とは現在
の松原通りのこと。京極とは東京極で今の寺町通りのことです。
だから五条京極第は寺町松原あたりにあったとみるのが妥当です。
大宮とは離れています。
現在、烏丸松原下る東側に「俊成社」という小さな祠があります。
このあたりが三位入道時代の俊成の住居があった所です。
○西住
俗名は源季政。生没年未詳です。醍醐寺理性院に属していた僧です。
西行とは出家前から親しい交流があり、出家してからもしばしば
一緒に各地に赴いています。西行よりは少し年上のようですが、
何歳年上なのかはわかりません。
没年は1175年までにはとみられています。
千載集歌人で4首が撰入しています。
「同行に侍りける上人」とは、すべて西住上人を指しています。
没後、西住法師は伝説化されて晩年に石川県山中温泉に住んだとも
言われています。現在、加賀市山中温泉西住町があります。
○後世のものがたり
死後のことを話し合ったということ。極楽浄土の話題のこと。
「ものがたり」は話し合うこと。雑談です。
○はちすにさかせつる
浄土の蓮華のように心の花を咲かせるということ。
○いまみる花の散る
無常感からの開放をいう。死を賛美しているようにも取れます。
○連歌
「詩歌の表現形態の一つです。古くは万葉集巻八の大伴家持と尼に
よる連歌が始原とみられています。平安時代の「俊頼髄脳」では
連歌論も書かれています。
以後の詩歌の歴史で5.7.5.7.7調の短歌が、どちらかというと停滞
気味であるのに対して、連歌は一般の民衆にも広まって、それが
賭け事の対象ともなり爆発的な隆盛をみます。
貴族、公家も連歌の会を催し、あらゆる物品のほかに金銭も賭け
られたということです。
「連歌師」という人たちまで出て、白川の法勝寺、東山の地主神社、
正法寺、清閑寺、洛西の西芳寺、天龍寺、法輪寺などでも盛んに
連歌の興行がされました。
(學藝書林刊「京都の歴史」を参考)
後にこの連歌の形式が変化して、芭蕉や蕪村の俳諧、そして正岡
子規によって名付けられた俳句にと引き継がれます。
連歌は数人で詠み合うのが普通ですが、一人での独吟、二人での
両吟、三人での三吟などもあります。
○顕廣
藤原俊成が1167年に改名するまでの名前。葉室顕頼の養子と
なって、葉室顕廣(広)と名乗っていました。
葉室家も藤原氏の一族です。
○あづさ弓
梓の木で作った弓のこと。カバノキ科の植物である梓は古来、
呪力のある植物として信じられていて、武具としてよりも神事
に主に用いられたようです。「梓の弓をはじきながら、死霊や
生霊を呼び出して行う口寄せ」のことを「梓」ともいい、それを
執り行う巫女を「梓巫女」という、と古語辞典にもあります。
古代の素朴な民族宗教と密接に関係していた弓です。
和歌においては枕詞的に用いられ、音、末、引く、張る、射る
などに掛けて詠まれています。
万葉集にも多くの「梓弓」の歌があります。
○はるのまとゐ
(円居・団居)。家の者が楽しく集まること。だんらん。
車座になること。(講談社「日本語大辞典」より抜粋)
春の日に友人たちが寄り集まって歓談する状況を指しています。
53ページ「水の音に・・・」歌にも(まとゐ)の言葉があり
ます。(まと)は的であり、弓の縁語です。
○とりわきつくべき
西行を名指しして、あとの句をつけるように・・・とのこと。
○やさしことに
底本では(やさし)と(ことに)の間に(き)が入っています。
岩波文庫版では(マヽ)と傍記されていて(やさししことに)と
読めます。
「やさしことに」は字足らずなのですが、梓弓の縁語仕立てに
するために意図的に(き)を傍記したものでしょう。
従ってここでは(矢差しことに・・・)を掛け合わせています。
(01番歌の解釈)
「私の心をそのまま浄土の蓮に咲かせたことだよ。今見る花が
散るのに連れ添い行かせて。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02-1番、顕廣前句の解釈)
こうして物語をしながら連歌を詠んでいる時に、扇の上に桜の
花弁をおいて、差し出したのを見て
「春の団らんに、弓張りの形の扇の的の上に、射られた矢ではなく、
花を見ることだ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02-2番、西行付句の解釈)
特に西行にあとの句をつけるように言われたので
「風雅なことには出家後もなを変わらずに引かれている。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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為忠がときはに為業侍りけるに、西住・寂為まかりて、
太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、
まかりたりけり。有明と申す題をよみけるに
03 こよひこそ心のくまは知られぬれ入らで明けぬる月をながめて
(岩波文庫山家集264P残集13番)
かくて静空・寂昭なんど侍りければ、もの語り申し
つつ連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、寂然
まできてせなかをあはせてゐて、連歌にしけり
04-1 思ふにもうしろあはせになりにけり
(前句、作者不明)(岩波文庫山家集265P残集14番)
この連歌こと人つくべからずと申しければ
04-2 うらがへりつる人の心は
(付句、西行)(岩波文庫山家集265P残集14番)
後の世のものがたり各々申しけるに、人並々にその
道には入りながら思ふやうならぬよし申して 静空
05-1 人まねの熊野まうでのわが身かな
(前句、静空)(岩波文庫山家集265P残集15番)
と申しけるに
05-2 そりといはるる名ばかりはして
(付句、西行)(岩波文庫山家集265P残集15番)
雨の降りければ、ひがさみのを着てまで来たりけるを、
高欄にかけたりけるを見て 西住
06-1 ひがさきるみのありさまぞ哀れなる
(前句、西住)(岩波文庫山家集265P残集16番)
むごに人つけざりければ興なく覚えて
06-2 雨しづくともなきぬばかりに
(付句、西行)(岩波文庫山家集265P残集16番)
さて明けにければ、各々山寺へ帰りけるに、後会いつと
知らずと申す題、寂然いだしてよみけるに
07 帰り行くもとどまる人も思ふらむ又逢ふことの定めなの世や
(寂然法師歌)(岩波文庫山家集265P残集16番)
○為忠
藤原為忠のこと。大原三寂の父です。1136年没。
○ときはに
地名。京都市右京区常盤のこと。常盤に藤原為忠の屋敷がありました。
○為業
藤原為業。大原三寂の一人で寂念のこと。
○太秦
太秦は現在の京都市右京区にある地名です。古代は秦氏の本拠地
でした。太秦には広隆寺などがあります。
広隆寺は前身を蜂岡寺といい、聖徳太子の命により秦河勝の創建
と言われます。同寺には国宝第一号指定の「弥勒菩薩像」があります。
「太秦に籠もりたりける」で、広隆寺に籠もっての歌会であると
解釈できます。
広隆寺に籠ることは「更級日記」などにも記述があります。
○有明
まだ明けきらぬ夜明けがたのこと。月がまだ空にありながら、
夜が明けてくる頃。月齢16日以後の夜明けを言います。
○心のくま
心の奥底に秘めている大切な思いのこと。
○静空
想空の誤記と思われます。
○寂昭
寂超の誤記と思われます。
○思ふにも
思い合っている男女の仲を指していると解釈できます。
○こと人つくべからず
「思ふにも…」の前句を詠んだ人が、付句には西行を指名して、
他の参加者は付けたらいけない、と指定したものでしょう。
○そり
僧侶のことです。(そうりょ)を縮めて使った言葉かもしれません。
熊野に関係する人たちが使った言葉らしく、あるいは侮蔑語の
可能性もあります。
○高欄
建物の回りや廊下に設えた手すり、欄干のこと。
○むご
(無期)と書き、ここでは「いつまでたっても」という意味です。
○みの
雨具の「蓑」と「身の」をかけています。
(03番歌の解釈)
「今宵こそ心に秘めていたことはわかったよ。西の空に入らない
うちに夜が明けてしまった有明の月をじっと見つめて。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(04-1番、作者不明の前句の解釈)
「思い合っている仲でも背中合わせになってしまったよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(04-2番、西行付句の解釈)
「君が心変わりしてしまったからね。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(05-1番、静空前句の解釈)
「人真似に熊野詣でをするわたしよ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(05-2番、西行付句の解釈)
「名ばかりは坊さんと言われて。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06-1番、西住前句の解釈)
「檜笠をかぶる身の有様はあわれだなあ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(06-2番、西行付句の解釈)
「涙を雨の雫のようにぼたぼた落として泣いてしまうほど。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(07番歌の解釈)
「帰ってゆく人も残り留まる人も思っているのであろう。一度別れ
たならば再び逢えるとも決まっていない、無常なこの世よ。」
(和歌文学大系21から抜粋)
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大原にをはりの尼上と申す智者のもとにまかりて、
両三日物語申して帰りけるに、寂然庭に立ちいでて、
名残多かる由申しければ、やすらはれて
08-1 帰る身にそはで心のとまるかな
(前句、西行)(岩波文庫山家集266P残集17番)
まことに今度の名残はさおぼゆと申して
08-2 おくる思ひにかふるなるべし
(付句、寂然)(岩波文庫山家集266P残集17番)
○をはりの尼
「尾張の尼は兵衛の局らとともに待賢門院に仕えていた女房で、
「金葉集」初出の歌人であるが、待賢門院の世を去った後、出家
して大原にこもっていたのである。」
(窪田章一郎氏著「西行の研究」より抜粋)
「待賢門院に仕えて琵琶の名手とうたわれ、後に大原来迎院の良忍
に帰依して遁世した高階為遠女の尼尾張・・・」
(目崎徳衛氏著「西行の思想史的研究」より抜粋)
目崎氏説と窪田氏説は待賢門院に仕えていたことは同じですが、
少しの異同があります。目崎氏説の良忍に帰依していたということ
が疑問です。
待賢門院出家が1142年、死亡が1145年。大原来迎院の良忍死亡が
1132年。良忍は待賢門院より13年も早く死亡していますので、
目崎氏説は間違いかもしれません。
いとか山くる人もなき夕暮に心ぼそくもよぶこ鳥かな
(金葉集 前斉院尾張)
○やすらはれて
ためらうこと、躊躇すること。「いさよう」という言葉とほぼ
同義です。
ほかに、休むこと、休憩すること、という意味もあります。
○さおぼゆ
そのように覚えて、そのように感じて、という意味。
○かふるなるべし
「思いが」代わるということ。
(詞書の解釈)
大原の里に尾張の尼という仏道の先達の知者がいる。その尼上の
所に寂然とともに訪ねていって足掛け三日ほど話し合いました。
いざ帰ることになると、寂然は庭に下り立ちて「名残が多い」と
いうので、私も尼上と別れて帰るのがためらわれました。
(08-1番、西行前句の解釈)
「いざ帰ろうとすると、心は帰る身に添わないで残りとどまろう
とするなあ。」
(08-2番、寂然付句の解釈)
「尼上の身は庵にあっても心は私たちと一緒に行こうとされて
いるのだろう。私たちは逆に身は帰るけれども心はこの庵に
留まろうとしていて、それは送る尼上の思いと引き替えになって
いるのだろう。」
(以上、阿部の解釈)
【寂超長門入道】
生没年未詳です。藤原為忠の三男とも言われ大原三寂「常盤三寂」
の一人です。西行ととても親しかった寂然(頼業)の兄です。
寂然や寂念よりも5年ほど長く、1187年までは在世しています。
俗称は為経(為隆とも)とも言われます。西行より3年遅れて
1143年の出家。子の隆信は1142年生まれですから、生まれた
ばかりの隆信を置いて出家したことになります。
妻の「加賀」は後に俊成と結婚して定家を産んでいますから、
隆信は定家の同腹の兄にあたります。
詞花和歌集に少し納得できなかったようで、私撰の「後葉和歌集」
を編纂しています。これだけでも歌人として立派な業績です。
寂超は歴史物語の「今鏡」の作者である可能性も強く、もし寂超が
今鏡の作者であるのなら、歌人にとどまらず大変な文学者であった
ということになります。
千載集初出歌人です。
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新院、歌あつめさせおはしますと聞きて、ときはに、
ためただが歌の侍りけるをかきあつめて参らせける、
大原より見せにつかはすとて
01 木のもとに散る言の葉をかく程にやがても袖のそぼちぬるかな
(寂超長門入道歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮929番)
02 年ふれど朽ちぬときはの言の葉をさぞ忍ぶらむ大原のさと
(西行歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮930番)
寂超入道、談議すと聞きてつかはしける
03 ひろむらむ法にはあはぬ身なりとも名を聞く数にいらざらめやは
(西行歌)(岩波文庫山家集215P釈教歌・新潮856番・西行上人集)
04 つたへきく流なりとも法の水汲む人からやふかくなるらむ
(寂超長門入道歌)(岩波文庫山家集215P釈教歌・新潮857番)
寂超ためただが歌に我が歌かき具し、又おとうとの寂然が
歌などとり具して新院へ参らせけるを、人とり伝へ参らせ
けると聞きて、兄に侍りける想空がもとより
05 家の風つたふばかりはなけれどもなどか散らさぬなげの言の葉
(想空法師歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮931番)
かくて静空・寂昭なんど侍りければ、もの語り申し
つつ連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、寂然
まできてせなかをあはせてゐて、連歌にしけり
06 家の風むねと吹くべきこのもとは今ちりなむと思ふ言の葉
(西行歌)(岩波文庫山家集179P雑歌・新潮932番)
07-1 思ふにもうしろあはせになりにけり
(前句、作者不明)(岩波文庫山家集265P残集14番)
この連歌こと人つくべからずと申しければ
07-2 うらがへりつる人の心は
(付句、西行)(岩波文庫山家集265P残集14番)
○新院、歌あつめさせ
新院とは崇徳院のこと。勅撰の詞花集のための歌稿を集めると
いうことです。
崇徳院には久安百首歌がありますが、こちらは当時に活躍して
いた歌人14名の百首歌集ですから、「歌あつめさせ」は詞花集の
ことであるのは間違いありません。
ところが寂超が父親の為忠の歌を清書して西行に見せましたが、
詞花集には為忠や三寂の歌は入集しませんでした。
そこで、寂超は1155年に「後葉和歌集」を編んでいます。詞花集に
対しての少なからぬ不満があったものと思います。
為忠の歌は詞花集より早い金葉集に入集しています。
参考までに西行存命中の勅撰集は以下の三集です。
◎ 金葉和歌集。
第五番目の勅撰集。1124年、白河院の院宣。撰者は源俊頼。
第一、第二の奏覧本は拒絶され、1126年の第三奏覧本が認めら
れる。1125年の第二奏覧本が金葉集として流布しています。
◎ 詞花和歌集。
第六番目の勅撰集。1144年、崇徳院の院宣。撰者は藤原顕輔。
第一次本の完成は1151年。評価の定まっていた後拾遺集歌人が
優遇されて当代歌人は冷遇されたとも言われます。
第二次本も奏上されました。崇徳院はさらに改撰希望のよう
でしたが、顕輔の死去によってなされませんでした。
寂超長門入道はこれを不満として1155年頃に「後葉集」を編纂
しています。
◎ 千載和歌集。
第七番目の勅撰集。1183年、後白河院の院宣。撰者は藤原俊成。
1188年の奏覧。その後も改訂作業が続いたようです。
詞花集と比較すると明らかに当代の歌人が重視されていて西行の
歌も円位法師名で18首入集しています。
保元、平治、それに続く源平争乱というこの時代の社会的な変化、
飢饉、疫病の流行、地震などの現象も反映しての、無常な世の中
を見据えての述懐的な歌が多いとも言えます。
○ときはに
地名。京都市右京区常盤のこと。常盤に藤原為忠の屋敷がありました。
○ためただ
藤原為忠。大原三寂の父です。金葉集初出歌人。1136年没。
○かく程に
(言の葉)を掻き集めると言うことと、書き集めて(清書する)と
いうことを掛け合わせています。
○そぼちぬる
涙でびっしょりと濡れること。
○談議
意見を述べ合って話し合うこと。書物、仏典などに書かれた意味や
内容を解説する講義のこと。仏教の教義を分かりやすく話して聞か
せる説法のこと。
寂超が天台仏教の摩訶止観の講義をしたものと思います。
摩訶止観とは止観とも言い、天台仏教の根幹とも言える天台教義の
奥義を伝える20巻にわたる実践法を説いた書物ですから、そんな
ものを講義する寂超はまぎれもなく天才だろうと思ったりします。
談議するということは、それなりに研鑚を積んだ高僧を思わせます。
しかしこの時、「和歌文学大系21」によると寂超は30歳代前半の
可能性があるようです。もしそうであるなら、西行はまだ30歳にも
なっていない時代かもしれません。
○法にはあはぬ
西行が寂超の談義する場に居合わすことができないということ。
参加したくてもできない距離的な意味ではないかと思います。
天台宗と真言宗の違いを言っているとも解釈できます。
しかし西行がもし高野山移住後であるにしても、西行を真言宗徒と
決めつける根拠は薄いはずですから、天台とか真言という区別は
それほど意味がないものと思われます。
○法の水
仏教を信じて崇拝する人々に、もたらされるとする功徳のこと。
衆生の煩悩を解消し解脱へと導くための法力のことを水に例えて
います。
私感でいえば、こういうことは仏教のとても悪い点であろうと
思います。
(01番歌の解釈)
「父が書いておいた歌稿を、再び自分が進覧すべく清書するうちに、
感に堪えずそのまま袖が涙に濡れてしまったことでありますよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「時を経ても常盤の里の常盤木のように、朽ちることのない和歌を
集められ、大原の里であなたはさぞ亡き父君のことを偲んで
おいででしょう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(03番歌の解釈)
「あなたの説法の場には参加できないのですが、名声を聞くひとり
にはきっと加わることになると思います。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(04番歌の解釈)
「釈迦自身の言葉ではなく、伝承を重ねた一流であっても、仏法で
あるかきりは、聞く人の心次第で深くも浅くもなるものてす。直接
参加いただけないのは残念ですが、法水はいつかあなたの心を潤す
ことでしょう。」
(和歌文学大系21から抜粋)
◎ 05番の想空歌以降は割愛します。先号の177号を参照願います。
【隆信】
美福門院加賀と寂超の子供で1142年生。没年は1205年。
艶福家としても著名で、建礼門院右京太夫の恋人でもありました。
隆信朝臣集があり、たくさんの歌を詠んでいます。
肖像画にも優れていて神護寺の源頼朝や平重盛の肖像画は隆信の
筆によるものと伝えられますが、異論もあります。
隆信は岩波文庫山家集には名前が出てきません。新潮版に一度のみ
出てきます。
◎ 賀茂の方にささきと申す里に、冬ふかく侍りけるに、
隆信など詣できて、山家恋と言ふことを詠みけるに
筧にも 君がつららや 結ぶらん 心細くも 絶えぬなるかな
(新潮日本古典集成山家集609番恋歌)
◎ 賀茂のかたに、ささきと申す里に冬深く侍りけるに、
人々まうで来て、山里の恋といふことを
かけひにも君がつららや結ぶらむ心細くもたえぬなるかな
(岩波文庫山家集146P恋歌)
(歌の解釈)
「筧にも、恋しいあの人の心のようにつめたい氷が結んだので
あろうか、細々と流れていた水も心細いことに絶えてしまった。
あの人との仲が絶えてしまったように。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
◎ 美福門院の御骨、高野の菩提心院へわたされけるを
見たてまつりて
今日や君おほふ五つの雲はれて心の月をみがき出づらむ
(岩波文庫山家集201P哀傷歌・新潮欠番・西行上人集)
美福門院は1160年11月に崩御して12月の初めに高野山の菩提心院に
葬られたのですが、その時には隆信は藤原成通などと共に高野山まで
供奉したことが知られています。当日は豪雪だったようです。
【寂念(為業)】
山家集に「寂念」名の人物は登場しませんが、藤原為業のことです。
為業は大原三寂とか常盤三寂と呼ばれる内の一人ですが、ここでは
寂念とします。
藤原為忠の長兄か、もしくは次男です。生没年は未詳。1182年頃に
弟の寂然と前後して没したものと思われます。
1158年から1166年までの間に剃髪、出家しています。
1172年「広田社歌合」、1175年「右大臣家(兼実)歌合」、1178年
「別雷社歌合」などに寂然とともに出席しています。
二条院内侍三河は寂然の娘です。
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為なり、ときはに堂供養しけるに、世をのがれて
山寺に住み侍りける親しき人々まうできたりと
聞きて、いひつかはしける
01 いにしへにかはらぬ君が姿こそ今日はときはの形見なるらめ
(西行歌)(岩波文庫山家集176P雑歌・新潮734番・
西行上人集・山家心中集・月詣集・西行物語)
02 色かへで独のこれるときは木はいつをまつとか人の見るらむ
(為なり歌)(岩波文庫山家集176P雑歌・新潮735番・
西行上人集・山家心中集・月詣集・西行物語)
為忠がときはに為業侍りけるに、西住・寂為まかりて、
太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、
まかりたりけり。有明と申す題をよみけるに
03 こよひこそ心のくまは知られぬれ入らで明けぬる月をながめて
(岩波文庫山家集264P残集13番)
○堂供養
仏堂を建築して法会をすることです。
現在でいえば新築祝いになるのでしょう。
○かはらぬ君が姿
昔と変わらずに在俗で活躍している為業を指します。
常盤の家を伝領した為業をねぎらっているようにも解釈できます。
○形見なるらめ
為業が常盤の家、為忠の形見を体現しているということです。
○色かへで
衣の色を墨染めのものに変えないことです。在俗を表します。
○独のこれるときは木
兄弟の内で一人だけ出家していないことを言います。あるいは
寂念には在俗のままでいることに対して罪悪感みたいなもの、
うしろめたさみたいな感情があったのかもしれません。
(01番歌の解釈)
「昔に変わることのない在俗のお姿こそ、堂供養の今日は、
常盤のあなたのお邸に集まった人々の中で、常盤にかわらぬ
形見でしたでしょうよ。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
(02番歌の解釈)
「常盤木の松のように衣の色も変ることなく、一人出家せず
残っている自分は、一体いつを待って出家することかと、
人々は見ていることでしょう。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
◎ 03番歌の解釈は割愛します。先号177号を参照願います。
【三河内侍】
寂念の娘です。生没年未詳。西行とは15歳から20歳ほどの年齢差が
あるようです。各歌合に出席しており、千載集初出の勅撰歌人です。
三河内侍は後白河天皇の子である二条天皇に仕えていました。
下の歌は二条院が1165年7月28日に23歳で崩御したあと、50日の
忌明けの時の歌です。ひなちが若干ずれているようにも思います。
御跡に三河内侍さぶらひけるに、九月十三夜
人にかはりて
◎ かくれにし君がみかげの恋しさに月に向ひてねをやなくらむ
(西行歌)(岩波文庫山家集205P哀傷歌・新潮793番)
◎ 我が君の光かくれし夕べよりやみにぞ迷ふ月はすめども
(三河内侍歌)(岩波文庫山家集205P哀傷歌・新潮794番)
○ねをやなくらむ
「音をや泣くらむ」で、あたりはばからず声を上げて泣く事です。
○光かくれし
「光」は天皇。「かくれし」は崩御したということ。
○夕べより
ここでは昨日の夕方という意味ではなく、二条院が死亡した
7月28日の夕べということです。
(01番歌の解釈)
「あまりの月の美しさに、亡き天皇の面影が恋しくなって、月に
向かって声を上げて泣いていらっしゃるのでしょうか。」
(和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)
「我が天皇が崩御されたその夕方から、私は光を失って、闇路に
迷っております。どんなに月が美しくても、天皇の光には及ぶ
べくもありません。」
(和歌文学大系21から抜粋)
三河内侍の歌は千載集に3首あります。
◎ 衣手に落つる涙の色なくは露とも人にいはましものを
(二条院内侍三河 千載集740番)
【寂蓮】
生年は未詳、没年は1202年。60数歳で没しています。
父は藤原俊成の兄の醍醐寺の僧侶俊海。俊成の猶子となります。
30歳頃に出家。4人の男子の父親です。
数々の歌合に参加し、また百首歌も多く詠んでいます。
御子左家の一員として立派な活動をした歌人といえるでしょう。
新古今集の撰者でしたが完成するまでに没しています。
家集に「寂蓮法師集」があります。
西行の聞書集の原本の扉には藤原定家が「聞書集」としたためて
いて、本文は寂蓮の筆と言われています。
寂蓮は今宮神社の「やすらい祭」の囃子歌である「やすらい歌」の
歌詞を作り、書き残したとも伝えられます。今宮神社由緒略記に
見えるその書は、驚きに値するとても整った美しい文字です。
寂蓮のこの自筆書は京都国立博物館に所蔵されています。
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熊野に籠りたる頃正月に下向する人につけて遣しける
文の奥に、ただ今おぼゆることを筆にまかすと書きて
01 霞しく熊野がはらを見わたせば波のおとさへゆるくなりぬる
(西行歌)(岩波文庫山家集279P補遺・寂蓮法師集)
02 霞さへあはれかさぬるみ熊野の浜ゆふぐれをおもひこそやれ
(寂蓮法師)(岩波文庫山家集279P補遺・寂蓮法師集)
寂蓮、人々すすめて、百首の歌よませ侍りけるに、
いなびて、熊野に詣でける道にて、夢に、何事も衰へ
ゆけど、この道こそ、世の末にかはらぬものはあなれ、
猶この歌よむべきよし、別當湛快三位、俊成に申すと
見侍りて、おどろきながら此歌をいそぎよみ出だして、
遣しける奧に、書き付け侍りける
03 末の世もこの情のみかはらずと見し夢なくばよそに聞かまし
(岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・新古今集)
○熊野
和歌山県にある地名。熊野三山があり修験者の聖地ですが、特に
平安時代後期には皇室をはじめ庶民も盛んに熊野詣でをしました。
京都からは往復で600キロメートル以上あり、それを20日間ほどで
往復していますから当時の人たちの健脚ぶりがわかります。
熊野には熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社があります。
(み熊野)の(み)は美称の接頭語です。
ただし「三熊野」という時は、熊野三社を指します。
○熊野に籠りたる
西行自身が熊野大社に籠っていたことをいいます。「熊野がはら」
ということは熊野三社のうち熊野速玉大社「熊野新宮」に籠って
いたものと思われます。
熊野速玉大社は西行時代当時も熊野川近くにありました。
○下向
熊野詣でを済ませて帰途につく人を指しています。
○ゆるくなりぬる
季節が待望の春に向かうことの、待たれる気持を表しています。
○浜ゆふぐれ
花の「はまゆう」と、浜の夕暮の情景を重ね合わせています。
○寂蓮、人々すすめて
寂蓮が歌人たちに100首歌を勧めたということ。西行は初めは断った
のですが、夢の中に別当湛快が出て来て、湛快の言葉によって気持を
翻して100首歌を詠んで寂蓮に届けたものです。
この100首歌は現在に伝わっていません。
○いなびて
拒絶、否定を表すことば。
(いな)は否。(び)は接尾語。(て)は助詞。
○あなれ
(ありーなり)が変化して(あんーなり)となったもの。(あん)
は(有り=あり)の音便形。(なれ)は(なり)の活用形。
(あなれ)は(あんなれ)の(ん)を表記しない形です。
意味は「有る=ある」「あるだろう」と同義に考えていいと思います。
「あなれ」という言葉は源氏物語をはじめ、徒然草などにも用例が
多数あります。
○別当湛海三位、俊成に
岩波文庫山家集にたくさんあるミスのひとつです。
西行の時代は句読点はありませんでした。ですから校訂ミスで。
別当湛海は三位ではなく俊成が三位ですから、ここは「別当湛海、
三位俊成に」となっていなくてはなりません。
○別当
官職の一つで、たくさんの別当職があります。さまざまな職掌に
おける長官が別当です。
寺社で言えば、東大寺、興福寺、法隆寺、祇園社、石清水八幡宮
などの最高責任者を別当といいます。醍醐寺や延暦寺は別当の
変わりに「座主」という言葉を用いていました。
熊野別当は熊野三山(三社)を管轄していました。
○別当湛快(べっとうたんかい)
第18代熊野別当。1099年から1174年まで存命と見られています。
1159年の平治の乱では、熊野参詣途上の平清盛に助勢しており、
平治の乱で清盛が勝利した原因の一つでもありました。
21代熊野別当となる湛快の子の湛増は、初めは平氏の味方でした
が、後に源氏側について熊野水軍を率いて平氏追討に活躍して
います。
西行は熊野修行などを通じて湛快、湛増父子とは面識ができた
ものと思われます。西行高野山時代に湛増も住坊を持っていた
とのことですので、湛増とは親しくしていた可能性もあります。
○この情のみ
和歌に対しての思いのこと。
寂然との贈答歌の183ページにある「ことの葉のなさけ」(マガジン
174号既出)と同義です。
(01番歌の解釈)
「霞が一面にたなびいている熊野の海面を見わたすと春になった
と見えて波の音までものんびりときこえてくる。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(02番歌の解釈)
「霞までもあわれな気持を重ねているみ熊野の浜の浜ゆふ
(夕ぐれをかける)の茂っている夕暮のあわれなけしきを思い
やることだ。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(03番歌の解釈)
「衰えて行く末の世でも、この風流の道のみは変わらないと見た
夢がなかったならば、この百首のこともよそ事に聞き流して
しまったであろう。」
(渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
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寂蓮高野にまうでて、深き山の紅葉と
いふことをよみける
◎ さまざまに錦ありけるみ山かな花見し嶺を時雨そめつつ
(西行歌)(岩波文庫山家集88P秋歌・新潮477番・
西行上人集・山家心中集)
この歌の「寂蓮」は「寂然」の誤りだろうと思います。
ただし岩波文庫山家集の底本の山家集類題本も寂蓮となって
いますから岩波文庫の校訂ミスではありません。
新潮日本古典集成山家集は寂然となっていますから、ここでも
「寂然」とします。29ページや70ページの贈答歌と情景は似て
いますが、この歌には寂然からの返しの歌がありません。
この歌の詞書は西行法師家集では以下のようになっています。
『寂然高野にまゐりて、深き山のもみぢといふ事を、宮の法印の
御庵室にて歌よむべきよし申し侍りしに参り会ひて』
寂然も高野山に登って、ともに宮の法印の庵で歌会をした時の詠歌
であることがわかります。
【重業障】
強い悪業によって生まれる、仏教教義上でいう重い障害のこと。
仏道に接する機縁や本人の成仏を妨げる障りのこと。
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若有重業障 無生浄土因 乗弥陀願力 即往安楽界
01 重き罪にふかき底にぞしづまましわたす筏ののりなかりせば
(岩波文庫山家集232P聞書集38番)
○安楽界
仏教にいう人の死後に行くべき世界の一つで極楽浄土のことです。
阿弥陀如来がいる世界ともいい、花が咲き乱れていて、一切の憂い
もなく楽しく過ごせる世界だそうです。
○のり
仏法の「法」と、筏の「乗り」を掛けています。
(01番歌の解釈)
「重い罪のために深い底に沈んでしまうだろう、安楽界に渡して
くれる弥陀の筏のような乗り物、仏教がなかったならば。」
(和歌文学大系21から抜粋)
【俊恵】
1113年出生、没年は不詳ですが1191年頃とみられています。
西行より5年早く生まれ、1年は遅く没しています。
父は源俊頼、母は橘敦隆の娘です。早くに出家して東大寺の僧と
なったのですが、脇目もふらずに仏道修行一筋に専念してきた僧侶
ではありません。僧の衣をまとっていたというだけで僧侶らしい
活動はほとんどしなかったようです。自由な世捨て人という感じ
ですが、多くの歌人との幅広い交流がありました。
白川の自邸を「歌林苑」と名付け、そこには藤原清輔・源頼政・殷富
門院大輔など多くの歌人が集って歌会・歌合を開催しました。
歌林苑サロンとして歌壇に大きな影響を与えたともいえます。
「詞花和歌集」以降の勅撰集歌人。家集に「林葉和歌集」があります。
小倉百人一首第85番に採られています。
◎ よもすがらもの思ふころは明けやらぬ 閨のひまさへつれなかりけり
(俊恵法師「千載和歌集」765番・百人一首85番)
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俊恵天王寺にこもりて、人々具して住吉にまゐり
歌よみけるに具して
01 住よしの松が根あらふ浪のおとを梢にかくる沖つしら波
(岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1054番・
西行上人集・山家心中集・続拾遺集・西行物語)
素覚がもとにて、俊恵などまかりあひて、述懐し侍りしに
02 なにごとにとまる心のありければさらにしもまた世のいとはしき
(岩波文庫山家集187P雑歌・新潮729番・西行上人集・
山家心中集・宮川歌合・新古今集・西行物語)
02番歌の詞書は岩波文庫及び新潮版ともに「俊恵」の名前はなく、
単に「述懐」とのみあります。
○天王寺にこもりて
摂津の国の四天王寺にこもっていたということです。
四天王寺の本尊は救世観世音菩薩ですから観音信仰による堂籠り
をしたということです。
四天王寺は日本最初の官製のお寺です。
○住吉
摂津の国の住吉大社そのもの、または住吉の地をいいます。
航海安全などを祈願する海の神様であり、同時に歌の神様としても
崇敬されていました。
○梢にかくる
松の梢にまで波がかかりくる、海の荒れた情景を言います。当時は
海のすぐ側に住吉大社はありました。
○素覚
俊成のいとこで俊成と同時代人とみられています。
俊恵の歌林苑に集っていたうちの一人です。千載集初出歌人です。
○とまる心
この歌では、捨てきれない思いのこと。気がかりなこととして
感じる心そのものを言います。
(01番歌の解釈)
「普段は住吉の松の根を洗うように波が寄せているが、沖に風が
立つと下枝どころか梢にまで白波がかかるのが聞こえる。」
(和歌文学大系21から抜粋)
この歌は俊恵の祖父の源経信の下の歌を参考にして詠んでいます。
俊恵に対しての礼儀みたいな気持ちが西行にあったものでしょう。
◎ 沖つ風吹きにけらしな住吉の松の下枝を洗ふ白波
(源経信 後拾遺集1063番)
(02番歌の解釈)
「この世の何事に執着心があるというので、出家し捨てたはずの
俗世が更にまたいとわしく思われるのであろうか。」
(新潮日本古典集成山家集から抜粋)
『天王寺こもりのこと』
平安時代中期には観音信仰が高まり、滋賀の石山寺、奈良の長谷寺
などの観音を本尊とするお寺などは、観音の縁日である十八日などに、
籠る風習があったそうです。奈良の長谷観音への参詣は「初瀬詣」
として、京都からも頻繁に行っていたことが「源氏物語」でも描か
れています。また、晦日籠りなども盛んに行われていました。
「平凡社 (京都市の地名) より抜粋」
山家集では清水寺や広隆寺の堂籠りの時の歌があります。
清水寺本尊は十一面千手観音、広隆寺は阿弥陀如来坐像を本尊と
しています。
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